足利義久
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 応永30年(1423年) |
死没 |
(永享10年11月1日(1438年12月7日) または永享11年2月28日(1439年4月20日)の説もあり) |
改名 | 賢王丸または天皇丸(幼名)→義久 |
別名 | 八幡太郎(通称)、大若君 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 足利氏 |
父母 | 父:足利持氏、母:不詳[注釈 1] |
兄弟 | 義久、春王丸、安王丸、成氏、尊敒 |
足利 義久(あしかが よしひさ)は、室町時代中期の人物。関東公方・足利持氏の嫡男。「大若君」と呼称された。
生涯
[編集]永享10年(1438年)6月に鶴岡において元服し、義久と称する。足利満兼以来、関東公方の子が元服する際は本家当主である室町幕府征夷大将軍の諱の一字を請い、臣従を示すのが慣例であり、本来なら足利義教より一字をもらうべきところであったが、これを無視しての命名であった[注釈 2]。これに関東管領上杉憲実は諫言するが、父の持氏はこれを無視した。さらに祖先にあたる源義家の先例にならい、鶴岡八幡宮にて加冠し、義家の通称と同じ八幡太郎を称する。これにより、幕府に反抗する持氏と幕府寄りの家臣との間に不和が生じ、永享の乱となる。そして、永享の乱に敗れて自害するが、その死については三つの説がある。
『喜連川判鑑』・『足利家通系図』・『下野喜連川足利家譜』によると、永享10年(1438年)11月1日、三浦時高と上杉持朝、二階堂氏らが鎌倉大蔵谷に乱入して近習の梁田兄弟や一色、佐野らが防戦中に報国寺にて自害した[注釈 3]とされ、この4日後に義久の死去を知った海老名滞在の父・持氏は急いで鎌倉に戻り、長尾芳傳(忠政、長尾忠綱の子)の陣中で憲実と和睦したとされる。
『永享記』・『関東合戦記』・『北条記』など[注釈 4]によると、永享11年(1439年)2月10日に父・持氏が自害した後、2月28日に報国寺の義久のもとに、討伐されることが伝えられると、義久は仏前で焼香し、念仏を十回唱えた後で左脇に刀を突き立てて自害したとされる。
また、『古河御所之傳』・『系図纂要』では持氏と同日に永安寺で自害したことになっている。
没年月日が以上のように3通りあり、また享年も10[2]・12[3]・14[4]・17[5]とする諸説があるため、永享10年(1438年)説を採るものは享年12のため生年は応永34年(1427年)だが、永享11年(1439年)説を採るものは享年10か14あるいは17で、生年は永享2年(1430年)か応永33年(1426年)、応永30年(1423年)となるが、日光輪王寺の常行堂大過去帳によれば、永享11年2月11日を没日として法要が行われており、その享年が17であることから、この説が最も有力であるとされている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 記録上、持氏の妻としては家臣とされる簗田河内守の娘(実際には簗田助良(満助)の姪と推定)しか伝えられていないが、実際には足利一門もしくは守護大名格の子女を正妻に迎えていたと思われ、義久は正妻の子であったと推測される[1]。
- ^ (異母兄の藤氏が既に一字を賜っていたという事情があった最後の当主義氏を除き)関東公方が将軍から賜る一字は将軍の諱の2文字目であり、「義」の字は義教の一字というよりは足利将軍家の通字と考える(本来は義教より「教」の一字を受けて「教氏」(のりうじ)とでも名乗るべきところであったのだろう)。無断での将軍家の通字の使用にはこれまでの関東公方が抱いてきた将軍職への野望があるという意図が窺えなくもない。
- ^ 『喜連川判鑑』では稲村満貞と共に自害したとするが、一説には満貞は持氏と共に永享11年に自害したとも。また、『下野喜連川足利家譜』では足利満直も義久・満貞と共に自害したとされている。
- ^ その他、『足利系図』では日付は記されていないが自害は持氏の自害後である。
出典
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参考文献・史料
[編集]- 『足利系図』(『続群書類従』5上 所収)
- 『喜連川判鑑』(元禄9年(1696年)写、原本二階堂貞政所蔵本、彰考館識、『続群書類従』5上 所収)
- 『古河公方系図』(『続群書類従』5上 所収)
- 『古河御所之傳』(『続群書類従』5上 所収)
- 『永享記』(『続群書類従』20上 所収)
- 『関東合戦記』(『続群書類従』21上 所収)
- 『北条記』(『続群書類従』21上 所収)
- 『足利家通系図』(『古河市史 資料 中世編』所収)
- 『下野喜連川足利家譜』(『古河市史 資料 中世編』所収)
- 『系図纂要』10下
- 『寛政重修諸家譜』2
- 『講談社日本人名大辞典』(2001年、講談社)