コンテンツにスキップ

トレド翻訳学派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トレド大聖堂。13世紀前半、大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダの命により着工した[1]
クレモナのジェラルドラテン語に訳したアル・ラーズィー医学書の写本

トレド翻訳学派[2][3](トレドほんやくがくは、: Toledo School of Translators西: Escuela de Traductores de Toledo)とは、12世紀から13世紀イベリア半島スペイン)の都市トレドで行われた、書物アラビア語からラテン語スペイン語カスティーリャ語)への翻訳活動[2]、およびその翻訳者たちを指す[3]

12世紀から13世紀前半の歴代トレド大司教が支援した時期と、13世紀後半のアルフォンソ10世が支援した時期の、2つの時期に分けられる[4]

19世紀歴史学者アマーブル・ジュールダン英語版により命名された[2]。「12世紀ルネサンス」「大翻訳運動英語版」と重なる[5]

翻訳学校[6]トレド翻訳学校[7])、翻訳センター[8][9][10]トレドの翻訳者グループ[11]トレードの翻訳グループ[12][13]トレードの翻訳学派[14]トレド学派[15]などともいう。

背景

[編集]

前史

[編集]
1085年トレド再征服したカスティーリャ王アルフォンソ6世セビリャのスペイン広場の壁画より。
13世紀のイベリア半島。中央にトレド。

中世イベリア半島は、キリスト教国の西ゴート王国の支配の後、イスラム諸王朝の支配(アルアンダルス)を経て、キリスト教国のカスティーリャ王国などに再征服(レコンキスタ)された。

中世イスラム世界は、バグダードの「知恵の館」に象徴されるように、哲学医学数学光学天文学占星術錬金術化学)などの学術が発達していた(イスラム黄金時代イスラム科学)。その中で、アリストテレスエウクレイデスガレノスプトレマイオスといったギリシア古典のアラビア語訳注英語版も作られていた[注釈 1]。イベリア半島では後ウマイヤ朝ハカム2世以来、コルドバがバグダードと並ぶ学術都市として栄えていた[8]

半島中央の都市トレドは、西ゴート時代に首都および大司教座都市(トレド大司教座英語版)となり[19]、イスラム時代になっても主要都市として栄えていた[20]1031年、後ウマイヤ朝が滅びタイファ(群小王朝)時代になると、トレド王国ズンヌーン朝英語版)のマームーン英語版[注釈 2]の治下で、トレドはコルドバと並ぶ学術都市となった[8][21]。学者のザルカーリーサーイド・アンダルスィー英語版[注釈 3]がトレドで活動し[22]図書館は書物で満たされた[8][注釈 4]

1085年カスティーリャ王国アルフォンソ6世が、外交交渉により無血入城でトレドを再征服英語版した[注釈 5][26][27]。再征服後、トレドは同国の首都および大司教座都市となり[注釈 6][29][30]、イスラムの学術に関心や対抗心をもつ知識人がヨーロッパ各地から集まり[31]、翻訳の拠点となった。

翻訳はトレドだけでなく、セビリャなどの他都市や[注釈 7]ピレネー山脈を隔てた南フランス[35][36]イタリア[注釈 8][39]シチリア[注釈 9][39]などでも行われた(12世紀ルネサンス大翻訳運動英語版)。同時代には十字軍国家もあったが、同地での翻訳は少なかった[43]。翻訳行為自体は12世紀より前からあり、例えばギリシア古典は6世紀のボエティウス、アラビア医学書は11世紀のコンスタンティヌス・アフリカヌスが既に訳していた。

「三宗教の共存」か

[編集]

イスラム諸王朝は異教徒(ズィンミー)を容認していたため[注釈 10]、再征服直後のトレドには、征服側のカトリック教徒だけでなく、アラブ化英語版したキリスト教徒モサラベ)や、ユダヤ教徒セファルディム)、残留イスラム教徒ムデハル英語版)が共存していた。中世後期には、モサラベの同化やユダヤ教徒とイスラム教徒の強制改宗コンベルソモリスコ)が多くなるが、トレド翻訳学派の時代には、共存がまだ続いていた。

