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[[ファイル:Frederick II and eagle.jpg|thumb|right|200px|神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]。破門されたまま[[第5回十字軍|十字軍]]を組織しエルサレムを奪い返すなど大胆不敵な行為から当時の人々は「世界の驚異」とも「[[反キリスト]]」とも呼んでいる。画像は彼が著した[[鷹狩]]論『{{仮リンク|鳥類を利用した狩猟技術|en|De arte venandi cum avibus}}』に描かれた皇帝の肖像。]]
[[ファイル:Frederick II and eagle.jpg|thumb|right|200px|神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]。破門されたまま[[第5回十字軍|十字軍]]を組織しエルサレムを奪い返すなど大胆不敵な行為から当時の人々は「世界の驚異」とも「[[反キリスト]]」とも呼んでいる。画像は彼が著した[[鷹狩]]論『{{仮リンク|鳥類を利用した狩猟技術|en|De arte venandi cum avibus}}』に描かれた皇帝の肖像。]]
[[ファイル:Seventh crusade.jpg|thumb|right|250px|[[第7回十字軍]]。画像は南仏[[エーグ・モルト]]を出港し、[[マムルーク朝]]支配のエジプトに向かうフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]とその一行。聖王と称えられたルイ9世だがこの遠征には失敗し捕虜となる。]]
[[ファイル:Seventh crusade.jpg|thumb|right|250px|[[第7回十字軍]]。画像は南仏[[エーグ・モルト]]を出港し、[[マムルーク朝]]支配のエジプトに向かうフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]とその一行。聖王と称えられたルイ9世だがこの遠征には失敗し捕虜となる。]]
[[File:Sicilian Vespers 1281 How and after what manner the island of Sicily rebelled against King Charles Nuova Cronica Giovanni Villani 14th century.png|thumb|right|250px|[[シチリアの晩]]。[[ホーエンシュタウフェン家]]の断絶を機に[[シチリア]]支配から地中海帝国建設を思い描いた[[シャルル・ダンジュー]]だったが、彼の強圧的な支配に対抗して蜂起したシチリア島民によってその夢ははかなく潰えた。画像はこの事件を描いた[[ジョヴァンニ・ヴィッラーニ]]の『{{仮リンク|新年代記|en|Nuova Cronica}}』の挿絵。]]
[[File:Sicilian Vespers 1281 How and after what manner the island of Sicily rebelled against King Charles Nuova Cronica Giovanni Villani 14th century.png|thumb|right|250px|[[シチリアの晩]]。[[ホーエンシュタウフェン家]]の断絶を機に[[シチリア]]支配から地中海帝国建設を思い描いた[[シャルル・ダンジュー]]だったが、彼の強圧的な支配に対抗して蜂起したシチリア島民によってその夢ははかなく潰えた。画像はこの事件を描いた[[ジョヴァンニ・ヴィッラーニ]]の『{{仮リンク|新年代記|en|Nuova Cronica}}』の挿絵。]]
[[ファイル:Cathedrale nd chartres vitraux015.jpg|thumb|right|250px|[[シャルトル大聖堂]]。盛期[[ゴシック様式]]を代表するフランスの教会建築で、画像にあるバラ窓[[ステンドグラス]]が有名であり、その深みのある青は「シャルトルの青」の異名で知られている。]]
[[ファイル:Cathedrale nd chartres vitraux015.jpg|thumb|right|250px|[[シャルトル大聖堂]]。盛期[[ゴシック様式]]を代表するフランスの教会建築で、画像にあるバラ窓[[ステンドグラス]]が有名であり、その深みのある青は「シャルトルの青」の異名で知られている。]]
[[ファイル:St-thomas-aquinas.jpg|thumb|right|200px|[[トマス・アクィナス]]。盛期[[スコラ学]]を代表する[[ドミニコ会]]の神学者で、理性と信仰を結び付ける壮大な著作『[[神学大全]]』をまとめ、「天使博士」の称号を得た。画像は15世紀の[[カルロ・クリヴェッリ]]によるもの。]]
[[ファイル:St-thomas-aquinas.jpg|thumb|right|200px|[[トマス・アクィナス]]。盛期[[スコラ学]]を代表する[[ドミニコ会]]の神学者で、理性と信仰を結び付ける壮大な著作『[[神学大全]]』をまとめ、「天使博士」の称号を得た。画像は15世紀の[[カルロ・クリヴェッリ]]によるもの。]]
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* 1207年
* 1207年
** [[承元の法難]]。
** [[承元の法難]]。
** 南宋の韓侂冑が暗殺される。
** 南宋の韓侂冑が暗殺される(玉津園の変)
* 1208年
* 1208年
** 南宋と金の{{仮リンク|嘉定の和議|zh|嘉定和议}}。
** 南宋と金の{{仮リンク|嘉定の和議|zh|嘉定和议}}。
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*** 甥で下手人の[[公暁]]も誅殺され、[[源氏]]の嫡流が途絶える。
*** 甥で下手人の[[公暁]]も誅殺され、[[源氏]]の嫡流が途絶える。
*** 大内守護[[源頼茂]]の乱に伴い[[大内裏]]([[仁寿殿]]ほか)が炎上する。
*** 大内守護[[源頼茂]]の乱に伴い[[大内裏]]([[仁寿殿]]ほか)が炎上する。
** 修道士フランチェスコがエジプトに赴き、マムルーク朝スルタンの[[アル・カーミル]]と会見する。
** [[デンマーク王]][[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]が[[エストニア]]に侵攻し、[[トームペア城]](現在の[[タリン]])を築く。
** [[デンマーク王]][[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]が[[エストニア]]に侵攻し、[[トームペア城]](現在の[[タリン]])を築く。


