新宝岛 (漫画)
新宝岛 | |
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新宝島、新寶島 | |
New Treasure Island | |
假名 | しんたからじま |
罗马字 | Shin Takarajima |
類型 | 科幻、冒險 |
漫画 | |
原作 | 酒井七马 |
作畫 | 手塚治虫 |
出版社 | 育英出版 |
其他出版社:
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發售日 | 1947年4月1日 |
冊數 | 單行本全1冊 |
《新宝岛》(日语:新宝島〔新寶島〕)是手冢治虫于1947年发表的日本漫画。原作构成为酒井七马,作画为手冢治虫,是一部未经报刊的刊载就直接出版的单行本作品。本作除了是手冢治虫的首部长篇作品,更被视为是战后日本漫画的出发点。[1][2]本作品的漫画表现手法在漫画史上有着明确的影响,为研究者所关注。
简介
[编辑]本作以罗伯特·路易斯·史蒂文森的《金银岛》(日本譯作《寶島》)为基础,描述了一个糅杂了《泰山》与《鲁滨逊漂流记》元素的故事。需要注意的是,本作并不是直接将《金银岛》故事進行漫画化。[3][4]
单行本
[编辑]冒险漫画故事 新宝岛
[编辑]本单行本是赤本漫画,由育英出版发行。部分卡通人物的脸是酒井七马画的,但大部分仍是手冢治虫画的。根据当时赤本漫画的惯例,并不是手冢原画的影印制版,而是制版工匠参照手冢的手绘原画进行制版后的描画版。[5][6][7]
据推测发行量为4万本,也有人说是40万本或者是80万本,准确的数量还不清楚[8][9]。另外,手冢治虫的稿费是被出版社以3000日元买断的,因此他并没有得到版税收入[10][11]。
- 第一版:1947年1月30日出版。标题中的“宝”字,封面和版权页都写作汉字旧字体的“寳”。日语罗马字是“SHIN TAKARAJIMA”。只有这一版使用了精装版,纸质较为优质。[12]
- 修订版:1947年4月20日发行。“宝”字在封面写作“寳”,而版权页则写成其异体的“寶”。
- 再版:仅有一版。标题日语罗马字为“SHIN TAKARAZIMA”。目前市面上流通最多的版本。[13]
- 赤本:封面标题为“新宝岛”。封面布局发生了很大变化,整体上封面多采用红色。标题的日语罗马字是“SHIN TAKARAJIMA”。副标题为《长篇冒险漫画故事》,较之前的版本附加了“长篇”两字。这一版本的作者名只写了手冢治虫,而且成书的纸质较差。
制作经过
[编辑]看过在大阪战后创刊的漫画杂志《漫画书院》后,手冢治虫慕名来到吹田市的漫画书院。在这里,书院的编辑大阪向他介绍认识了酒井七马。正是在酒井提议下,在育英出版共同制作单行本,才最终导致了《新宝岛》的问世。[14]
影响
[编辑]1940年代,在中央出版社少年杂志上刊登的漫画每期只有4页左右,而《新宝岛》初登场就突破性的以超过200页的篇幅直接以单册书出版。打破以往漫画给人的“简单”、“短小”等印象,以描写异想天开的冒险戏剧的本书,最终创下了40万本的销量,掀起了赤本漫画的热潮。[15][16][7][17]
很多读者因为读了这部作品而受到影响,或因此立志成为了漫画家,如藤子不二雄[18]、石之森章太郎[19]、千叶彻弥[20]、望月三起也[21]、古谷三敏[22]、楳图一雄[23]、中泽启治、柘植义春等。后来发展剧画的辰巳嘉裕[24]、斋藤隆夫[25]、樱井昌一[26]、佐藤真希等人也对这部作品表示了震惊[27]。除了漫画家以外,小松左京[28]、宫崎骏[29]、横尾忠则[30]、和田诚[31]、赤濑川原平[32]、青木保[33]、石上三登志[34]等人也曾回忆起少年时代阅读到本作时的惊喜。相反,当时已经活跃在漫画界的横井福次郎则对《新宝岛》给予了严厉的批评[35]。
本作尤其受与手冢治虫有深厚联系的常盘庄漫画家团体的追捧。尤其因藤子不二雄在其自传作品《漫画道》中将本作记录为轶事而广为传播[18]。20世纪70年代之后兴起的手冢治虫“《新宝岛》神话”的更起到了推波助澜的作用[36][37]。对于“《新宝岛》神话”的形成,《新宝岛》虽然曾经是畅销作品,但自从育英版赤本漫画之后就没有再版。这使得本书从20世纪50年代开始就成为了一部传奇作品,普通人很难得见真容,这也是神话形成的原因之一。[38]