このことから、トレド翻訳学派は「三宗教の共存」のおかげで生まれた、としばしば説明される[50][12]。しかしこれには異論もある[50][12]。というのも、モサラベとユダヤ教徒が翻訳に協力したのに比べ、イスラム教徒の協力は少なかった[1][12]。また、再征服時の協定ではトレドの大モスクの保護が約束されていたが、再征服後、約束に反して大聖堂に改修され、イスラム教徒の多くはトレドを去った[注釈 11][50][12][52]

翻訳方式

[編集]

上記のモサラベやユダヤ教徒は、アラビア語カスティーリャ語の双方を解した[27]。彼らの役割は、書物をアラビア語からラテン語に訳す際に、仲介となるカスティーリャ語訳を作ることだった[53][13][54][34]。すなわち、彼らがアラビア語の書物をカスティーリャ語に訳して口述し、カトリック教徒の翻訳者がそのカスティーリャ語をラテン語に訳して筆記する、という重訳方式がとられた[注釈 12][13][54][59]

訳文は、6世紀のボエティウス以来の伝統である逐語訳が多かった[60][61]

歴史

[編集]

前期

[編集]

12世紀から13世紀前半、トレド大司教ライムンド英語版[注釈 13]ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダら、歴代トレド大司教の後援のもと[64]、以下の翻訳者が活動した[注釈 14]

最初の翻訳は、セビリャのフアン英語版[注釈 15]がライムンドに献呈したクスター・イブン・ルーカー『霊と魂との相違論』の訳だった[注釈 16][74]。フアンはドミンゴ・グンディサルボ英語版[注釈 17]とともに、アリストテレス霊魂論[69]イブン・スィーナー治癒の書[66][34][71]イブン・ガビロール『生命の泉』[66][71]などを共訳した。また、フアンは偽アリストテレス英語版秘中の秘英語版[74]、ドミンゴはファーラービーガザーリーの哲学書[76][13]も訳した。

クレモナのジェラルドが訳したザルカーリートレド天文表英語版

クレモナのジェラルド[注釈 18]は トレド最大の翻訳者であり、70点以上の書物を訳した[80]。その分野は多岐にわたり、天文学ではプトレマイオスアルマゲスト[66][81][82][79]ザルカーリートレド天文表英語版[22]ファルガーニー『天文学集成』[83]、数学ではエウクレイデス原論[81][83]テオドシウス『球面学』[81]フワーリズミー代数学[82][66]、論理学や哲学ではアリストテレス分析論後書[81][83]天体論[82]、『原因論[84][69]ファーラービーキンディーの著作[85]、医学ではヒポクラテス[81]ガレノス[81][82][86]アル・ラーズィー[82]の著作、イブン・スィーナー医学典範[79][86]、その他、イブン・ハイサム『光学』[82]錬金術[87]土占いなどの占術[87]を訳した。

マイケル・スコット[注釈 19]は、青年期にトレドで翻訳に従事し、老年期にフリードリヒ2世治下のシチリア王国で翻訳を指揮した[14]。彼は生涯を通じて、ビトルージーの天文学書[90]イブン・ルシュドの哲学書[66][91]アリストテレス動物誌[90]動物の書英語版[92]などを訳した。

ケットンのロバート英語版[注釈 20]カリンティアのヘルマン英語版[注釈 21]らは、クリュニー修道院長の尊者ピエール英語版[注釈 22]の依頼により、最初の『コーラン』ラテン語訳英語版を含むイスラム教論駁書『トレド集成英語版』を作った[93]

チェスターのロバート[注釈 23]は、フワーリズミー代数学書などを訳した[94]。チェスターのロバートは上記「ケットンのロバート」と同一視される場合もある[94]

以上に加え、トレドのマルコス英語版[注釈 24]トレドのペドロ英語版[53]ブリュージュのルドルフ英語版[35]シャレスヒルのアルフレッド英語版[注釈 25]ドイツ人のヘルマン英語版[注釈 26]モーリーのダニエル英語版[96][69][97]、その他多くの人々がトレドで活動した[66][48]

後期

[編集]
アルフォンソ10世が訳した『チェス・サイコロ・盤の書英語版』の挿絵

13世紀後半には、ラテン語でなくカスティーリャ語への翻訳が主眼に置かれた[注釈 27][3][66][99]。これにより、トレドのラテン世界に対する影響力は衰えたが、カスティーリャ語の地位向上に繋がった[66]