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* 1233年
* 1233年
** 教皇[[グレゴリウス9世]]が[[異端審問]]制度を導入し、[[ドミニコ会]]に審問を委託する。
** 教皇[[グレゴリウス9世]]が[[異端審問]]制度を導入し、[[ドミニコ会]]に審問を委託する。
** [[シュテディンガー十字軍]]( - [[1234年]])。
* 1234年
* 1234年
** モンゴルが[[蔡州 (河南省)|蔡州]]城を制圧し、金が滅ぼされる。
** モンゴルが[[蔡州 (河南省)|蔡州]]城を制圧し、金が滅ぼされる。
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** {{仮リンク|キリーナの戦い|en|Battle of Kirina}}で[[スンジャタ・ケイタ]]の率いる[[マンディンカ族]]が、{{仮リンク|スースー王国|en|Sosso Empire}}から独立し、[[マリ王国]]を建国。
** {{仮リンク|キリーナの戦い|en|Battle of Kirina}}で[[スンジャタ・ケイタ]]の率いる[[マンディンカ族]]が、{{仮リンク|スースー王国|en|Sosso Empire}}から独立し、[[マリ王国]]を建国。
* 1236年
* 1236年
** カスティーリャがイスラム支配下の[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]を奪取。
** カスティーリャ王フェルナンド3世がイスラム支配下の[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]を奪取({{仮リンク|コルドバ包囲戦 (1236年)|en|Siege of Córdoba (1236)}})
** モンゴルの[[バトゥ]]の征西が始まり、[[ヴォルガ川]]を超える。
** モンゴルの[[バトゥ]]の征西が始まり、[[ヴォルガ川]]を超える。
** [[九条道家]]が[[円爾]]を開山に迎え京都[[東福寺]]が創建される。
** [[九条道家]]が[[円爾]]を開山に迎え京都[[東福寺]]が創建される。
** 高麗[[高宗]]の命で[[高麗八万大蔵経]]の作成が始まる( - [[1251年]])(現在は[[伽耶山]][[海印寺]]が所蔵)。
** 高麗[[高宗 (高麗王)|高宗]]の命で[[高麗八万大蔵経]]の作成が始まる( - [[1251年]])(現在は[[伽耶山]][[海印寺]]が所蔵)。
* 1238年
* 1238年
** [[タイ王国|タイ]]で[[スコータイ朝]]成立。
** [[タイ王国|タイ]]で[[スコータイ朝]]成立。
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** [[道元]]が[[越前国|越前]][[永平寺]]を開く。
** [[道元]]が[[越前国|越前]][[永平寺]]を開く。
** [[エルサレム攻囲戦 (1244年)|エルサレムが再びアイユーブ朝に奪回される]]。[[ラ・フォルビーの戦い]]。
** [[エルサレム攻囲戦 (1244年)|エルサレムが再びアイユーブ朝に奪回される]]。[[ラ・フォルビーの戦い]]。
** 最後の[[カタリ派]]の根拠地[[モンセギュール]]が陥落する。
** 最後の[[カタリ派]]の根拠地[[モンセギュール (アリエージュ県)|モンセギュール]]が陥落する。
* 1245年
* 1245年
** [[第1リヨン公会議]]。
** [[第1リヨン公会議]]。
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** 後嵯峨天皇が譲位し、第89代[[後深草天皇]]が即位。
** 後嵯峨天皇が譲位し、第89代[[後深草天皇]]が即位。
** [[北条時頼]]が鎌倉幕府第5代執権に就任。[[宮騒動|寛元の政変]](宮騒動)。
** [[北条時頼]]が鎌倉幕府第5代執権に就任。[[宮騒動|寛元の政変]](宮騒動)。
** 摂政監国ドレゲネ召集のクリルタイでモンゴル帝国第3代皇帝[[グユク]]が即位。
** 摂政監国[[ドレゲネ]]召集のクリルタイでモンゴル帝国第3代皇帝[[グユク]]が即位。
*** グユクに教皇使節プラノ・カルピニが会見する。
*** グユクに教皇使節プラノ・カルピニが会見する。
*** 教皇宛に送られた「[[プラノ・カルピニ#グユク・ハンの勅書|グユク・ハンの勅書]]([[ヴァティカン図書館]]蔵)」はこの時のもの。
*** 教皇宛に送られた「[[プラノ・カルピニ#グユク・ハンの勅書|グユク・ハンの勅書]]([[ヴァティカン図書館]]蔵)」はこの時のもの。
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** パリ・[[シテ島]]の[[サント・シャペル]]教会が献堂される。
** パリ・[[シテ島]]の[[サント・シャペル]]教会が献堂される。
** [[ケルン大聖堂]]が着工される(最終的な完成は[[1880年]])。
** [[ケルン大聖堂]]が着工される(最終的な完成は[[1880年]])。
** グユク・カンが死去。グユクの皇后オグルガイミシュが摂政監国として国政を担当。
** グユク・カンが死去。グユクの皇后[[オグルガイミシュ]]が摂政監国として国政を担当。
** [[マリーン朝]]が[[フェズ]]を都として建国される。
** [[マリーン朝]]が[[フェズ]]を都として建国される。
* 1249年
* 1249年
338行目: 340行目:
** ポルトガル王[[アフォンソ3世]]が[[コインブラ]]から[[リスボン]]に遷都。
** ポルトガル王[[アフォンソ3世]]が[[コインブラ]]から[[リスボン]]に遷都。
** [[聖ラザロ騎士団]]が教皇に正式に認可される。
** [[聖ラザロ騎士団]]が教皇に正式に認可される。
** ドイツ騎士団により[[ケーニヒスベルク]]が建設される。
** ドイツ騎士団により[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]が建設される。
* 1256年
* 1256年
** [[北条長時]]が鎌倉幕府第6代執権に就任。
** [[北条長時]]が鎌倉幕府第6代執権に就任。
344行目: 346行目:
** 教皇[[アレクサンデル4世 (ローマ教皇)|アレクサンデル4世]]により各地の隠修士団体が統合され[[聖アウグスチノ修道会|聖アウグスティノ修道会]]が成立する。
** 教皇[[アレクサンデル4世 (ローマ教皇)|アレクサンデル4世]]により各地の隠修士団体が統合され[[聖アウグスチノ修道会|聖アウグスティノ修道会]]が成立する。
* 1257年
* 1257年
** [[インドネシア]]・[[ロンボク島]]のサマラス火山([[リンジャニ山]]東側カルデラ)の大噴火。
** [[インドネシア]]・[[ロンボク島]]の{{仮リンク|サマラス火山|en|1257 Samalas eruption}}([[リンジャニ山]]東側カルデラ)の大噴火。
** アラムート城砦の[[ニザール派]]がモンゴルに降伏する。
** アラムート城砦の[[ニザール派]]がモンゴルに降伏する。
** 正嘉鎌倉地震。
** 正嘉鎌倉地震。
401行目: 403行目:
*** 運河として通恵河が開削され、物資の集積地である都市内港の積水潭が建設される。
*** 運河として通恵河が開削され、物資の集積地である都市内港の積水潭が建設される。
** [[忍性]]を開山として[[極楽寺 (鎌倉市)|鎌倉極楽寺]]が整備される。
** [[忍性]]を開山として[[極楽寺 (鎌倉市)|鎌倉極楽寺]]が整備される。
** {{仮リンク|ムールベケのグイレルムス|en|William of Moerbeke}}が[[アリストテレス]]『[[霊魂論]](デ・アニマ)』をギリシア語原典から直接ラテン語に翻訳。
** [[ムールベケのグイレルムス]]が[[アリストテレス]]『[[霊魂論]](デ・アニマ)』をギリシア語原典から直接ラテン語に翻訳。
* 1268年
* 1268年
** [[北条時宗]]が鎌倉幕府第8代執権に就任。
** [[北条時宗]]が鎌倉幕府第8代執権に就任。
425行目: 427行目:
** マムルーク朝のバイバルスが十字軍の城[[クラック・デ・シュヴァリエ]]を攻略。
** マムルーク朝のバイバルスが十字軍の城[[クラック・デ・シュヴァリエ]]を攻略。
** イギリス王太子[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード]]による[[第9回十字軍]]。
** イギリス王太子[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード]]による[[第9回十字軍]]。
*** 王子エドワードはイルハン朝の[[アバカ]]へ使者を送る([[フランクとモンゴルの同盟#アバカ (1265–1282)|アバカとの同盟]])。
** 元使の[[趙良弼]]が来日。
** 元使の[[趙良弼]]が来日。
** [[龍ノ口法難]]の後、日蓮が[[佐渡島]]に流される。
** [[龍ノ口法難]]の後、日蓮が[[佐渡島]]に流される。
440行目: 443行目:
** 文永新制。
** 文永新制。
* 1274年
* 1274年
** [[第2リヨン公会議]]。
** [[元寇#文永の役|文永の役]]。
** [[元寇#文永の役|文永の役]]。
** [[第2リヨン公会議]]。
** [[サン・ドニ大聖堂|サン・ドニ修道院]]による『{{仮リンク|フランス大年代記|en|Grandes Chroniques de France}}』プリマ版がフランス王フィリップ3世に献呈される。
* 1275年
* 1275年
** 北条時宗の命で元の使者[[杜世忠]]らを龍ノ口刑場で斬る。
** 北条時宗の命で元の使者[[杜世忠]]らを龍ノ口刑場で斬る。
477行目: 481行目:
** 教皇[[マルティヌス4世 (ローマ教皇)|マルティヌス4世]]が東ローマ皇帝ミカエル8世を破門にする。
** 教皇[[マルティヌス4世 (ローマ教皇)|マルティヌス4世]]が東ローマ皇帝ミカエル8世を破門にする。
* 1282年
* 1282年
** [[シチリアの晩]]事件。
** [[シチリアの晩]]事件。
** ウェールズ公[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]がイングランド王エドワード1世に敗れ、ウェールズは独立を喪失。
** ウェールズ公[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]がイングランド王エドワード1世に敗れ、ウェールズは独立を喪失。
** 神聖ローマ皇帝ルドルフ1世が[[オーストリア]]・[[シュタイアーマルク]]を獲得。
** 神聖ローマ皇帝ルドルフ1世が[[オーストリア]]・[[シュタイアーマルク]]を獲得。
515行目: 519行目:
** ポルトガル王国の[[ディニス1世]]が[[コインブラ大学]]を創設する。
** ポルトガル王国の[[ディニス1世]]が[[コインブラ大学]]を創設する。
* 1291年
* 1291年