本书以其仿电影表现形式出发,用“画在移动”的表现手法给当时阅读漫画的少年们带来了巨大的冲击。他们普遍认为漫画的电影表现形式是由手冢首创,所以这部作品长期以来也一直与“手冢神话”结合在一起[39]。此外,漫画评论家竹内治虫还表示,《新宝岛》的革新性在于电影手法——同一化技法。为此与评论家伊藤刚展开了辩论[40][41]。但是,80年代末以后的研究指出,在战前曾有过宍户左行的《快速太郎》、大城登的《火车旅行》(日语:汽車旅行)等电影性表现手法的作品珠玉在前[42]。明治大学漫画研究家宫本大人则认为,战后的孩子们之所以被手冢治虫的漫画所震惊,是由于二战期间对漫画传播的种种限制,导致战后出现表现出读者对漫画作品叙事手法认知所产生的断层[43]。
对于手冢和酒井的各自分工,同样是漫画评论家的中野晴行表示,由于合作者酒井曾是一名动画师,所以电影形式的表现手法反而更应该是酒井的功劳[44]。对此,作家野口文雄反驳了中野的说法。他表示,《新宝岛》的革新性在于:以往的作品主要依靠人物的台词来解释时间和事情的进展,本作却是用快速的动作、画面分割、构图等形式来加以表现。并称,这种表现反而对以后酒井七马的作品产生了影响[45]。而手冢本人在《手冢治虫漫画全集》的后记中则写道:“酒井已经制定了原案和构成,暂且不论原案,构成草案还是我自己制定的。”[46]
另外,手冢治虫生前长期拒绝发行本作的复刻版。虽然在将该作品收入《手冢治虫漫画全集》时,手冢仍旧选择重新绘制了部分作画,但其本人对本作的价值依然持否定态度。[47]
二手书的价格
[编辑]《新宝岛》作为二手书,其价值很早就被得到了认可。20世纪70年代初,其在日本百货商场的二手书店就炒到了40万日元的价格,1977年更在静冈县的二手书店以2万5千日元的价格成为当时热议的话题。[48][49]
育英出版的第一版截止到2002年,被确认为现存的书籍只有3本,按照古书市场价格纪录估值约300万日元。其中,二手书店MANDARAKE所收藏的保存状态良好的版本估价为500万日元。[50][51]在21世纪,本书与足塚不二雄(後來改名為藤子不二雄)的《UTOPIA 最後的世界大戰》(鹤书房版)一起被认为是日本二手市场行情最高的单行本。[52][53]
参考书籍
[编辑]- 『ジュンマンガ』第1号、文進堂、1968年
- 手塚治虫『新宝島』手塚治虫漫画全集、講談社、1984年
- 藤子不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』文春文庫、1980年
- 呉智英「ある戦後精神の偉業 手塚治虫の意味」『文学界』1989年4月号、文藝春秋社(竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評大系・別巻 手塚治虫の宇宙』平凡社、1989年に所収)
- 中野晴行『手塚治虫と路地裏のマンガたち』筑摩書房、1993年
- 米沢嘉博「「新宝島」ショック!! 戦後ストーリーマンガの始まり」『別冊太陽 子どもの昭和史 少年マンガの世界I』平凡社、1996年(『手塚治虫マンガ論』河出書房新社、2007年に所収)
- さいとうはるお、黒沢哲哉『学習まんが人物館 藤子・F・不二雄-こどもの夢をえがき続けた「ドラえもん」の作者』小学館、1997年
- 宮本大人「マンガと乗り物 〜「新宝島」とそれ以前〜」『誕生!手塚治虫 マンガの神様を育てたバックグラウンド』霜月たかなか編、朝日ソノラマ、1998年
- 清水勲『大阪漫画史-漫画文化発信都市-』ニュートンプレス、1998年
- 池田啓晶『手塚治虫解体新書』集英社、2002年
- 江下雅之『マンガ古書マニア 漫画お宝コレクション1946〜2002』インターメディア出版、2002年
- 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005年
- 二階堂黎人『僕らが愛した手塚治虫』小学館、2006年
- 中野晴行『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』筑摩書房、2007年
参考来源
[编辑]- ^ 『僕らが愛した手塚治虫』p.173。
- ^ 宮本大人「『ONE PIECE』、マンガのど真ん中」『マンガの居場所』夏目房之介編著、NTT出版、2003年、p.96.
- ^ 『手塚治虫と路地裏のマンガたち』p.35。
- ^ 大塚英志、大泽信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川書店、2005年、p.123。
- ^ 『手塚治虫解体新書』p.93。
- ^ 『僕らが愛した手塚治虫』pp.172-173。
- ^ 7.0 7.1 竹内オサム『戦後マンガ50年史』筑摩書房、1995年、p.19.