その中心にいたのが「賢王」「三宗教の王」の異名をもつアルフォンソ10世だった[100][98]。10世は、学術だけでなく文芸・娯楽に対しても、カスティーリャ語による著述・翻訳を奨励した[100]。10世自身も、インド由来の寓話集『カリーラとディムナの書』や[101]、娯楽書『チェス・サイコロ・盤の書英語版[注釈 28]の翻訳に携わった[102]

アルフォンソ天文表

10世の時代には天文学が特に研究され、上記の『トレド天文表英語版』を改良した『アルフォンソ天文表』や、アラビア語の天文書のカスティーリャ語訳が作られた[104][98]。また、占星術書『ピカトリクス』の訳や、ユダヤ教徒の宮廷侍医イェフダ・ベン・モーシェ英語版が10世名義で書いた占星術書『貴石誌スペイン語版』も作られた[注釈 29][104]

10世の時代の他の翻訳者に、ラビ・サグ英語版サムエル・ハ・レヴィ英語版トレドのアブラハム英語版イサク・イブン・シッド英語版、その他多くの人々がいる[105]。『階梯の書』(ミーラージュ)のカスティーリャ語訳も作られた[32][106]

受容

[編集]
現代のトレドの街並み

トレドの訳書はヨーロッパ各地に伝播し、ロジャー・ベーコンらに受容された[81]

アラビア語の医学書は、11世紀イタリアのコンスタンティヌス・アフリカヌスにより既に訳されていたが、『医学典範』はクレモナのジェラルドによって初めて訳され、18世紀まで医学の教科書として読まれ続けた[86]

アラビア語由来の英単語英語版である「アルゴリズム」は、上記のチェスターのロバートの訳語に由来する[94]アラビア数字十進記数法ゼロの概念)の伝播にも寄与したが、普及させたのは13世紀イタリアのフィボナッチ算盤の書』だった[94]

アリストテレスの著作は、6世紀のボエティウスや12世紀ヴェネツィアのジャコモ英語版により既にギリシア語から訳されていたが[37][38]、トレドでアラビア語のアリストテレス註解英語版とともに多く訳され[107]中世哲学におけるアリストテレス主義の興隆に寄与した[108]。しかし13世紀末には、ムールベーケのギヨームトマス・アクィナスの友人)によるギリシア語からの訳に取って代わられた[108][109]

階梯の書』(ミーラージュ)は、カスティーリャ語に訳された後に他言語にも訳され、ダンテ神曲』に影響を与えた[32][106]

アルフォンソ天文表』はヨーロッパ各地でルネサンス期まで使われ続けた[104][98]

19世紀フランスの歴史学者ジュールダン英語版[2](ジェルダン[6])は、トレドに翻訳者養成のための学院があったと仮定し、「翻訳学校[6]」「翻訳学派[2]」の概念を提唱した。学院が実在したかは定かでないが[110][6][63]、現代でもこの概念が使われている[2]。主な研究者にサートン英語版[65]ハスキンズ英語版[65][111][112]ソーンダイク英語版[65]カーモディドイツ語版[65]リンドバーグ英語版[65]バリクロサスペイン語版[65]ダルヴェルニー英語版[65][42][112]ベルネ英語版[65]リエトフランス語版[57]バーネットドイツ語版[113][112]ジャッカールフランス語版[114]ルメイwikidata[115][116][117]パレンシアスペイン語版[118]ピム英語版[118]らがいる。