** イルハン国の[[アルグン]]の書簡が教皇ニコラウス4世とフランス王フィリップ4世のもとに届く。
** マムルーク朝の[[アシュラフ・ハリール]]が十字軍の最後の拠点の[[アッコの陥落|アッコを陥落]]させる。
** マムルーク朝の[[アシュラフ・ハリール]]が十字軍の最後の拠点の[[アッコの陥落|アッコを陥落]]させる。
** [[ジェノヴァ]]商人[[ヴィヴァルディ兄弟]]が地中海から[[モロッコ]]に到達し大西洋へと出航する。
** [[ジェノヴァ]]商人[[ヴィヴァルディ兄弟]]が地中海から[[モロッコ]]に到達し大西洋へと出航する。
523行目: 528行目:
** [[鎌倉大地震]](永仁鎌倉地震)。この地震の混乱で[[平頼綱]]が誅殺される([[平禅門の乱]])。
** [[鎌倉大地震]](永仁鎌倉地震)。この地震の混乱で[[平頼綱]]が誅殺される([[平禅門の乱]])。
** [[竹崎季長]]が『[[蒙古襲来絵詞]]』を完成させ、[[甲佐神社]]へ奉納する。
** [[竹崎季長]]が『[[蒙古襲来絵詞]]』を完成させ、[[甲佐神社]]へ奉納する。
** [[モンゴルのジャワ侵攻|元のジャワ遠征]]。
** 元から来た[[コケジン]]が[[ホルムズ]]に到着する。
** 元から来た[[コケジン]]が[[ホルムズ]]に到着する。
** [[ポルトガル]]王[[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]が海難事故に備えての商人たちの共同基金を認可([[海上保険]]の始まり)。
* 1294年
* 1294年
** {{仮リンク|ラデン・ウィジャヤ|en|Raden Wijaya}}が元朝をジャワから追い払い、[[マジャパヒト王国]]を建てる。
** {{仮リンク|ラデン・ウィジャヤ|en|Raden Wijaya}}が元朝をジャワから追い払い、[[マジャパヒト王国]]を建てる。
548行目: 555行目:
* 1299年
* 1299年
** [[オスマン1世]]が[[イェニシェヒル (ブルサ県)|イェニシェヒル]]を占領、ルーム・セルジューク朝から独立を宣言し[[オスマン朝]]成立。
** [[オスマン1世]]が[[イェニシェヒル (ブルサ県)|イェニシェヒル]]を占領、ルーム・セルジューク朝から独立を宣言し[[オスマン朝]]成立。
** 教皇ボニファティウス8世の命で[[コロンナ家]]の反乱が鎮圧され、[[パレストリーナ]]市街が破壊される。
** 元の成宗が禅僧[[一山一寧]]を使者として日本に送る。
** 元の成宗が禅僧[[一山一寧]]を使者として日本に送る。
** 『[[一遍聖絵]](一遍上人絵伝)』([[清浄光寺]]蔵)が[[円伊]]によって描かれる。
** 『[[一遍聖絵]](一遍上人絵伝)』([[清浄光寺]]蔵)が[[円伊]]によって描かれる。
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=== イスラム世界 ===
=== イスラム世界 ===
* [[ジャザリー]]([[1136年]] - [[1206年]]) - [[ジャズィーラ]]出身のアラブ人機械工学者・数学者・著書『巧妙な機械装置に関する知識の書』で知られる
* [[ジャザリー]]([[1136年]] - [[1206年]]) - [[ジャズィーラ]]出身のアラブ人機械工学者・数学者・著書『巧妙な機械装置に関する知識の書』で知られる
* [[ムハンマド・バフティヤール・ハルジー]](? - [[1206年]]) - [[インド・マムルーク朝]]の将軍・[[クトゥブッディーン・アイバク|アイバク]]に仕え[[ムスリム]]としてはじめて[[ベンガル地方|ベンガル]]を征服し仏教教団に打撃を与えた
* ラーヴァンディー(? - [[1207年]]以降) - ルーム・セルジューク朝に仕えた歴史家・同王朝の歴史書『胸の安らぎと喜びの証し』を執筆
* ラーヴァンディー(? - [[1207年]]以降) - ルーム・セルジューク朝に仕えた歴史家・同王朝の歴史書『胸の安らぎと喜びの証し』を執筆
* [[ファリードゥッディーン・アッタール|アッタール]]([[1140年]]代頃 - [[1221年]]頃) - [[ペルシア]]の[[神秘主義]]詩人・代表作に『[[鳥の言葉]]』『神秘主義聖者列伝』がある
* [[ファリードゥッディーン・アッタール|アッタール]]([[1140年]]代頃 - [[1221年]]頃) - [[ペルシア]]の[[神秘主義]]詩人・代表作に『[[鳥の言葉]]』『神秘主義聖者列伝』がある
585行目: 594行目:
* [[ムハンマド・ナースィル]](? - [[1213年]]) - ムワッヒド朝の第4代[[アミール]](在位[[1198年]] - [[1213年]])・[[ナバス・デ・トロサの戦い]]で敗北
* [[ムハンマド・ナースィル]](? - [[1213年]]) - ムワッヒド朝の第4代[[アミール]](在位[[1198年]] - [[1213年]])・[[ナバス・デ・トロサの戦い]]で敗北
* [[ジャラールッディーン・メングベルディー]](? - [[1231年]]) - [[ホラズム・シャー朝]]の第8代スルターン(在位[[1220年]] - [[1231年]])・モンゴル軍の西征に抵抗
* [[ジャラールッディーン・メングベルディー]](? - [[1231年]]) - [[ホラズム・シャー朝]]の第8代スルターン(在位[[1220年]] - [[1231年]])・モンゴル軍の西征に抵抗
* ヤフーヤ・イブン・マフムート・アル・ワ(13世紀前半) - バグダードの挿絵画家・[[アル・ハリーリー]]の『[[マカーマ (文学)|マカーマート]]』の挿絵で有名
* {{仮リンク|ヤフーヤ・イブン・マフムート・アル・ワシティ|en|Yahya ibn Mahmud al-Wasiti}}(13世紀前半) - バグダードの挿絵画家・[[アル・ハリーリー]]の『[[マカーマ (文学)|マカーマート]]』の挿絵で有名
* ファリドゥッディーン・ガニシャカル([[1173年]] - [[1266年]]) - インドのイスラム神秘主義者・イスラム教と[[ヒンドゥー教]]の融和思想の基礎を築く
* ファリドゥッディーン・ガニシャカル([[1173年]] - [[1266年]]) - インドのイスラム神秘主義者・イスラム教と[[ヒンドゥー教]]の融和思想の基礎を築く
* [[ヤークート・アル=ハマウィー]]([[1179年]] - [[1229年]]) - アナトリア出身の地理学者・『地理学辞典』の他に『学者文人事典』『類語辞典』を編纂
* [[ヤークート・アル=ハマウィー]]([[1179年]] - [[1229年]]) - アナトリア出身の地理学者・『地理学辞典』の他に『学者文人事典』『類語辞典』を編纂
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* [[サアディー]]([[1184年]]? - [[1291年]]?) - ペルシアの神秘主義詩人・『果樹園』『[[薔薇園 (書籍)|薔薇園]]』の著者・サアディー廟も有名
* [[サアディー]]([[1184年]]? - [[1291年]]?) - ペルシアの神秘主義詩人・『果樹園』『[[薔薇園 (書籍)|薔薇園]]』の著者・サアディー廟も有名
* [[イブン・バイタール]]([[1188年]] - [[1248年]]) - アンダルシア出身の医師・植物学者。アル=カーミルに仕え『薬と栄養全書』ほかを執筆
* [[イブン・バイタール]]([[1188年]] - [[1248年]]) - アンダルシア出身の医師・植物学者。アル=カーミルに仕え『薬と栄養全書』ほかを執筆
* ムハンマド1世([[1191年]] - [[1272年]]) - [[ナスル朝]]の初代君主(在位[[1238年]] - [[1272年]])・第三次ターイファ時代を制し[[グラナダ]]に勢力を確立
* [[ムハンマド1世 (ナスル朝)|ムハンマド1世]]([[1191年]] - [[1272年]]) - [[ナスル朝]]の初代君主(在位[[1238年]] - [[1272年]])・第三次ターイファ時代を制し[[グラナダ]]に勢力を確立
* ジューズジャーニー([[1193年]]? - ?) - 奴隷王朝のイラン人歴史家・君主[[シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ|イルトゥトゥミシュ]]に仕え主著に『タバカーテ・ナースィリー』がある
* ジューズジャーニー([[1193年]]? - ?) - 奴隷王朝のイラン人歴史家・君主[[シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ|イルトゥトゥミシュ]]に仕え主著に『タバカーテ・ナースィリー』がある
* [[ナスィールッディーン・トゥースィー]]([[1201年]] - [[1274年]]) - ペルシアの学者・『ナースィルの倫理学』や『[[イルハン天文表]]』がある
* [[ナスィールッディーン・トゥースィー]]([[1201年]] - [[1274年]]) - ペルシアの学者・『ナースィルの倫理学』や『[[イルハン天文表]]』がある
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* [[ジャン・ド・ブリエンヌ]]([[1148年]] - [[1237年]]) - エルサレム王(在位[[1210年]] - [[1212年]])・ラテン帝国皇帝(在位[[1231年]] - [[1237年]])
* [[ジャン・ド・ブリエンヌ]]([[1148年]] - [[1237年]]) - エルサレム王(在位[[1210年]] - [[1212年]])・ラテン帝国皇帝(在位[[1231年]] - [[1237年]])
* [[ニケタス・コニアテス]]([[1150年]] - [[1213年]]) - 東ローマ帝国の政治家・第4回十字軍に遭遇して亡命・歴史家として『年代記』を執筆
* [[ニケタス・コニアテス]]([[1150年]] - [[1213年]]) - 東ローマ帝国の政治家・第4回十字軍に遭遇して亡命・歴史家として『年代記』を執筆
* ゲオルギオス・アクロポリテス([[1217年]] - [[1282年]]) - 東ローマ帝国の帝都大学総長・[[第2リヨン公会議]]に出席・歴史家として『年代記』を執筆
* {{仮リンク|ゲオルギオス・アクロポリテス|en|Georgios Akropolites}}([[1217年]] - [[1282年]]) - 東ローマ帝国の帝都大学総長・[[第2リヨン公会議]]に出席・歴史家として『年代記』を執筆
* [[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]([[1224年]] - [[1282年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[1261年]] - [[1282年]])・ラテン帝国を滅ぼし[[パレオロゴス朝]]の創始者となる
* [[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]([[1224年]] - [[1282年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[1261年]] - [[1282年]])・ラテン帝国を滅ぼし[[パレオロゴス朝]]の創始者となる
* グレゴリオス・パキュメレス([[1242年]] - [[1310年]]) - 東ローマ帝国の学者・アクロポリテスの著作を継ぐ『歴史』を書く・東西教会合同には反対
* {{仮ンク|ゲオルギオス・パキュメレス|en|George Pachymeres}}([[1242年]] - [[1310年]]) - 東ローマ帝国の学者・アクロポリテスの著作を継ぐ『歴史』を書く・東西教会合同には反対


