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西武601系電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西武601系電車(せいぶ601けいでんしゃ)は、西武鉄道1962年より製造した通勤形電車である。同社初のカルダン駆動方式採用車であった。

それ以前の西武は他の大手私鉄とは異なり、1950年代中期から盛んとなった高加減速性能を持つ通勤型車両の導入を行わず、1960年代に入っても日本国有鉄道(国鉄)中古部品搭載の低性能な電車を量産する「質より量」の車両政策を採っていたが、この系列を機としてようやく電車の性能向上に取り組み始め、西武の車両史を変革させた車両であった。しかしながら装備の一部に引き続き中古部品を使い、低コストを志向して簡素なメカニズムに徹するなど、同時期の他私鉄に比して見劣りする車両であった。またそれだけではなく、旧性能の在来車との混結も考慮したためにブレーキ装置は在来車と同一とされるなど、カルダン駆動方式の持つ高加減速性能などの高性能をあまり発揮できなかった。

過渡期の存在であり、1963年までの短期間に4両編成7本28両が製造されたのみであった。後継の701系電車等に伍して、1960年代から1980年代まで、西武新宿線ほかの通勤輸送に用いられたが、この間、1970年代中期以降は601系としての編成組成を解かれ、独立した系列としての実態を喪失した。電動車は701系に編入され、701系とともにブレーキ装置の改良や冷房装置の搭載などを施されて、走行性能や旅客サービスを改善した。一方制御車については台車交換などの近代化措置を受けたものの、機器類に互換性のある旧型車両のグループに実質編入され、末期はもっぱら支線運用に充てられた。

西武鉄道在籍車・地方私鉄譲渡車とも既に廃車され現存しない。

開発以前

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西武の国鉄式標準化

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西武鉄道は、太平洋戦争後の1946年以降、輸送力増強策として、国鉄から大正時代製造の老朽木造電車や、焼夷弾を用いた空襲による火災で廃車になった電車、いわゆる「焼け電」を大量購入した。これを元に、台車・電装部品・鋼体・台枠(メインフレーム)等を流用し、自社西武所沢車両工場で叩きなおしによる復旧や鋼体化改造[注釈 1]を行い、車両の標準化を一気に進めたのである[注釈 2]

このため、西武の電車は一時、国鉄形の主要機器を標準装備とするようになった。資本系列の関係もあり、特定の車両メーカーとの結びつきが深いことが一般的な大手私鉄の中でも、非常に特異な例である。

1954年には、完全オリジナル設計の車体を持つ初代501系(のち411系から351系と改称)が所沢車両工場で製造されたが、これも走行機器は国鉄タイプの中古品ばかりで、一部は書類上も国鉄払い下げ車等の改造車扱いであった。さらに、西武鉄道で初めて全車20m級車体を標準化した2代目501系電車(1957年)の登場時には、初代501系に装備されていた出力の大きな主電動機[注釈 3]と昭和初期設計の台車[注釈 4]を転用、初代は411系と改称して、より低スペックな主電動機[注釈 5]と大正時代に設計された旧式台車[注釈 6]を装着するという、涙ぐましいまでのやりくりを行っていた。

外見だけの新車

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西武以外の大手私鉄各社は1954年以降、また国鉄でさえ1957年以降、通勤輸送対策として斬新な高性能電車を多数開発・投入した。低振動で高回転・高速運転が可能な「カルダン駆動モーター」、滑らかな高加速を得られる「多段制御器」、反応が早く作動確実かつ強力な「電空併用式電磁直通ブレーキ」、乗り心地が良く高速安定性に優れた「軽量台車」、全金属製の「軽量車体」などが、その構成要素である。

これらの新技術によって、加減速能力の高い「高性能電車」を実現させ、ラッシュ時の過密ダイヤを迅速にさばこうとする考え方であった[注釈 7]

だがこのうち、1950年代の西武が導入したのは「軽量車体」だけであった。従来より大型で収容力の大きな車体を、心皿荷重上限の低い手持ちの中古台車と組み合わせる狙いがあった。

西武鉄道では第二次世界大戦後、TR11・TR14といった同系の釣り合い梁式台車を備える旧式国鉄車両を払い下げで大量取得し、急増する通勤輸送に役立てていた。だが、これらの台車は搭載可能な車体の重さを示す心皿荷重上限が低く[注釈 8]、車体の更新や新造にあたっても戦前以来の在来設計を用いる限り、17m級以上の大型車体を搭載するのが困難であった。そうした中、20m級でも17m級並かそれ以下の車体重量を実現する軽量車体の採用は、輸送力強化の障害となっていたこの問題の解決に大きく貢献し、西武鉄道でTR11がその後も第一線で長く運用される一因となった。

西武鉄道では2代目501系で軽量車体を採用した後、1959年には切妻式の両開き3ドア20m級車体を持つ451系、1961年には451系の前頭形状を2枚窓としてアルミハニカムドアを与えた551系を開発しているが、どちらもスマートな軽量車体の通勤車でありながら、旧式でばね下重量が大きく、しかも低回転な吊り掛け駆動方式のMT15モーター、制御段数が少なく直並列切り替えの渡り動作時に出力が半減するなど作動の荒いCS5電空カム軸制御器、乗り心地の悪いイコライザー式のTR11・TR14台車、長大編成時に効きが遅くて操作に熟練を要するA動作弁によるA自動空気ブレーキを装備していた[注釈 9]