20世紀末、トレドの翻訳学校にあやかった翻訳者の養成施設が、ヨーロッパ各地に作られた[注釈 30][119]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 主なアラビア語訳者にフナインハッジャージュクッラらがいる[16]。アラビア語の前にシリア語ヘブライ語に訳されている場合も多かった[17][18]
  2. ^ 「マームーン[21]」または「アル・マアムーン[8]」。「知恵の館」の創設者である同名の王にあやかった名前[8]
  3. ^ 「ザルカーリー」または「アル・ザルカーラー[22]」、「サーイド・アンダルスィー」または「サイード・アル・アンダルーシー[22]」。
  4. ^ ただし、1085年の再征服時、上層ムスリムの多くが書物とともにトレドを去ったため、学術都市としての連続性は低いとも言われる[23]
  5. ^ 交渉は、マームーンの次代王であるカーディル英語版との間で行われた[24]。トレドを譲渡する条件として、当時失政によりトレドを追放されていたカーディルの復位の支援や、カーディルのバレンシア支配の承認、住民の保護、後述の大モスクの保護、などがあった[24]。1081年からトレドの包囲が行われていたが、これは市内の宥和派が手引きした形式的な包囲だった[25]
  6. ^ 中世カスティーリャ王国は頻繁に遷都したため、トレドが常に首都だったわけではない[28]
  7. ^ セビリャは1248年に再征服された後、後述のアルフォンソ10世により、トレドと並ぶ学術都市となった[32][33]。半島各地では、バースのアデラード[34]ペトルス・アルフォンシ英語版[34]ティヴォリのプラトンサンタリャのフーゴー英語版サバソルダ(アブラハム・バル・キイア)、アブラハム・ベン・エズラらが活動した[35]
  8. ^ アリストテレスをアラビア語を介さずに訳したヴェネツィアのジャコモ英語版ピサのブルグンディオ英語版が活動した[37][38]
  9. ^ フリードリヒ2世治下のシチリア王国で、後述のマイケル・スコット[40][14][41][42]ヘンリクス・アリスティップス英語版らが活動した[40]
  10. ^ ただし、重い人頭税ジズヤ)を課される[44]「二級市民」のような扱いであり、イスラム教への改宗者(ムワッラド)も多くいた[45]。また、トレド陥落後に半島に進出したムラービト朝ムワッヒド朝は、領内の異教徒を迫害した[46][47][48][49]。トレドにはその迫害から逃れて来た人々もいた[46][48][49]
  11. ^ 改修の中心人物は、初代トレド大司教となったクリュニー会セディラックのベルナール英語版と、クリュニー会士の縁者でもある王妃コンスタンスの2名であり、6世不在の間に改修した[51]。6世はこれに激怒したが、内乱を避けるためやむを得ず承認した[51]。ただし、改修した人物は6世だと伝える史料もあり、真相は定かでない[5]
  12. ^ 例えば、後述のクレモナのジェラルドは、モサラベのガリップス(Galippus)なる人物[55][56]マイケル・スコットは、ユダヤ教徒のアンドレアスやアブラハムの協力を受けたとされる[56]。後述の『トレド集成英語版』は、イスラム教徒のムハンマドの協力を受けたとされる[56]。後述のイェフダ・ベン・モーシェ英語版らのように、ユダヤ教徒やモサラベ自身が翻訳者となる場合もあった[55]。カスティーリャ語でなくカタルーニャ語など他のロマンス語[53]またはヘブライ語[55]口語アラビア語[57]を介する場合や、直接ラテン語に訳す場合もあった[53]。以上の翻訳方式については、史料が乏しく推測による部分が大きい[58][59]