==== 東欧・カフカス ====
==== 東欧・カフカス ====
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* [[ショタ・ルスタヴェリ]]([[1172年]] - [[1216年]]) - グルジアの詩人・官吏としてタマル女王に仕える・長編叙事詩『[[豹皮の騎士]]』を残す
* [[ショタ・ルスタヴェリ]]([[1172年]] - [[1216年]]) - グルジアの詩人・官吏としてタマル女王に仕える・長編叙事詩『[[豹皮の騎士]]』を残す
* [[サワ (セルビア大主教)|サヴァ]]([[1174年]]頃 - [[1236年]]) - セルビアの初代大主教・父[[ステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン)|ステファン・ネマニャ]]とともにヒランダル修道院を設立・正教会の聖人
* [[サワ (セルビア大主教)|サヴァ]]([[1174年]]頃 - [[1236年]]) - セルビアの初代大主教・父[[ステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン)|ステファン・ネマニャ]]とともにヒランダル修道院を設立・正教会の聖人
* [[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ2世]]([[1177年]] - [[1235年]]) - [[アールパード朝]]のハンガリー国王(在位[[1205年]] - [[1235年]])・[[第5回十字軍]]に参加・[[金印勅書]]を発布

* [[ミハイル2世 (キエフ大公)|ミハイル2世]]([[1179年]] - [[1246年]]) - チェルニゴフ公・キエフ大公(在位[[1238年]] - [[1246年]])・モンゴルに抵抗し殺害され聖人となる
* [[ミハイル2世 (キエフ大公)|ミハイル2世]]([[1179年]] - [[1246年]]) - チェルニゴフ公・キエフ大公(在位[[1238年]] - [[1246年]])・モンゴルに抵抗し殺害され聖人となる
* [[ヘンリク2世]]([[1196年]]頃 - [[1241年]]) - [[ピャスト朝]]の[[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]](在位[[1238年]] - [[1241年]])・ワールシュタットの戦いで戦死
* [[ヘンリク2世]]([[1196年]]頃 - [[1241年]]) - [[ピャスト朝]]の[[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]](在位[[1238年]] - [[1241年]])・ワールシュタットの戦いで戦死
* [[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]]([[1206年]] - [[1270年]]) - [[アールパード朝]]のハンガリー国王(在位[[1235年]] - [[1270年]])・モンゴル軍により荒廃したハンガリーを復興させる
* [[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]]([[1206年]] - [[1270年]]) - アールパード朝のハンガリー国王(在位[[1235年]] - [[1270年]])・モンゴル軍により荒廃したハンガリーを復興させる
* [[アレクサンドル・ネフスキー]]([[1220年]] - [[1263年]]) - [[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド公]]・[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]](在位[[1252年]] - [[1263年]])・中世ロシアの英雄
* [[アレクサンドル・ネフスキー]]([[1220年]] - [[1263年]]) - [[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド公]]・[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]](在位[[1252年]] - [[1263年]])・中世ロシアの英雄
* [[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]([[1230年]]? - [[1278年]]) - プシェミスル朝のボヘミア王(在位[[1253年]] - [[1278年]])・ルドルフ1世と神聖ローマ皇帝位を争い戦死
* [[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]([[1230年]]? - [[1278年]]) - プシェミスル朝のボヘミア王(在位[[1253年]] - [[1278年]])・ルドルフ1世と神聖ローマ皇帝位を争い戦死
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* {{仮リンク|チェラーノのトマス|en|Thomas of Celano}}([[1200年]]頃 - [[1265年]]頃) - フランシスコ会士・フランチェスコの『第一伝記』と『第二伝記』を執筆・聖歌「[[怒りの日]]」も有名
* {{仮リンク|チェラーノのトマス|en|Thomas of Celano}}([[1200年]]頃 - [[1265年]]頃) - フランシスコ会士・フランチェスコの『第一伝記』と『第二伝記』を執筆・聖歌「[[怒りの日]]」も有名
* {{仮リンク|ヴェローナのペトルス|en|Peter of Verona}}([[1206年]]頃 - [[1252年]]頃) - ドミニコ会士・異端審問官・説教で異端を論破したがミラノ近郊で殺害され列聖される
* {{仮リンク|ヴェローナのペトルス|en|Peter of Verona}}([[1206年]]頃 - [[1252年]]頃) - ドミニコ会士・異端審問官・説教で異端を論破したがミラノ近郊で殺害され列聖される
* {{仮リンク|ジョヴァンニ・ダ・プロチダ|en|John of Procida}}([[1210年]] - [[1298年]]) - 皇帝フリードリヒ2世の侍医・アラゴンや東ローマと組み・[[シチリアの晩]]事件を画策したか
* {{仮リンク|ジョヴァンニ・ダ・プロチダ|en|John of Procida}}([[1210年]] - [[1298年]]) - 皇帝フリードリヒ2世の侍医・アラゴンや東ローマと組み・[[シチリアの晩]]事件を画策したか
* {{仮リンク|ブルネット・ラティーニ|en|Brunetto Latini}}([[1210年]]頃 - [[1294年]]) - フィレンツェの政治家・詩人・[[ダンテ]]の師・当時の知識を網羅した百科全書『宝典』を編纂
* {{仮リンク|ブルネット・ラティーニ|en|Brunetto Latini}}([[1210年]]頃 - [[1294年]]) - フィレンツェの政治家・詩人・[[ダンテ]]の師・当時の知識を網羅した百科全書『宝典』を編纂
* [[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]([[1210年]]頃 - [[1296年]]) - ローマ教皇(在位1294年)・有徳の修道士だったが急遽教皇に選出される・半年で退位し列聖される
* [[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]([[1210年]]頃 - [[1296年]]) - ローマ教皇(在位1294年)・有徳の修道士だったが急遽教皇に選出される・半年で退位し列聖される
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* [[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]([[1155年]] - [[1214年]]) - [[カスティーリャ王]](在位[[1158年]] - [[1214年]])・[[ナバス・デ・トロサの戦い]]でムワッヒド朝に大勝
* [[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]([[1155年]] - [[1214年]]) - [[カスティーリャ王]](在位[[1158年]] - [[1214年]])・[[ナバス・デ・トロサの戦い]]でムワッヒド朝に大勝
* [[ドミニコ|ドミニコ・デ・グスマン]]([[1170年]] - [[1221年]]) - スペインの修道士・ドミニコ会(説教者兄弟会)の創設者
* [[ドミニコ|ドミニコ・デ・グスマン]]([[1170年]] - [[1221年]]) - スペインの修道士・ドミニコ会(説教者兄弟会)の創設者
* [[ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ]]([[1170年]]頃 - [[1247年]]) - スペインの聖職者・[[トレド]]大司教・レコンキスタの連携を斡旋・{{仮リンク|トレド翻訳学派|en|Toledo School of Translators}}を支援
* [[ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ]]([[1170年]]頃 - [[1247年]]) - スペインの聖職者・[[トレド]]大司教・レコンキスタの連携を斡旋・[[トレド翻訳学派]]を支援
* ライムンド・ペニャフォル([[1175年]]頃 - [[1275年]]) - スペインの修道士・ドミニコ会総長・教皇グレゴリウス9世に従い『教会教令集』を編纂
* ライムンド・ペニャフォル([[1175年]]頃 - [[1275年]]) - スペインの修道士・ドミニコ会総長・教皇グレゴリウス9世に従い『教会教令集』を編纂
* [[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]](征服王)([[1208年]] - [[1276年]]) - アラゴン王(在位[[1213年]] - [[1276年]])・イスラム領の[[バレアレス諸島]]や[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]を征服
* [[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]](征服王)([[1208年]] - [[1276年]]) - アラゴン王(在位[[1213年]] - [[1276年]])・イスラム領の[[バレアレス諸島]]や[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]を征服
* [[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]](賢王)([[1221年]] - [[1284年]]) - カスティーリャ国王(在位[[1251年]] - [[1282年]])・『[[アルフォンソ天文表]]』の編纂などで有名
* [[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]](賢王)([[1221年]] - [[1284年]]) - カスティーリャ国王(在位[[1251年]] - [[1282年]])・『[[アルフォンソ天文表]]』の編纂などで有名
* [[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]([[1239年]] - [[1285年]]) - アラゴン王(在位[[1276年]] - [[1285年]])・[[コンスタンサ・デ・シシリア|シチリア王女]]と結婚・[[シチリアの晩]]事件で[[シチリア王]]となる
* [[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]([[1239年]] - [[1285年]]) - アラゴン王(在位[[1276年]] - [[1285年]])・[[コンスタンサ・デ・シシリア|シチリア王女]]と結婚・[[シチリアの晩]]事件で[[シチリア王]]となる
* [[モーシェ・デ・レオン]]([[1250年]] - [[1305年]]) - カスティーリャのユダヤ教徒[[ラビ]]・[[カバラ|カバリスト]]・『柘榴の書』『ゾーハル』の著作がある
* [[モーシェ・デ・レオン]]([[1250年]] - [[1305年]]) - カスティーリャのユダヤ教徒[[ラビ]]・[[カバラ|カバリスト]]・『柘榴の書』『ゾーハル』の著作がある