- ^ 『謎のマンガ家・酒井七馬伝』pp.128-134。
- ^ 『手塚治虫解体新書』p.87。
- ^ 『手塚治虫と路地裏のマンガたち』p.55。
- ^ 『僕らが愛した手塚治虫』pp.174-175。
- ^ 『手塚治虫解体新書』p.89。
- ^ 『僕らが愛した手塚治虫』p.175。
- ^ 清水勲『大阪漫画史-漫画文化発信都市-』ニュートンプレス、p.145-146。
- ^ 『手塚治虫マンガ論』p.96.
- ^ 『手塚治虫と路地裏のマンガたち』pp.72-74。
- ^ 『誕生!手塚治虫』pp.94-95。
- ^ 18.0 18.1 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』p.20
- ^ 石森章太郎『少年のためのマンガ家入門』秋田書店、1965年。
- ^ 日本漫画学院(木村忠夫)編『漫画家名鑑1 漫画家訪問記』草の根出版会、1989年、p.84。ちばてつやインタビュー。
- ^ 瀬戸龍哉編『コミックを創った10人の男 巨星たちの春秋』ワニブックス、2002年、p.107。望月三起也インタビュー
- ^ 手塚プロダクション監修『手塚治虫とキャラクターの世界』三栄書房、2013年、p.150。古谷三敏インタビュー。
- ^ 「人生に乾杯! 24 楳図かずお」『週刊朝日』2012年4月6日号、p.61
- ^ 辰巳ヨシヒロ『劇画暮らし』本の雑誌社、2010年、p.18
- ^ 手塚プロダクション監修『手塚治虫とキャラクターの世界』三栄書房、2013年、p.148。さいとう・たかをインタビュー。
- ^ 桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』エイプリル出版、1978年、p.32
- ^ 佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして 誰も書かなかった「劇画内幕史」』文藝春秋、1996年、p.11
- ^ 小松左京『小松左京自伝 ――実存を求めて――』日本経済新聞社出版社、2008年、p.35
- ^ 宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」. YOMIURI ONLINE(読売新聞). 2009-04-14 [2021-12-13]. (原始内容存档于2009-04-19).
- ^ 横尾忠則「新寶島の記憶」『完全復刻版新寶島』手塚治虫、小学館クリエイティブ、2009年、p.12
- ^ 和田誠「ほんの数行 17 ぼくはマンガ家」『週刊金曜日』2009年1月30日号、p.36
- ^ 赤瀬川原平「ものすごい引力で導かれた手塚の世界」『朝日ジャーナル4月20日号臨時増刊 手塚治虫の世界』朝日新聞社、1989年、p.148
- ^ 青木保「"近代化"をテーマにナショナリズム批判」『朝日ジャーナル4月20日号臨時増刊 手塚治虫の世界』朝日新聞社、1989年、p.27
- ^ 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 (4)手塚治虫のシネマンガ」『キネマ旬報』2009年3月下旬号、p.109
- ^ 竹内オサム『アーチストになるな 手塚治虫』ミネルヴァ書房、2008年、pp.126
- ^ 伊藤刚「伊藤剛のマンガ史講座」『ゲームラボ』2006年12月号、三才ブックス
- ^ 夏目房之介「『晋宝島』 コマの革命はあったのか?」『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房、1992年、p.48.
- ^ 呉智英「ある戦後精神の偉業」『手塚治虫の宇宙』p.228。
- ^ 『テヅカ・イズ・デッド』pp.161-164。
- ^ 『テヅカ・イズ・デッド』
- ^ 竹内オサム『マンガ研究ハンドブック』竹内長研究室、2008年
- ^ 1989年の呉智英「ある戦後精神の偉業」『手塚治虫の宇宙』p.228。
- ^ 『テヅカ・イズ・デッド』pp.167-173。
- ^ 『謎のマンガ家・酒井七馬伝』p.124。
- ^ 野口文雄『手塚治虫の「新宝島」』小學館、2007年
- ^ lwinspec. sfari-to80world.la.coocan.jp. [2019-11-10]. (原始内容存档于2019-11-10) (日语).
- ^ 『手塚治虫解体新書』p.100。
- ^ 『僕らが愛した手塚治虫』p.176。
- ^ 『朝日新聞』1977年4月26日(『二人で少年漫画ばかり描いてきた』p.268)。
- ^ 『マンガ古書マニア』p.24。
- ^ 『手塚治虫解体新書』p.86.
- ^ 『マンガ古書マニア』p.36。
- ^ 『手塚治虫解体新書』pp.87-89。