雲雀 (水雷艇)
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艦歴 | |
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計画 | 明治30年度計画[1] |
起工 | 1902年7月25日[1] |
進水 | 1903年10月21日[1] |
就役 | 1904年1月10日[1] |
除籍 | 1923年4月1日[1] |
その後 | 1923年4月1日雑役船編入、曳船兼交通船指定[1] |
廃船 | 1925年2月14日[1] |
売却 | 1926年3月4日[1] |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:152トン |
全長 | 垂線間長:45.00m (147ft 7in 11/16) |
全幅 | 4.91m (16ft 1in 7/16)[2] |
吃水 | 1.45m (4ft 9in 3/32) |
機関 | ノルマン式缶2基 直立式3気筒3段膨張レシプロ2基 2軸 4,200馬力 |
速力 | 28.5ノット[3] |
航続距離 | 10ノットで2,000海里 |
燃料 | 石炭:28.5トン(満載) |
乗員 | 30名 |
兵装 | 4.7cm保式単装軽速射砲3基(推定) 45cm水上旋回式発射管3基 |
雲雀(ひばり[4])は、日本海軍の水雷艇で、隼型水雷艇の9番艇である。
艦歴
[編集]発注時の艇名は第十号百二十噸水雷艇[4]。1900年(明治33年)10月15日、雲雀と命名[4]。1901年(明治34年)2月7日、水雷艇に編入され等級一等となる[5]。1902年(明治35年)7月25日、呉海軍造船廠で起工[1]。 1903年(明治36年)10月21日に進水し、1904年(明治37年)1月10日に竣工。
日露戦争では旅順口攻撃や、日本海海戦では第十五艇隊の司令艇として夜戦に参加した[1][6]。
1923年(大正12年)4月1日に除籍され[7]、同日、雑役船に編入となり、曳船兼交通船に指定され横須賀海軍工廠所属となる[1][6]。1925年(大正14年)2月14日に廃船となり、1926年(大正15年)3月4日に売却[1][6]。
艇長
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」27頁。
- ^ 4.91mは『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表の値をメートル換算した値。『世界の艦船 増刊第47集』によると4.90m。
- ^ 『世界の艦船 増刊第47集』による。『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表によると29ノット。
- ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940) 390頁。◎「一等水雷艇雁外五隻命名ノ件」明治三十三年十月十五日(達一六二) 呉海軍造船廠ニ於テ製造スヘキ一等水雷艇六隻へ左ノ通命名ス |〔中略〕第十号百二十噸水雷艇 雲雀 ヒバリ〔以下略〕。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 63頁。◎明治三十四年二月七日(達七) 軍艦及水雷艇類別等級別表中ニ左ノ通追加ス 水雷艇一等ノ欄「千鳥」ノ次ニ「雁、蒼鷹、鴿、燕、雲雀、雉」ヲ加フ。
- ^ a b c 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、501頁。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 79頁。◎大正十二年四月一日(達七一) 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「敷島、朝日、須磨、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雲雀、鷺、鶉、鷂、第七十二號、第七十三號、第七十四號、第七十五號」ヲ削ル。
- ^ a b 「明治三十七年辞令通報 5月」 アジア歴史資料センター Ref.C13071937800
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 中川努「日本海軍特務艦船史」
- 『世界の艦船 増刊第47集』海人社、1997年3月号増刊、第522集。
- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
- 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、1969年。ISBN 4-562-01873-9
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料篇、KKベストセラーズ、1994年。