==== フランス ====
==== フランス ====
* トゥールーズ伯レーモン6世([[1156年]] - [[1222年]]) - 南フランスの諸侯・フランス国王による[[アルビジョワ十字軍]]に対抗する
* [[レーモン6世 (トゥールーズ伯)|トゥールーズ伯レーモン6世]]([[1156年]] - [[1222年]]) - 南フランスの諸侯・フランス国王による[[アルビジョワ十字軍]]に対抗する
* {{仮リンク|盲目のイサク|en|Isaac the Blind}}([[1160年]]頃 - [[1235年]]) - 南フランスのユダヤ教[[ラビ]]・[[カバラ]]の「[[生命の樹 (旧約聖書)|生命の樹]](セフィロトの樹)」を体系化する
* {{仮リンク|盲目のイサク|en|Isaac the Blind}}([[1160年]]頃 - [[1235年]]) - 南フランスのユダヤ教[[ラビ]]・[[カバラ]]の「[[生命の樹 (旧約聖書)|生命の樹]](セフィロトの樹)」を体系化する
* ギヨーム・ド・ロリス(? - [[1240年]]) - フランスの詩人・薔薇の蕾に心を奪われた若者の愛のアレゴリー『[[薔薇物語]]』正編の作者
* ギヨーム・ド・ロリス(? - [[1240年]]) - フランスの詩人・薔薇の蕾に心を奪われた若者の愛のアレゴリー『[[薔薇物語]]』正編の作者
* [[ヴィラール・ド・オヌクール]](活躍時期[[1230年]] - [[1250年]]頃) - フランスの建築家・残された画帖は[[ゴシック様式]]の貴重な文献
* [[ヴィラール・ド・オヌクール]](活躍時期[[1230年]] - [[1250年]]頃) - フランスの建築家・残された画帖は[[ゴシック様式]]の貴重な文献
* {{仮リンク|ヘイルズのアレクサンデル|en|Alexander of Hales}}([[1170年]]/[[1185年]] - [[1245年]]) - パリ大学教授・神学者(不可抗博士)・フランシスコ学派の祖・著作に『神学大全』がある
* {{仮リンク|ヘイルズのアレクサンデル|en|Alexander of Hales}}([[1170年]]/[[1185年]] - [[1245年]]) - パリ大学教授・神学者(不可抗博士)・フランシスコ学派の祖・著作に『神学大全』がある
* {{仮リンク|オーヴェルニュのギヨーム|en|Guillaume d'Auvergne}}([[1180年]]頃 - [[1249年]]) - パリ司教・キリスト教神学にアリストテレスとイスラムの哲学を導入する
* [[ブランシュ・ド・カスティーユ]]([[1188年]] - [[1252年]]) - フランス王ルイ8世の王妃・息子ルイ9世の幼少期と十字軍の不在の時期に摂政を務める
* [[ブランシュ・ド・カスティーユ]]([[1188年]] - [[1252年]]) - フランス王ルイ8世の王妃・息子ルイ9世の幼少期と十字軍の不在の時期に摂政を務める
* {{仮リンク|ヴァンサン・ド・ボーヴェ|en|Vincent of Beauvais}}([[1190年]]頃 - [[1264年]]) - フランスのドミニコ会士・中世随一の百科全書『大いなる鏡』三部作を執筆
* {{仮リンク|ヴァンサン・ド・ボーヴェ|en|Vincent of Beauvais}}([[1190年]]頃 - [[1264年]]) - フランスのドミニコ会士・中世随一の百科全書『大いなる鏡』三部作を執筆
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* [[エティエンヌ・タンピエ]](? - [[1278年]]) - フランスのパリ司教・神学部での[[アリストテレス]]哲学講義に関し1270年と1277年に異端宣告を行う
* [[エティエンヌ・タンピエ]](? - [[1278年]]) - フランスのパリ司教・神学部での[[アリストテレス]]哲学講義に関し1270年と1277年に異端宣告を行う
* [[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]](聖王)([[1214年]] - [[1270年]]) - フランス国王(在位[[1226年]] - [[1270年]])・[[第7回十字軍]]と[[第8回十字軍]]を指揮・チュニスで病没
* [[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]](聖王)([[1214年]] - [[1270年]]) - フランス国王(在位[[1226年]] - [[1270年]])・[[第7回十字軍]]と[[第8回十字軍]]を指揮・チュニスで病没
* {{仮リンク|ムールベケのグイレルムス|en|William of Moerbeke}}([[1215年]]/[[1235年]]頃 - [[1286年]]頃) - フランスの翻訳者・アリストテレスの著作をギリシア語から直接翻訳しトマスに影響
* [[ムールベケのグイレルムス]]([[1215年]]/[[1235年]]頃 - [[1286年]]頃) - フランスの翻訳者・アリストテレスの著作をギリシア語から直接翻訳しトマスに影響
* [[ウィリアム・ルブルック|ギヨーム・ド・リュブリキ]]([[1220年]]? - [[1293年]]?) - フランシスコ会士・聖王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]によりモンゴルに派遣され『東方諸国旅行記』を残す
* [[ウィリアム・ルブルック|ギヨーム・ド・リュブリキ]]([[1220年]]? - [[1293年]]?) - フランシスコ会士・聖王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]によりモンゴルに派遣され『東方諸国旅行記』を残す
* [[ジャン・ド・ジョアンビル]]([[1224年]] - [[1317年]]) - フランスの伝記作家・第8回十字軍に従軍しルイ9世の伝記『聖王ルイの生涯』を執筆
* [[ジャン・ド・ジョアンビル]]([[1224年]] - [[1317年]]) - フランスの伝記作家・第8回十字軍に従軍しルイ9世の伝記『聖王ルイの生涯』を執筆
* ジャン・ド・マン([[1240年]]頃 - [[1305年]]) - フランスの詩人・ギヨーム・ド・ロリスの正編を継いで『薔薇物語』続編を執筆する
* ジャン・ド・マン([[1240年]]頃 - [[1305年]]) - フランスの詩人・ギヨーム・ド・ロリスの正編を継いで『薔薇物語』続編を執筆する
* ブラバンのシゲルス([[1240年]]頃 - [[1281年]]/[[1284年]]) - パリ大学の教授・[[イブン・ルシュド]](アヴェロエス)の哲学を導入し[[二重真理|二重真理説]]を提唱
* ブラバンのシゲルス([[1240年]]頃 - [[1281年]]/[[1284年]]) - パリ大学の教授・[[イブン・ルシュド]](アヴェロエス)の哲学を導入し[[二重真理|二重真理説]]を提唱
* [[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]([[1245年]] - [[1285年]]) - フランス国王(在位[[1270年]] - [[1285年]])・[[シチリアの晩]]事件からアラゴン十字軍を起こす
* [[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]([[1245年]] - [[1285年]]) - フランス国王(在位[[1270年]] - [[1285年]])・[[シチリアの晩]]事件からアラゴン十字軍を起こす
* {{仮リンク|ペトルス・ヨハネス・オリヴィ|en|Peter John Olivi}}([[1248年]] - [[1298年]]) - フランシスコ会士(厳格派)・売買や契約の概念に再検討を加える・『契約論』他がある
* {{仮リンク|ペトルス・ヨハネス・オリヴィ|en|Peter John Olivi}}([[1248年]] - [[1298年]]) - フランシスコ会士(厳格派)・売買や契約の概念に再検討を加える・『契約論』他がある
* {{仮リンク|トゥールーズのルイ|en|Louis of Toulouse}}([[1274年]] - [[1297年]]) - フランシスコ会士・[[トゥールーズ]]司教・ナポリ王カルロ2世の息子・聖人
* {{仮リンク|トゥールーズのルイ|en|Louis of Toulouse}}([[1274年]] - [[1297年]]) - フランシスコ会士・[[トゥールーズ]]司教・ナポリ王カルロ2世の息子・聖人
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* [[ジョン (イングランド王)|ジョン]](欠地王) ([[1167年]] - [[1216年]]) - イングランド王(在位[[1199年]] - [[1216年]])・大陸領土を喪失・教皇に破門される・[[大憲章]]を承認
* [[ジョン (イングランド王)|ジョン]](欠地王) ([[1167年]] - [[1216年]]) - イングランド王(在位[[1199年]] - [[1216年]])・大陸領土を喪失・教皇に破門される・[[大憲章]]を承認
* [[ロバート・グロステスト]]([[1175年]]? - [[1253年]]) - イングランドのリンカーン司教・[[オックスフォード大学]]総長・光学や自然哲学に貢献
* [[ロバート・グロステスト]]([[1175年]]? - [[1253年]]) - イングランドのリンカーン司教・[[オックスフォード大学]]総長・光学や自然哲学に貢献
* マシュー・パリス([[1200年]]頃 - [[1259年]]) - イングランドの歴史家・セントオルバーンズ修道院に所属し『大年代記(クロニカ・マヨラ)』を執筆
* {{仮リンク|マシュー・パリス|en|Matthew Paris}}([[1200年]]頃 - [[1259年]]) - イングランドの歴史家・セントオルバーンズ修道院に所属し『大年代記(クロニカ・マヨラ)』を執筆
* [[ヘンリー・ブラクトン]](? - [[1268年]]) - イングランドの[[ローマ法]]学者で聖職者・「国王といえども神と法の下にある」の句は有名
* [[ヘンリー・ブラクトン]](? - [[1268年]]) - イングランドの[[ローマ法]]学者で聖職者・「国王といえども神と法の下にある」の句は有名
* [[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]([[1207年]] - [[1272年]]) - イングランド王(在位[[1216年]] - [[1272年]])・諸侯の反乱を受けて議会の設置に同意する
* [[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]([[1207年]] - [[1272年]]) - イングランド王(在位[[1216年]] - [[1272年]])・諸侯の反乱を受けて議会の設置に同意する
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* シャキャーシュリーバトラ([[1127年]] - [[1225年]]) - インドのヴィクラマシーラ寺院最後の学頭・寺院破却後はチベットに亡命し仏教を伝える
* シャキャーシュリーバトラ([[1127年]] - [[1225年]]) - インドのヴィクラマシーラ寺院最後の学頭・寺院破却後はチベットに亡命し仏教を伝える
* [[サキャ・パンディタ]]([[1182年]] - [[1251年]]) - [[チベット]]の[[サキャ派]]の座主・シャーキャシュリーパドラの法を継ぐ・パクパは甥