  13. ^ 「トレド大司教ライムンド」または「大司教ライムンド[13][21]」「大司教ライムンドゥス[62][63][15]」「トレド大司教ライムンドゥス[10][3]」「ラ・ソーヴタのライムンドゥス[31]」。ライムンドへの献呈書と伝えられる訳書は多く、ライムンドが翻訳学派の創始者である、としばしば説明される[42]。しかし、その多くは誤伝であるとする説もある(ダルヴェルニー英語版の説)[42]
  14. ^ 翻訳者の大半は素性が曖昧であり[65][34]、名前の表記揺れも激しい[34]。多くは聖堂参事会英語版に属する聖職者だった[66][67]
  15. ^ 「セビリャのフアン[68][69]」または「ヨハンネス・ヒスパレンシス」「ヨハンネス・ヒスパヌス[70]」「スペインのヨハンネス[71]」「イスパニアのヨハネス[72]」「フアン・イスパレンセ[53]」「セビーリャのヨハンネス[70]」「セビリャのヨハネス[35]」。彼は「アブラハム・イブン・ダウド英語版[73][34]」「イブン・ダーウード[71]」または「フアン・アヴェンデウト[73]」「アヴェンデウト[34]」「アヴェンデウチ[71]」と同一視される場合もある[34][71]
  16. ^ 『霊と魂との相違論』(ラテン語: De Differentia Spiritus et Animae)は、哲学・神学・医学に関わる霊魂論の書物[74]
  17. ^ 「ドミンゴ・グンディサルボ[75]」または「ドミニクス・グンディサリヌス[71][75][73]」「ドミンゴ・グンディサルヴォ[73]」「ドミンゴ・グアンディサルビ[53]」「ドミニクス・ゴンディサルビ[35]」。
  18. ^ 「クレモナのジェラルド[13][77]」または「クレモナのゲラルドゥス[78][63][77]」「クレモナのゲラルド[69]」「クレモナのヘラルド[79]」「ヘラルド・デ・クレモナ[66]」。
  19. ^ 「マイケル・スコット[14][66][42][88]」または「ミカエル・スコトゥス[41][89]」。
  20. ^ 「ケットンのロバート[93]」または「ケットンのロベルトゥス[70]」「ロベルト・デ・ケットン[53]」。
  21. ^ 「カリンティアのヘルマン[15]」または「カリンティアのヘルマヌス[35]」「ケルンテンのヘルマンヌス[70]」「ダルマチアのヘルマン[93]」「ヘルマン・エル・ダルマタ[53]」。
  22. ^ 「尊者ピエール[94][15]」または「尊者ペトルス[93]」「ペトルス・ウェネラビリス[70]」。
  23. ^ 「チェスターのロバート」または「チェスターのロベルトゥス[35]」。
  24. ^ 「トレドのマルコス[91]」または「マルコス・デ・トレド[53]」「トレドの参事会員マルコ[63]」「トレドの司教座聖堂参事会員マルコス[70]
  25. ^ 「シャレスヒルのアルフレッド[95]」または「シェアシルのアルフレドゥス[89]」「サレシェルのアルフレドゥス」「イングランド人アルフレドゥス[90]」。
  26. ^ 「ドイツ人のヘルマン[72]」または「ヘルマン・エル・アレマン[72]」「ドイツ人ヘルマヌス[90]」「ヘルマヌス・アレマンヌス[88]」。
  27. ^ カスティーリャ語訳に付随する形で、ラテン語訳も引き続き行われた[98]
  28. ^ 『チェス・サイコロ・盤の書[102]』または『チェス、賽子、双六の書[32]』『チェス、サイコロ、遊戯盤の書[103]』。
  29. ^ 「イェフダ・ベン・モーシェ[32]」または「イェフダ・モスカ[104]」「ユダ・イブン・モーセス・アル・コーエン[105]」、『貴石誌[32]』または『宝石論[104]』『ラピダリオ』。
  30. ^ スペイン・タラソナの「翻訳家の家」(Casa del Traductor)、ドイツの「コレギウム」(Europäisches Übersetzer-Kollegium)など[119]

