コンテンツにスキップ

陳仁宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仁宗 陳
陳朝
第3代皇帝
陳仁宗像(フエ
王朝 陳朝
在位期間 1278年11月8日 - 1293年4月16日
姓・諱(陳日
諡号 法天崇道応世化民隆慈顕恵聖文神武元明睿孝皇帝
廟号 仁宗
別号 憲堯光聖太上皇帝
生年 元豊8年11月11日
1258年12月7日
没年 興隆16年閏11月3日
1308年12月16日
聖宗
元聖皇后陳氏韶
后妃 欽慈皇后陳氏楨
陵墓 徳陵
元号 紹宝 : 1279年 - 1285年
重興 : 1285年 - 1293年

陳仁宗(ちんじんそう、ベトナム語Trần Nhân Tông / 陳仁宗)は、陳朝大越の第3代皇帝。名はベトナム語Trần Khâm / 陳昑)または陳 日ベトナム語Trần Nhật Tôn / 陳日燇)とも[1]

生涯

[編集]

第2代皇帝・聖宗の長男。母は安生王陳柳の娘の元聖皇后陳氏韶宝符6年10月22日1278年11月8日)に父帝から譲位されて即位した[2]。即位してから4年後の紹宝4年(1282年)、からの服属要求を退けたため、その大軍による侵攻を受けることになる[3]が、父と共に従伯父の名将の陳国峻に軍権を預けて迎撃させた[4]。一時は元軍の圧倒的物量の前に危機的状況に陥ったこともあり、怖気づいた仁宗は元への降伏も考えたが、陳国峻の強硬な反対を受けて翻意し、徹底抗戦に及んだ。その結果、ゲリラ戦に悩まされた元軍は重興4年(1288年)に撤退を開始し、その軍を追撃して壊滅させている[3]白藤江の戦い)。この功績により、重興5年(1289年)には陳国峻に興道大王号を与えてその後も重用した[3]

重興9年2月3日1293年2月22日)、長男のに譲位して太上皇となる[3]。程なくして出家して仏門に入り[5]、余生を送った。ただし、出家した後も陳国峻と共に息子の治世に協力していたともいわれる。

仏法に関する著書に『僧袈砕事』など多数ある。興隆16年(1308年)、安子山ベトナム語版臥雲庵で崩御[5]

出典

[編集]
  1. ^ 元史』巻二百九 列伝第九十六 外夷二 安南
  2. ^ 大越史記全書』本紀巻之五 陳紀 聖宗皇帝
  3. ^ a b c d 『大越史記全書』本紀巻之五 陳紀 仁宗皇帝
  4. ^ ベトナム史略』 第1巻 第3部 第7章 陳氏
  5. ^ a b 『大越史記全書』本紀巻之六 陳紀 英宗皇帝

参考文献

[編集]
仁宗(中央、『竹林大士出山図ベトナム語版』より)
先代
聖宗
陳朝の第3代皇帝
1278年 - 1293年
次代
英宗