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鍋島直朝

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鍋島 直朝
鍋島直朝像(祐徳博物館蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 元和8年1月21日1622年3月3日
死没 宝永6年11月19日1709年12月19日
改名 仁王(幼名)、茂継(初名)、直朝、紹竜(法号)
戒名 普明院
墓所 佐賀県鹿島市古枝町久保山の普明寺
官位 従五位下、刑部大輔、和泉守、贈正四位
幕府 江戸幕府
肥前鹿島藩
氏族 鍋島氏
父母 父:鍋島勝茂、母:菊姫岡部長盛娘・徳川家康養女)
養父:鍋島正茂
兄弟 元茂忠直直澄直弘直朝神代直長
妹(多久茂辰室)、妹(諫早茂敬室)、
妹(神代常利室)、妹(鍋島直広室)、
妹(上杉定勝正室)、妹(深溝松平忠房正室)
正室:鍋島高賢の娘・彦千代(寿性院)
継室:花山院定好の娘・万子姫祐徳院
側室:木庭茂吉の娘
断橋(長男、僧、俗名鍋島直孝、格峰)、直條朝清(六男)、朝則(七男)
養子:
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鍋島 直朝(なべしま なおとも)は、肥前鹿島藩の第3代藩主。前2代に鍋島忠茂正茂がいるが、正茂系は5000石の旗本として存続したため、別家として扱われる。

生涯

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元和8年(1622年)1月21日、佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂の九男[注 1]として佐賀城三ノ丸で生まれる。寛永13年(1636年)、父は直朝を鹿島藩第2代藩主・鍋島正茂の養子として強引に送り込み、寛永19年(1642年)には養子問題で対立していた正茂を追放、家督を直朝に継がせて鹿島藩主とした。

寛文12年(1672年)12月9日、家督を三男の直條に譲って隠居する。その後は紹竜と号した。宝永6年(1709年)11月19日に死去した。享年88。

柳生流の認可を受けた達人であったといわれ、書画や歌道にも秀でていたといわれる。絵を良くしていた証拠に、寛文2年(1662年)正月に描いた、大和絵風の自画像が残っている[7]。また、現在における鹿島市発展の基礎を築いたといわれている。

系譜

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父母

正室、継室

側室

子女

養子

注釈

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  1. ^ 直朝については「九男」とする文献資料[1][2][3][4]と「五男」とする文献資料[5][6]がある。徴古館の資料では鍋島勝茂の「成人した子女のみ」を数えると「七男六女」となり直朝を五男と記載している[6]

出典

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  1. ^ 黒田安雄「佐賀藩家臣団の構造(三)」『史淵』第116巻、九州大学文学部、1979年3月31日、59-83頁、doi:10.15017/2232304 
  2. ^ 鍋島直朝」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社、コトバンク。2024年8月24日閲覧。
  3. ^ 藤野保「鍋島直朝」『国史大辞典』吉川弘文館、ジャパンナレッジ。
  4. ^ 藤野保 編『佐賀藩の総合研究 : 藩制の成立と構造』吉川弘文館、1981年、250頁
  5. ^ 佐賀市史:第二巻(近世編)』佐賀市、1977年7月29日、15頁https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34624_20130321052852.pdf 
  6. ^ a b 初代佐賀藩主 鍋島勝茂公の13人の子供たちと、2代藩主になった孫”. 徴古館. 2024年8月25日閲覧。
  7. ^ 川崎市民ミュージアムほか編集 『21世紀の本居宣長』朝日新聞社発行、2004年9月、p.66。

関連項目

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