出典

[編集]
  1. ^ a b 黒田 2016, p. 84.
  2. ^ a b c d e f 鼓 2012, p. 64.
  3. ^ a b c d 川成 2020, p. 56.
  4. ^ 鼓 2012, p. 64;66.
  5. ^ a b 黒田 2024, p. 191.
  6. ^ a b c d 辻 1993, p. 73.
  7. ^ トレド翻訳学校』 - コトバンク
  8. ^ a b c d e f 辻 1993, p. 65.
  9. ^ メノカル 2005, p. 273.
  10. ^ a b ルーベンスタイン 2018, p. 46.
  11. ^ 熊倉 2004, p. 172.
  12. ^ a b c d e 立石 2021, p. 67.
  13. ^ a b c d e f 関 2008, p. 159.
  14. ^ a b c d メノカル 2005, p. 198ff.
  15. ^ a b c d モンゴメリ 2016, p. 211.
  16. ^ モンゴメリ 2016, p. 238.
  17. ^ 鼓 2012, p. 60;65.
  18. ^ ハスキンズ 2017, p. 274.
  19. ^ 関 2008, p. 150.
  20. ^ 鼓 2012, p. 62.
  21. ^ a b c メノカル 2005, p. 151.
  22. ^ a b c d 熊倉 2005, p. 99f.
  23. ^ 黒田 2006, p. 94.
  24. ^ a b 佐藤 2008, p. 104.
  25. ^ ローマックス 1996, p. 89.
  26. ^ 川成 2020, p. 55.
  27. ^ a b 熊倉 2005, p. 98f.
  28. ^ 熊倉 2004, p. 171f.
  29. ^ ローマックス 1996, p. 135.
  30. ^ メノカル 2005, p. 40.
  31. ^ a b 熊倉 2005, p. 100.
  32. ^ a b c d e f 関 2008, p. 168ff.
  33. ^ メノカル 2005, p. 45.
  34. ^ a b c d e f g h i 辻 1993, p. 66.
  35. ^ a b c d e f g ハスキンズ 2017, p. 277.
  36. ^ 辻 1993, p. 64.
  37. ^ a b 熊倉 2005, p. 117f;121.
  38. ^ a b ルーベンスタイン 2018, p. 50.
  39. ^ a b モンゴメリ 2016, p. 210;270.
  40. ^ a b ルーベンスタイン 2018, p. 50f.
  41. ^ a b ハスキンズ 2017, p. 276.
  42. ^ a b c d e モンゴメリ 2016, p. 212.
  43. ^ ハスキンズ 2017, p. 275.
  44. ^ 佐藤 2008, p. 73.
  45. ^ 黒田 2016, p. 82.
  46. ^ a b 黒田 2016, p. 83f.
  47. ^ メノカル 2005, p. 204;206.
  48. ^ a b c 辻 1993, p. 67.
  49. ^ a b 熊倉 2005, p. 103.
  50. ^ a b c 黒田 2016, p. 83.
  51. ^ a b ローマックス 1996, p. 91.
  52. ^ 関 2008, p. 157.
  53. ^ a b c d e f g h i 鼓 2012, p. 65f.
  54. ^ a b メノカル 2005, p. 206.
  55. ^ a b c ハスキンズ 2017, p. 280.
  56. ^ a b c 熊倉 2003, p. 63.
  57. ^ a b 熊倉 2003, p. 65.
  58. ^ 辻 1993, p. 68.
  59. ^ a b 熊倉 2003, p. 64.
  60. ^ 熊倉 2003, p. 76.
  61. ^ モンゴメリ 2016, p. 222f;234.
  62. ^ 鼓 2012, p. 65.
  63. ^ a b c d ハスキンズ 2017, p. 55.
  64. ^ 熊倉 2005, p. 100f;106ff;142.
  65. ^ a b c d e f g h i 熊倉 2003, p. 54.
  66. ^ a b c d e f g h i j k 鼓 2012, p. 66.
  67. ^ 熊倉 2003, p. 59.
  68. ^ モンゴメリ 2016, p. 210.
  69. ^ a b c d e ルーベンスタイン 2018, p. 48.
  70. ^ a b c d e f 熊倉 2003, p. 53.
  71. ^ a b c d e f g 熊倉 2005, p. 138f.
  72. ^ a b c 鼓 2012, p. 79.
  73. ^ a b c d ルーベンスタイン 2018, p. 47.
  74. ^ a b c 熊倉 2005, p. 101.
  75. ^ a b モンゴメリ 2016, p. 215.
  76. ^ 熊倉 2005, p. 136ff.
  77. ^ a b モンゴメリ 2016, p. 217.
  78. ^ 熊倉 2005.
  79. ^ a b c 辻 1993, p. 68-71.
  80. ^ 熊倉 2005, p. 105.
  81. ^ a b c d e f g ハスキンズ 2017, p. 278f.
  82. ^ a b c d e f モンゴメリ 2016, p. 231f.
  83. ^ a b c 熊倉 2005, p. 118ff.
  84. ^ 熊倉 2005, p. 127.
  85. ^ 熊倉 2005, p. 122;140.
  86. ^ a b c 熊倉 2005, p. 129f.
  87. ^ a b 熊倉 2005, p. 131.
  88. ^ a b ルーベンスタイン 2018, p. 49.
  89. ^ a b 熊倉 2003, p. 55.
  90. ^ a b c d ハスキンズ 2017, p. 279.
  91. ^ a b 熊倉 2005, p. 107.
  92. ^ 熊倉 2005, p. 126.
  93. ^ a b c d 鼓 2012, p. 63-66.
  94. ^ a b c d e メノカル 2005, p. 188f.
  95. ^ モンゴメリ 2016, p. 234.
  96. ^ モンゴメリ 2016, p. 242.
  97. ^ 熊倉 2005, p. 109.
  98. ^ a b c d 熊倉 2004, p. 175.
  99. ^ メノカル 2005, p. 234f.
  100. ^ a b 鼓 2012, p. 67.
  101. ^ 鼓 2012, p. 70.
  102. ^ a b 川成 2020, p. 57.
  103. ^ メノカル 2005, p. 237.
  104. ^ a b c d e 鼓 2012, p. 74f.
  105. ^ a b 熊倉 2004.
  106. ^ a b メノカル 2005, p. 238ff.
  107. ^ 熊倉 2005, p. 139.
  108. ^ a b モンゴメリ 2016, p. 253.
  109. ^ 熊倉 2005, p. 140;144.
  110. ^ 鼓 2012, p. 77.
  111. ^ ハスキンズ 2017.
  112. ^ a b c 黒田 2006, p. 93.
  113. ^ 熊倉 2003, p. 54;66.
  114. ^ 熊倉 2005, p. 129.
  115. ^ 熊倉 2005, p. 134.
  116. ^ 辻 1993, p. 72.
  117. ^ モンゴメリ 2016, p. 231.
  118. ^ a b 鼓 2012, p. 81.
  119. ^ a b 辻 1993, p. 73;243.

