青山忠俊
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青山忠俊像 | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正6年2月10日(1578年3月18日) |
死没 | 寛永20年4月15日(1643年6月1日) |
改名 | 伊勢千代(幼名)、忠俊 |
別名 | 藤蔵、藤五郎 |
墓所 |
神奈川県相模原市天応院 京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺芳春院 |
官位 | 従五位下・伯耆守 |
幕府 | 江戸幕府 老中、大老 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 常陸江戸崎藩主→武蔵岩槻藩主→上総大多喜藩主 |
氏族 | 藤原北家花山院流支流青山氏 |
父母 | 父:青山忠成、母:天方通興の娘 |
兄弟 | 忠次、忠俊、朝比奈泰重、幸成、天方通直、川口近次室 |
妻 | 大久保忠佐の娘 |
子 | 宗俊、宗祐、忠栄、正俊、滝川正利正室、寿松院、川口正信室、中根正次室 |
青山 忠俊(あおやま ただとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川幕府譜代大名。常陸国江戸崎藩の第2代藩主、武蔵国岩槻藩主、上総国大多喜藩主。青山家宗家10代。官位は従五位下・伯耆守。徳川家光へのたびたびの諫言のため改易となる。
生涯
[編集]天正6年(1578年)、青山忠成の次男[1]として遠江国浜松[2]で誕生した。
小田原征伐で初陣を飾り、兄・忠次の早世により嫡子となる。父・忠成が徳川家康に仕えていたため、最初は家康に仕え、後に2代将軍・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)より伯耆守を称す。慶長8年(1603年)に5,000石を与えられる。慶長12年(1607年)に土井利勝、酒井忠世と共に徳川家光の傅役を務める。慶長15年(1610年)、5,000石を加増され1万石を領する独立した大名となる。慶長18年(1613年)には父・忠成の死により、常陸江戸崎藩2代藩主となった。元和元年(1615年)には本丸老職となる。元和6年(1620年)5万5,000石をもって岩槻城主となる。
しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、元和9年(1623年)10月19日には、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、その後寛永2年(1625年)に除封され、下総国網戸・相模国溝郷・遠江小林を経て、相模今泉で蟄居する。秀忠の死後に再出仕の要請があったが断っており、子の宗俊と宗祐が出仕している(宗俊は後に大名へ復帰)。
系譜
[編集]関連寺社
[編集]- 金王八幡宮 - 東京都渋谷区にある神社。将軍相続を危ぶまれた徳川家光のため、忠俊と家光の乳母・春日局が熱心に祈願した。後に二人の寄進によって社殿が造営され、現在は渋谷区指定有形文化財となっている[3]。
- 青山神社 - 兵庫県丹波篠山市にある神社。篠山旧藩士民で青山家の旧恩を追慕景仰する人々によって、明治13年(1880年)に忠俊を祭神として篠山城内に建立した。なお、旧藩主の遠祖であるが忠俊は篠山とは縁故がなかった。そのため、昭和5年(1930年)に篠山藩主であった青山忠裕も合祀された[4]。
脚注
[編集]- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 8頁。
- ^ 静岡県浜松市。
- ^ “金王八幡宮について”. konno-hachimangu.jp. 2022年1月13日閲覧。
- ^ “篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「宗教(青山神社)」”. www.city.tambasasayama.lg.jp. 2022年1月13日閲覧。
登場作品
[編集]- 映画
- テレビドラマ
- 春の坂道(1971年、演:志村喬)
- 大久保彦左衛門(1973年、演:岡田英次)
- 徳川三国志(1975年、演:金子信雄)
- 大奥(1983年、演:山本清)
- 春日局(1999年、演:野村信次)
- 葵 徳川三代(2000年、演:石倉三郎)
- 大奥 第一章(2004年、演:柴田善行)
- 漫画