* [[サキャ・パンディタ]]([[1182年]] - [[1251年]]) - [[チベット]]の[[サキャ派]]の座主・シャーキャシュリーパドラの法を継ぐ・パクパは甥
* {{仮リンク|マドヴァ|en|Madhvacharya}}([[1199年]] - [[1278年]]) - インドの思想家・ヴィシュヌ派からマドヴァ派を起こし[[シャンカラ]]派と対立・主著は『ブラフマ・スートラ注解』
* {{仮リンク|マドヴァ|en|Madhvacharya}}([[1199年]] - [[1278年]]) - インドの思想家・ヴィシュヌ派からマドヴァ派を起こし[[シャンカラ]]派と対立・主著は『[[ブラフマ・スートラ]]注解』
* [[パクパ]](パスパ)([[1235年]] - [[1280年]]) - チベットのサキャ派の座主・元のクビライに招請され帝師となり[[パスパ文字]]を作成
* [[パクパ]](パスパ)([[1235年]] - [[1280年]]) - チベットのサキャ派の座主・元のクビライに招請され帝師となり[[パスパ文字]]を作成
* ナラシンハ・デーヴァ1世(? - [[1264年]]) - インドの[[東ガンガ朝]]の君主(在位[[1238年]] - [[1264年]])・[[コナーラクのスーリヤ寺院]]を建設
* ナラシンハ・デーヴァ1世(? - [[1264年]]) - インドの[[東ガンガ朝]]の君主(在位[[1238年]] - [[1264年]])・[[コナーラクのスーリヤ寺院]]を建設
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* [[張即之]]([[1186年]] - [[1266年]]) - 南宋の官僚・書家・代表作に楷書「金剛般若波羅蜜経」がある・日本の禅林にもその書が招来される
* [[張即之]]([[1186年]] - [[1266年]]) - 南宋の官僚・書家・代表作に楷書「金剛般若波羅蜜経」がある・日本の禅林にもその書が招来される
* [[耶律楚材]]([[1190年]] - [[1244年]]) - モンゴル帝国の官僚・[[遼]]の[[契丹族]]の末裔・戸籍や税制で功績があったか
* [[耶律楚材]]([[1190年]] - [[1244年]]) - モンゴル帝国の官僚・[[遼]]の[[契丹族]]の末裔・戸籍や税制で功績があったか
* [[元好問]]([[1190年]] - [[1257年]]) - 金の官僚・詩人・金滅亡後は遺民として『中州集』『壬辰雑編』などの著作を残す
* {{仮リンク|李志常|zh|李志常}}([[1193年]] - [[1256年]]) - モンゴル帝国の道士・丘長春の弟子・『{{仮リンク|長春真人西遊記|zh|长春真人西游记}}』を執筆
* {{仮リンク|李志常|zh|李志常}}([[1193年]] - [[1256年]]) - モンゴル帝国の道士・丘長春の弟子・『{{仮リンク|長春真人西遊記|zh|长春真人西游记}}』を執筆
* [[孟珙]]([[1195年]] - [[1246年]]) - 南宋の将軍・金の滅亡に貢献・[[モンゴル・南宋戦争|モンゴル帝国との戦い]]では南宋の防衛線を守り通す
* [[孟珙]]([[1195年]] - [[1246年]]) - 南宋の将軍・金の滅亡に貢献・[[モンゴル・南宋戦争|モンゴル帝国との戦い]]では南宋の防衛線を守り通す
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* [[法然]]([[1133年]] - [[1212年]]) - [[浄土宗]]開祖・専修念仏を唱え『[[選択本願念仏集]]』を著す・親鸞の師
* [[法然]]([[1133年]] - [[1212年]]) - [[浄土宗]]開祖・専修念仏を唱え『[[選択本願念仏集]]』を著す・親鸞の師
* [[北条時政]]([[1138年]] - [[1215年]]) - 鎌倉幕府初代執権(在位[[1203年]] - [[1205年]])・梶原氏や比企氏を幕政から排除
* [[北条時政]]([[1138年]] - [[1215年]]) - 鎌倉幕府初代執権(在位[[1203年]] - [[1205年]])・梶原氏や比企氏を幕政から排除
* [[比企能員]](? - [[1203年]]) - [[御家人]]・[[右衛門尉]]・将軍源頼家の乳母父・北条氏と対立し[[比企能員の]]で滅ぼされる
* [[比企能員]](? - [[1203年]]) - [[御家人]]・[[右衛門尉]]・将軍源頼家の乳母父・北条氏と対立し[[比企能員の]]で滅ぼされる
* [[明菴栄西]]([[1141年]] - [[1215年]]) - [[臨済宗]]開祖・『興禅護国論』の著者・京都[[建仁寺]]ならびに鎌倉[[寿福寺]]開山
* [[明菴栄西]]([[1141年]] - [[1215年]]) - [[臨済宗]]開祖・『興禅護国論』の著者・京都[[建仁寺]]ならびに鎌倉[[寿福寺]]開山
* [[運慶]](? - [[1224年]]) - [[仏師]]・[[快慶]]らとともに[[慶派]]を大成・[[東大寺]][[南大門]][[金剛力士]]像などが代表作
* [[運慶]](? - [[1224年]]) - [[仏師]]・[[快慶]]らとともに[[慶派]]を大成・[[東大寺]][[南大門]][[金剛力士]]像などが代表作
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* [[明恵]]([[1173年]] - [[1232年]]) - [[華厳宗]]の僧・[[栂尾]]の[[高山寺]]開山・戒律の復興に尽くし『[[摧邪輪]]』や『夢記』を残す
* [[明恵]]([[1173年]] - [[1232年]]) - [[華厳宗]]の僧・[[栂尾]]の[[高山寺]]開山・戒律の復興に尽くし『[[摧邪輪]]』や『夢記』を残す
* [[後鳥羽天皇]]([[1180年]] - [[1239年]]) - 第82代[[天皇]](在位[[1185年]] - [[1198年]])・[[太上天皇|上皇]]となり承久の乱を起こす
* [[後鳥羽天皇]]([[1180年]] - [[1239年]]) - 第82代[[天皇]](在位[[1185年]] - [[1198年]])・[[太上天皇|上皇]]となり承久の乱を起こす
* [[源頼家]]([[1182年]] - [[1204年]]) - 鎌倉幕府第2代将軍(在任[[1202年]] - [[1203年]])・[[伊豆]][[修寺]]にて殺害される
* [[源頼家]]([[1182年]] - [[1204年]]) - 鎌倉幕府第2代将軍(在任[[1202年]] - [[1203年]])・[[伊豆]][[修寺]]にて殺害される
* [[北条泰時]]([[1183年]] - [[1242年]]) - 鎌倉幕府第3代執権(在任[[1224年]] - [[1242年]])・「御成敗式目」を制定
* [[北条泰時]]([[1183年]] - [[1242年]]) - 鎌倉幕府第3代執権(在任[[1224年]] - [[1242年]])・「御成敗式目」を制定
* [[慶政]]([[1189年]] - [[1268年]]) - 天台宗の僧・西山法華山寺開山・『渡宋記』『漂到琉球国記』のほか『[[閑居友]]』の作者ともされる
* [[源実朝]]([[1192年]] - [[1219年]]) - 鎌倉幕府第3代将軍(在任[[1203年]] - [[1219年]])・私家集に『[[金槐和歌集]]』がある
* [[源実朝]]([[1192年]] - [[1219年]]) - 鎌倉幕府第3代将軍(在任[[1203年]] - [[1219年]])・私家集に『[[金槐和歌集]]』がある
* [[九条道家]]([[1193年]] - [[1252年]]) - 公卿・摂政・関白・[[四条天皇]]の外祖父で将軍頼経の父として実権を握る・[[東福寺]]を建立
* [[九条道家]]([[1193年]] - [[1252年]]) - 公卿・摂政・関白・[[四条天皇]]の外祖父で将軍頼経の父として実権を握る・[[東福寺]]を建立
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* [[円爾]]([[1202年]] - [[1280年]]) - 臨済宗の僧・入宋して無準師範の法を嗣ぐ・京都[[東福寺]]開山・諡号は聖一国師
* [[円爾]]([[1202年]] - [[1280年]]) - 臨済宗の僧・入宋して無準師範の法を嗣ぐ・京都[[東福寺]]開山・諡号は聖一国師
* [[仙覚]]([[1203年]]? - [[1272年]]以降) - 天台宗の僧・将軍[[藤原頼経]]の命で『万葉集』諸本の校合し『萬葉集註釈(仙覚抄)』を執筆
* [[仙覚]]([[1203年]]? - [[1272年]]以降) - 天台宗の僧・将軍[[藤原頼経]]の命で『万葉集』諸本の校合し『萬葉集註釈(仙覚抄)』を執筆
* [[心地覚心]]([[1207年]] - [[1298年]]) - 臨済宗の僧・[[紀伊国]][[興国寺 (和歌山県由良町)|興国寺]]開山・[[無門慧開]]の法を継ぎ『[[無門関]]』を招来・[[径山寺味噌]]や[[普化宗]]でも有名
* [[謝国明]](? - [[1253年]]以前) - 貿易商人・[[杭州]]出身の宋人で博多綱首・博多[[承天寺]]の建立や杭州[[径山寺]]復興などで活躍
* [[謝国明]](? - [[1253年]]以前) - 貿易商人・[[杭州]]出身の宋人で博多綱首・博多[[承天寺]]の建立や杭州[[径山寺]]復興などで活躍
* [[忍性]]([[1217年]] - [[1303年]]) - 真言律宗の僧・叡尊の弟子で鎌倉[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]開山・病者や[[非人]]の救済に尽くす
* [[忍性]]([[1217年]] - [[1303年]]) - 真言律宗の僧・叡尊の弟子で鎌倉[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]開山・病者や[[非人]]の救済に尽くす
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* [[竹崎季長]]([[1246年]] - ?) - [[御家人]]・元寇で奮戦するも恩賞不足に苦しむ・「[[蒙古襲来絵詞]]」で知られる
* [[竹崎季長]]([[1246年]] - ?) - [[御家人]]・元寇で奮戦するも恩賞不足に苦しむ・「[[蒙古襲来絵詞]]」で知られる
* [[北条時宗]]([[1251年]] - [[1284年]]) - 鎌倉幕府第8代執権(在任[[1268年]] - [[1284年]])・幕府の中枢にあって元寇を斥ける
* [[北条時宗]]([[1251年]] - [[1284年]]) - 鎌倉幕府第8代執権(在任[[1268年]] - [[1284年]])・幕府の中枢にあって元寇を斥ける
* 浅原為頼(? - [[1290年]]) - 武将・甲斐源氏小笠原の一族・[[伏見天皇]]暗殺を謀り宮中に乱入・失敗して自殺する([[浅原事件]])
* [[浅原為頼]](? - [[1290年]]) - 武将・甲斐源氏小笠原の一族・[[伏見天皇]]暗殺を謀り宮中に乱入・失敗して自殺する([[浅原事件]])
* [[平頼綱]](? - [[1293年]]) - [[内管領]]・霜月騒動に勝利し権力を握るが[[平禅門の乱]]で落命する
* [[平頼綱]](? - [[1293年]]) - [[内管領]]・霜月騒動に勝利し権力を握るが[[平禅門の乱]]で落命する
* [[惟康親王]]([[1264年]] - [[1326年]]) - 鎌倉幕府第7代将軍(在任[[1266年]] - [[1289年]])・第6代将軍宗尊親王の子
* [[惟康親王]]([[1264年]] - [[1326年]]) - 鎌倉幕府第7代将軍(在任[[1266年]] - [[1289年]])・第6代将軍宗尊親王の子