参考文献

[編集]
  • チャールズ・H・ハスキンズ英語版 著、別宮貞徳朝倉文市 訳『十二世紀のルネサンス ヨーロッパの目覚め』講談社〈講談社学術文庫〉、2017年(原著1927年)。ISBN 9784062924443 
  • マリア・ロサ・メノカル 著、足立孝 訳『寛容の文化 ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒の中世スペイン』名古屋大学出版会、2005年(原著2002年)。ISBN 9784815805180 
  • スコット・L・モンゴメリ英語版 著、大久保友博 訳『翻訳のダイナミズム 時代と文化を貫く知の運動』白水社、2016年(原著2002年)。ISBN 9784560095102 
  • リチャード・E.ルーベンスタイン英語版 著、小沢千重子 訳『中世の覚醒 アリストテレス再発見から知の革命へ』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2018年(原著2003年)。ISBN 9784480098849 
  • D.W.ローマックススペイン語版 著、林邦夫 訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』刀水書房、1996年(原著1978年)。ISBN 4887081804 
  • 川成洋『スペイン通史』丸善出版〈シリーズ コンパクトヒストリア〉、2020年。ISBN 9784621304044 
  • 熊倉庸介「12世紀スペインの翻訳者たち」『国際短期大学研究紀要』第18号、国際短期大学、53-91頁、2003年。 国立国会図書館書誌ID:7094118
  • 熊倉庸介「アルフォンソ賢王と翻訳者たち アルフォンソ賢王統治下の翻訳活動(2)」『国際短期大学研究紀要』第19号、国際短期大学、141-190頁、2004年。 国立国会図書館書誌ID:7752862
  • 熊倉庸介「クレモナのゲラルドゥス再考 12世紀トレドの翻訳活動」『国際短期大学研究紀要』第20号、国際短期大学、97-176頁、2005年。 NAID 40015237457 
  • 黒田祐我「翻訳運動の中心地トレード 12世紀におけるダイナミズムの中心地」『西洋史論叢』、早稲田大学西洋史研究会、2006年。 NAID 40015336837 
  • 黒田祐我 著「三宗教の共存 中世スペインを超えたテーマ」、立石博高・内村俊太 編『スペインの歴史を知るための50章』明石書店、2016年、81-85頁。ISBN 9784750344157 
  • 黒田祐我『レコンキスタ――「スペイン」を生んだ中世800年の戦争と平和』中央公論新社〈中公新書〉、2024年。ISBN 9784121028204 
  • 関哲行; 立石博高; 中塚次郎 編『世界歴史大系 スペイン史1 古代・近世』山川出版社、2008年。ISBN 9784634462045 
    • 佐藤健太郎「イスラーム期のスペイン」2008年、70-135頁。 
    • 関哲行「カスティーリャ王国」2008年、136-197頁。 
  • 立石博高『スペイン史10講』岩波書店〈岩波新書〉、2021年。ISBN 9784004318965 
  • 辻由美『翻訳史のプロムナード』みすず書房、1993年。ISBN 9784622045625 
  • 鼓宗 著「イベリア半島の言語統一と〈トレド翻訳学派〉」、内田慶市・鼓宗・柏木治・角伸明・近藤昌夫 編『文化の翻訳あるいは周縁の詩学』水声社、2012年。ISBN 9784891769178 

関連項目

[編集]