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下田街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下田街道の位置(100x100内)
三島
河津
下田
伊豆半島の地勢と下田街道の位置関係

下田街道(しもだかいどう)は、東海道三島宿三島大社を起点に、伊豆の国市韮山・大仁・伊豆市湯ヶ島を通り、天城峠を越えて河津町梨本に至り、さらに小鍋峠を越え、下田市箕作・河内を経て下田に至る通計十七里十四町二十一歩の口伊豆(北伊豆)と奥伊豆(南伊豆)とを結ぶ幹線道路であった。江戸時代には下田路と呼ばれた。現在の国道414号(一部区間は国道136号と重複)にあたる。

歴史

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天城山伊豆を南北に分断し、北伊豆から隔てられた南伊豆では物資の輸送は海運に依存していたため、陸上路である三島 - 下田間の下田街道の整備・発達はかなり遅れたと考えられている。人馬の継立場が史料面から確認できたのは江戸中期の1742年(寛保2年)である。江戸幕府成立後、大半が天領だった伊豆国だが、1697年(元禄10年)を境に旗本領が増加し、のちに沼津藩領、掛川藩領、小田原藩領が各地に置かれたことから、江戸中期頃から通行が増加し、継立場が設置されたと考えられる。幕末、通行人の数が増大し盛況を呈したが、沿線の村々には人場継立等の負担が重くのしかかり、明治時代に至っても多大な借入金に苦しんだ。大正から昭和初期に入っても、下田街道は人の往来が主であり、物資輸送は海運が中心であった。

戦後の昭和後期には、モータリゼーションが起こるなどの交通事情の変化に伴って、新天城トンネルの開通や、日本最大規模のループ高架橋である河津七滝ループ橋が建設されるなど、現代の道路機能を備えることとなり[1]、下田街道の道筋は県道主要地方道)から一般国道414号に昇格した。

年表

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継立場の一覧

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天城を越えた人々

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下田街道ゆかりの作品

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脚注

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参考文献

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  • 「日本の道100選」研究会 著、国土交通省道路局(監修) 編『日本の道100選〈新版〉』ぎょうせい、2002年6月20日。ISBN 4-324-06810-0 
  • 「静岡県歴史の道・下田街道」静岡県教育委員会文化課(編)、静岡県文化財保存協会・平成7年発行
  • 下田街道:下田街道を歩いた体験記などを掲載した個人のホームページ[出典無効]

関連項目

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