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千年紀: 2千年紀
世紀: 12世紀 - 13世紀 - 14世紀
十年紀: 1200年代 1210年代 1220年代 1230年代 1240年代
1250年代 1260年代 1270年代 1280年代 1290年代
チンギス・ハン像。
モンゴル帝国の発展。
モンゴル帝国の最大領域。
フビライ・ハン像。

13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀

13世紀の歴史

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モンゴル帝国全盛(Pax Mongolica)

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13世紀は、チンギス・カンの興したモンゴル帝国ユーラシア大陸の大半を支配したため、モンゴルの世紀と呼ばれる。モンゴル帝国は交易を奨励、保護しユーラシア大陸を陸路、海路で結ぶ一大交易網が成立した(シルクロードの発展)。ユーラシア各地を多くの技術や情報が行き交い、世界史の転換期のひとつとなった。

ジャワ島では、シンガサリ王国が東部から興ってクディリ王国を倒したが、モンゴル帝国()のクビライの遠征軍の派兵により、内部で混乱し滅亡した。しかし、元の遠征軍も内紛の一部勢力と手を結んだが、最後には裏切りに遭いジャワ島より敗退する(1292年マジャパヒト王国成立)。12世紀に中国を二分した南宋は元により滅ぼされた。また、日本も2度にわたる元の侵攻(元寇)に遭ったがこれを撃退している。

十字軍勢力は衰退へ

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第6回十字軍に赴いた神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝スルターンアル=カーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせたが、10年余りで再びイスラム勢力により陥落した(以後、20世紀までエルサレムはイスラムの支配下に置かれる)。その後も十字軍の遠征は行なわれたが、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、1291年には最後の拠点アッコを失ってエルサレム王国も滅亡、パレスチナ全域がイスラム勢力下に入った。

マグナ・カルタ成立

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イングランド王国では、国王の権限を制限するマグナ・カルタ(大憲章)が制定された。その後、この憲章は廃止されないまま忘れ去られており中世の時代の中でほとんど影響力を失うが、国王と議会の対立が激しさを増す17世紀に再度注目されることとなる。清教徒革命アメリカ合衆国建国の際にもマグナ・カルタが引用され、現在のイギリス憲法を構成する前文にも残っている。

できごと

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第4回十字軍。東ローマ帝国の内紛に介入したヴェネツィア商人の使嗾により首都コンスタンティノポリスはキリスト教徒の十字軍に占領された。画像はウジェーヌ・ドラクロワの歴史画「第4回十字軍のコンスタンティノポリス入城英語版ルーヴル美術館蔵)」。
「サン・マルコの馬」。第4回十字軍を支援したヴェネツィア共和国は東ローマ帝国から多くの貴重品を持ち去った。画像は「勝利のクアドリガ」とも呼ばれる四頭馬の彫像でもとはコンスタンティノポリス競馬場を飾っていたもの。ヴェネツィアに移送されてからはサン・マルコ大聖堂に置かれていた。
大旅行家マルコ・ポーロ。ヴェネツィア商人として元朝ほかアジア各地を訪れ『東方見聞録(イル・ミリオーネ)』に記録を残した。画像は『驚異の書』写本(Fr. 2810)でマルコ・ポーロが象や駱駝を乗せた船でホルムズを訪れる箇所の挿絵。
グルジア王国の繁栄。女王タマルの時代にルーム・セルジューク朝を破り、東ローマ系亡命国家トレビゾンド帝国を支援してグルジアの勢力は拡大した。画像は南グルジアのヴァルディツィアの修道院礼拝堂フレスコ画に描かれた父王ギオルギ3世と並んで立つ女王タマルの肖像。
マグナ・カルタ(認証付写本)、1215年に作られたもの。
教皇権の最盛期。教皇はこの時期には世俗王侯を凌ぐ権威を有し、教会政治でもその手腕を遺憾なく発揮した。画像は14世紀に描かれたアッシジフランチェスコ聖堂ジョット・ディ・ボンドーネの壁画で、教皇インノケンティウス3世アッシジのフランチェスコの会見が描かれている。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世。破門されたまま十字軍を組織しエルサレムを奪い返すなど大胆不敵な行為から当時の人々は「世界の驚異」とも「反キリスト」とも呼んでいる。画像は彼が著した鷹狩論『鳥類を利用した狩猟技術英語版』に描かれた皇帝の肖像。
第7回十字軍。画像は南仏エーグ・モルトを出港し、マムルーク朝支配のエジプトに向かうフランス王ルイ9世とその一行。聖王と称えられたルイ9世だがこの遠征には失敗し捕虜となる。
シチリアの晩祷ホーエンシュタウフェン家の断絶を機にシチリア支配から地中海帝国建設を思い描いたシャルル・ダンジューだったが、彼の強圧的な支配に対抗して蜂起したシチリア島民によってその夢ははかなく潰えた。画像はこの事件を描いたジョヴァンニ・ヴィッラーニの『新年代記英語版』の挿絵。
シャルトル大聖堂。盛期ゴシック様式を代表するフランスの教会建築で、画像にあるバラ窓ステンドグラスが有名であり、その深みのある青は「シャルトルの青」の異名で知られている。
トマス・アクィナス。盛期スコラ学を代表するドミニコ会の神学者で、理性と信仰を結び付ける壮大な著作『神学大全』をまとめ、「天使博士」の称号を得た。画像は15世紀のカルロ・クリヴェッリによるもの。
イベリア半島における文化交流。レコンキスタが進む一方でキリスト教徒とイスラム教徒の共存はカスティーリャの賢王アルフォンソ10世の時代も続いた。画像はこの王の時代に編纂された『聖母マリア頌歌集(カンティーガス・デ・サンタ・マリーア)』の挿絵でキリスト教徒とイスラム教徒の合奏が描かれている。
ヴァルトブルク歌合戦ドイツ語版。1206年にテューリンゲン方伯 ヘルマン1世の宮廷に集まったミンネザンガーたちにより行われたと伝わる。画像は14世紀に編纂された『マネセ写本』(ハイデルベルク図書館蔵)の挿絵。
ハーメルンの笛吹き男1284年6月26日にドイツのハーメルンで130人の子供たちが失踪した。やがて笛を吹くネズミ捕り男の話も加わって伝説化されたこの事件の真相をめぐり、少年十字軍説、ドイツ人の東方植民説など、議論は百出しているが結論は未だ出ていない。
リューベック北海バルト海貿易を生業とする北ドイツ諸都市ではハンザ同盟が結ばれ、リューベックがその盟主とされるようになった。なおリューベックは1266年には帝国自由都市の地位も獲得している。画像は13世紀に拡張されたリューベックの市庁舎でマルクト広場の黒煉瓦造りの建物がそれである。
泉州(ザイトン)の繁栄。南宋時代から多くのイスラム商人が定住していたが、蒲寿庚らが元朝に帰服すると以前にも勝る賑わいを見せるようになった。画像は泉州のイスラム寺院清浄寺中国語版に残るアラビア文字の刻まれた石碑。
交鈔。宋や金の制度をもとに発展させた紙幣で、1260年から1356年の間、元の正式な通貨として流通した。画像は「至元通行寳鈔」とその原版で、上段左の欄にパスパ文字も書かれている。
禅宗の到来。中国で発達した禅宗日宋貿易などを通じて日本に流入した。画像は日本禅宗の源流ともなった中国の無準師範(仏鑑禅師)の頂相円爾(聖一国師)が招来したもの。現在は京都東福寺に所蔵されている。
牧谿。南宋の無準師範門下の禅僧で、湿潤な大気を描くために技法を洗練させた水墨画で有名。その作品は中国では失われ、室町時代の足利将軍家の蒐集にみられるよう日本に多くが残された。画像は「観音猿鶴図」(京都大徳寺蔵)。
武家の都鎌倉。東国を基盤とした政権の誕生により、宋よりもたらされた禅宗や、「鎌倉仏教」と呼ばれる庶民に開かれた新しい宗派がこの地で発展した。画像は「鎌倉の大仏」で知られる高徳院阿弥陀如来坐像。
承久の乱。後鳥羽上皇は院宣を下し、鎌倉の執権北条義時の追討を命じた。しかし東国武士はそれに同調せず、京の院御所に攻め上り、上皇側は敗走した。以後、幕府の力は西国にも及ぶようになった。画像は後鳥羽上皇の似絵藤原信実によるもの(水無瀬神宮蔵)。
執権北条時宗。二度にわたる蒙古襲来を迎え撃った日本側の指導者は北条時宗であった。画像は『一遍上人絵伝』巻5のもので、時宗の僧侶一遍と鎌倉七口の一つ小袋坂(現在の巨福呂坂)にて対面する北条時宗(折烏帽子で白い狩衣を着て馬に乗った人物)。
蒙古襲来。クビライの命によりモンゴルの大軍が二度にわたって日本に押し寄せた。画像は御家人竹崎季長によって依頼され、元寇の様子を生々しく伝える記録となった『蒙古襲来絵詞三の丸尚蔵館保管)』。
名将・陳興道。陳朝の将軍陳興道は元の度重なる攻撃を退けただけでなく、三度目の元の襲来の折には、廣寧省を流れる白藤江で追撃し、敵将ウマルを捕虜とする大勝利を収めた。画像は陳興道の銅像。
インドからチベットへ向かう仏教。インド仏教の最後の拠点ヴィクラマシーラ寺院は1203年にイスラム教徒に破却された。その学頭であったシャーキャシュリーパドラはチベットに亡命し、サキャ派6代座主となるサキャ・パンディタらに法を伝えた。画像はサキャ・パンディタの肖像。
仏教王国スコータイ朝。13世紀半ばに成立したタイのスコータイ朝は3代目のラームカムヘーン大王の時代に黄金期を迎えた。画像はこの王の治世に作られたワット・シーチュムのアチャナ仏(降魔仏)坐像。
マジャパヒト王国の躍進。クディリ王国とシンガサリ王国の抗争に加えモンゴル人の元朝の襲来で混沌としたジャワ島に秩序をもたらしたのがマジャパヒト王国である。画像は初代王ラデン・ウィジャヤ(クルタラジャサ・ジャヤワルダナ)の肖像に基づくハリハラシヴァヴィシュヌの集合神)の像。
万塔の都パガン。仏教信仰の篤いミャンマーではモンゴル侵攻の中でもナラティーハパテ王のもと造寺造仏が続けられた。しかし1287年のパガンの戦いでこの都はついに陥落した。
オリッサをめぐる争い。インドの北部と南部をつなぐ東海岸のオリッサはこの時期にはイスラム教徒の奴隷王朝とヒンドゥー教徒の東ガンガ朝の激突の舞台となった。画像は東ガンガ朝のナラシンハ・デーヴァ1世によって建てられたオリッサ・コナーラクのスーリヤ寺院にある車輪のデザインの基壇部分。
クトゥブ・ミナール奴隷王朝アイバクによって13世紀初頭にデリーに建てられたインド最古のミナレットで、後世に一部が破損したものの現在でも世界で最も高い72.5mの高さを誇っている。
イスラム世界の機械工学。博識な技術者、であったジャザリーが1206年に著した『巧妙な機械装置に関する知識の書』は好評だったらしく多くの写本が残されている。画像はオートマタの技術を駆使した「象時計」。
スーフィズムの高まり。忘我境の中で神との合一を果たすスーフィズムと呼ばれるイスラム神秘主義がルーミーによって大成された。画像はトルココンヤにあるルーミー廟の前で旋回舞踏を行うメヴレヴィー教団の人々。
モンゴルのホラズム・シャー朝征服。中央アジアを支配していたホラズム・シャー朝もモンゴルの攻撃で崩壊した。画像はインダス河畔の戦いで敗北後も戦い続けたホラズム・シャー朝の君主ジャラールッディーン
アッバース朝の滅亡。モンゴル人フラグの征西によりバグダードが陥落した。最後のカリフは処刑され市街は略奪と殺害が横行したと伝えられる。画像はラシード・ウッディーン集史』の写本の挿絵。
氷上の戦い。「ネヴァ川の勝者」としてスウェーデン軍を打ち破ったノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーは、1242年には新たな敵であるドイツ騎士団を氷の張ったチュド湖で迎え撃ち勇猛さを轟かせた。画像は20世紀に作られた「氷上の戦い」のモザイク画。
マヤパンチチェン・イツァの支配が崩壊すると、1220年代にユカタン半島の新たなる政治の中心地が選定され、「マヤの旗」を意味する「マヤパン」と名付けられて、後古典期のマヤ都市国家連合の首都となった。

1200年代

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1210年代

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1220年代

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1230年代

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1240年代

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1250年代

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1260年代

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1270年代

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1280年代

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1290年代

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1300年代

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  • 1300年 - 教皇ボニファティウス8世によりこの年が最初の「聖年(Iobeleus)」とされる。
  • 1300年頃 - スウェーデンによるフィンランド遠征(北方十字軍の完了)。

人物

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モンゴル世界

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イスラム世界

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アフリカ

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キリスト教世界

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東ローマ帝国・ラテン帝国・ニカイア帝国

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東欧・カフカス

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イタリア

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イベリア半島

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フランス

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イングランド

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スコットランド

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神聖ローマ帝国

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北欧

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南アジア・チベット・東南アジア

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東アジア

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南宋・金・元

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大越

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高麗

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日本

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架空のできごと

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  • 1204年 - 第四回十字軍によるコンスタンティノポリス占領の混乱で窮地に追い詰められた東ローマ帝国の高官・歴史家ニケタス・コニアテスは危機一髪のところをラテン人バウドリーノに救出される。バウドリーノは奇想天外な人生の顛末をニケタスに語り始める(ウンベルト・エーコ『バウドリーノ』)。
  • 1205年 - 栂ノ尾高山寺明恵が入唐渡天を志し、春日明神に暇乞いをする。一人の翁が現れて明恵の出立を止めるように申し入れる。老人は春日神社の使者で、八大龍王が眷属を引き連れて現れ、諸仏が居並ぶ中で釈迦が説法をする様子を見せると、明恵はこの奇跡を見て入唐渡天を思い止まる(能「春日龍神」)。
  • 1213年 - 北条氏に反発した侍所別当和田義盛らが反乱を起こし(和田合戦)、和田一族の多くが滅せられる中で、義盛の三男朝比奈三郎義秀は生き残り安房国に出奔。この後、高麗に渡ったという伝説のほか小人の島や馬人の島を訪ねたとも伝えられ、果ては地獄をめぐり閻魔大王と対決したという伝承も残されている(「朝比奈三郎伝説」)。
  • 1216年以前 - ノッティンガム南方に位置するゴタム村に、悪名高いジョン王が道路を貫通させようと狙っていた。王の使者が視察に来たところ、村人たちは世にも愚かしい行為を繰り広げることでジョン王の使者を辟易させ、計画を撤回させたので「ゴタム村の賢人たち英語版」と呼ばれた(イングランドの昔話。後にはマザーグース童歌にもなる)。
  • 1216年 - 1227年 - ローマ教皇ホノリウス3世は諸学を修め多方面の学識に富む人物であったが、魔術にも精通しておりグリモワールと呼ばれる魔術書の一つ『教皇ホノリウスの奥義書』を執筆する(この著作は教皇ホノリウス3世に仮託した17世紀の魔術本である)。
  • 1220年頃 - アルプスを南北につなぐゴッタルド峠はかねてから交通の難所で、ある牧人が悪魔に頼み込んで特別な橋を架けてもらう。悪魔はその引き換えに生贄を要求するが、機転を利かした牧人によって悪魔は退けられる(ゴッタルド峠魔橋伝説)。
  • 1239年以降 - 皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)の対立するヴェローナで、モンタギュー家の息子ロミオと、キャピュレット家の娘ジュリエットの惹かれあう想いは、両家の因縁の対立から阻まれ、やがて悲劇的な結末を辿っていく(ウィリアム・シェークスピアの悲劇)。
  • 1249年以前 - 聖一国師円爾が日本に禅を招来したことにより、日本の菅原道真が中国の南宋に渡り、径山万寿寺無準師範のもとで学び衣鉢を継いだ。道真は中国の文人の姿となり梅花を手に持つ像が描かれた(「渡唐天神伝説」、花山院長親『両聖記』)。
  • 1256年 - モンゴル帝国皇帝のクーブラ・カーン(クビライ・カアン)が、聖なるアルフ河の流れに沿って、城壁城塔がそびえたつ、そして甘美な花咲きそろう庭園を持つ歓楽の都ザナドゥを建立していく。イギリスの詩人コールリッジは、1797年のとある日、麻薬を吸引したままこの幻想的な夢を見、その光景に目を奪われた(サミュエル・テイラー・コールリッジ『クーブラ・カーン』)。
  • 1256年以降 - 1263年以前 - 僧形となった北条時頼が諸国遍歴の途上、下野の御家人佐野源左衛門尉常世の館で一夜の宿をとる。源左衛門は自ら梅・松・桜の鉢植えの木を火にくべて精いっぱいのもてなしをしつつ「落ちぶれてはいても、何事かあれば「いざ鎌倉」と駆けつける」との気概を語る(謡曲鉢の木』)。
  • 1261年 - 1264年 - 愛欲生活を続けてきたタンホイザーが教皇ウルバヌス4世に懺悔するが、教皇は自分の持つ枯れ木の杖から芽が出るまで救われることはないと告げる。悲嘆に暮れるタンホイザーがその場を立ち去ると、教皇の杖から新たな芽が生えてきたが、ついに彼を見つけ出すことはできなかった(「タンホイザー」伝説)。
  • 1271年/1275年 - 1292年 - クビライ・カアンに仕えたマルコ・ポーロが各地を巡り「死者たちとすれ違う都市」「名前の上にのみ育つ都市」「蜘蛛の巣都市」などの不思議な街を紹介する(イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』)。
  • 1272年 - 鎌倉建長寺の裏山で老いた寺男安里(あんり)が、大覚禅師(蘭渓道隆)により日本に連れて来られる以前はフランスの牧童で少年十字軍に加わっていたことを語りだす(三島由紀夫海と夕焼』)。
  • 1282年 - フランス人支配に不満が高まっているシチリア島で、前シチリア王の妹エレーナと島の若者のアッリーゴは身分違いもあってその恋愛はうまく成就しない。複雑な経緯があってやがてこの二人は「シチリアの晩鐘」事件に巻き込まれていく(ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ「シチリアの晩鐘」)。
  • 1285年 - 道ならぬ恋によりリミニ領主ジョヴァンニ・マラテスタの怒りを買った、その妻フランチェスカとその弟パオロは、ともに殺害され愛欲の地獄に落ちてからも、黒い風に吹き流され永遠にさまよい続けている(ダンテ・アリギエーリ神曲』地獄篇第二圏)。
  • 1294年 - 愛知県志段味村(現名古屋市守山区)の出土品として紹介された鎌倉時代の古瀬戸は「永仁二年(1294年)」の名を持つことから「永仁の壺」と称され、1959年(昭和34年)には国の重要文化財に指定された(実際にはこの壺は現代陶芸家加藤唐九郎の贋作で、美術史学界・古美術界・文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった。詳細は「永仁の壺事件」を参照のこと)。
  • 1300年 - 聖金曜日に詩人ダンテが人生の半ばで暗い森に迷い込み、地獄煉獄天国遍歴が始まる(ダンテ・アリギエーリ『神曲』地獄篇冒頭)。
  • 13世紀から14世紀 - モンゴルの支配が及ばない都市ノブゴロドの冒険商人であったサトコは、航海途上で船が立ち往生したことで生贄とされ、その身は海に投じられた。海の帝王の怒りを宥めるためサトコは懸命に歌い、それがもとで帝王の娘ヴァルホヴァとの結婚が許される(ニコライ・リムスキー=コルサコフオペラサトコ』、原作はロシアの口承叙事詩(ブィリーナ))。

関連項目

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外部リンク

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  • ウィキメディア・コモンズには、13世紀に関するカテゴリがあります。