いずれも、廃車になった戦前の国鉄電車からの流用部品であり、走行性能は他社の高性能車から30年程度遅れた、昭和初期そのままの水準だった。唯一の進歩は、全車の台車軸受けをプレーンメタルからローラーベアリングに改造したことだけ[注釈 10]であった。

他私鉄であれば「車体更新車」と呼ばれるような「外見だけの新車」を製造する一方で、国鉄からの廃車払い下げはこの間も続いていた[注釈 11]。また保有していた在来車のうち、西武鉄道の前身である旧・武蔵野鉄道と旧・西武鉄道が昭和初期から戦時中にかけて製造した16m - 18m級の電車は、「多形式少両数で数が揃わず使いにくい」「国鉄形と規格が揃わない」ため、その多くが1965年までに所沢車両工場で改造のうえ、地方の中小私鉄に売却されてしまった。

「質」より「量」志向

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当時の西武電車は、このような(行き過ぎと言えるほどの)標準化で制御系統やブレーキ装置が徹底して統一されていたため、ほとんどの形式は相手を問わず相互に連結できた。17m級車と20m級車、半鋼製車と全金属車体車など、バラバラな形態での新旧車両混成は日常茶飯事であった。限られた予算の中で「質」よりもまず「量」を揃えることで輸送力を確保しようとしたのが、1950年代の西武の実態だったのである。

当時の西武鉄道は、路線自体の輸送キャパシティが旅客需要増大に比して極端に貧弱であった。特に池袋線は、前身の旧・武蔵野鉄道が経営不振体質であったため、終戦直後の時点での複線区間は池袋 - 保谷間だけという状態で、急激な需要の伸びに対応しきれず、車両増備と並行して複線化事業を推進せねばならなかった(池袋 - 所沢間複線化が完成したのは1960年である)。

ここに他の大手私鉄にくらべて大きなマイナスポイントがあるゆえ、車両増備に際しても高価な高性能車には手を染めず、国電の中古車・中古部品で対応せざるを得なかった。

2代目501系はその大出力(西武の基準では[注釈 12])故に、1962年から1968年の間、電動車2両と付随車4両を組み合わせた超・経済編成を組んでいた。これは電動車の性能に比して大幅な過負荷で「発進・加速が、一応はできる」というレベルの編成である。この編成はラッシュアワーにも容赦なく運行され、当時の運転士は列車をダイヤに乗せるため非常に苦労したという。

その間にも日本国内ではカルダン駆動方式の普及が進み、1961年の時点で、西武鉄道を除く大手私鉄全社が、何らかの形でカルダン駆動方式を導入していた。それどころか、当時準大手の相模鉄道山陽電気鉄道、さらには地方中小私鉄である富山地方鉄道長野電鉄等でも採用された[注釈 13]

1950年代後半の新製車に吊り掛け駆動車を多数含んだ例に南海電気鉄道1521系・2051系)と東武鉄道7800系)があるが、いずれも吊り掛け式電車としては強力かつ軽量な主電動機[注釈 14]や多段式電動カム軸制御器など上質な機器を搭載しており、また、車体内外のつくりも良く、西武よりは一等上であった。昭和30年代中期までカルダン駆動と無縁に、なお戦前並みの低性能電車ばかりを増備し続けた大手私鉄は、西武だけであった。

電車の高性能化

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車両数を揃えることのみに徹してきた西武の輸送力対策も、東京近郊におけるスプロール現象の激化の前に、1960年代に入ると限界が見えつつあった[注釈 15]

どれだけ保有車両数を増やしたところで、列車の編成延長はプラットホーム有効長の制約から限界があり、1列車あたりの輸送力は頭打ちになる。また都心へ向かう通勤路線は、ラッシュアワーには限界一杯の稠密ダイヤを組んでおり、そのままでは列車増発は困難である。

ここからさらに輸送力を増強する策は唯一、電車の加減速能力・高速運転性能を従来より高めて、各列車の運転所要時間を短縮し、ダイヤの余裕を捻出して、列車増発を図る以外にない。この場合、もはや旧式設計の低性能電車では対応しきれない。

国鉄では最混雑線区に重点的に新型電車を投入し、大手私鉄の多くは、加減速条件がシビアな各駅停車に新型車を、加減速の条件が緩い急行に旧型車を充てるなどの使い分けで、それぞれ限られた数の新型電車を最大限に活用して輸送需要に対応していた。

このような他社の状況を考えれば、1960年頃の西武鉄道は、ラッシュ対策として新たな手法を検討すべき時期に来ていたと言える。こうしてようやく1961年頃から、在来車よりも性能を向上したカルダン駆動通勤電車の開発が具体化してきた。もっともその開発過程では、コストダウン最重視の西武鉄道らしい手法が多用された。

国鉄との取引

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大手私鉄では新車開発の際、車両メーカーや重電メーカーに依頼して、カルダン駆動モーターや軽量台車を自社線の条件に合わせた特注のスペックで製造させる例が多い。自社の事情に最適化した機器類が望ましいのは当然であるが、その分だけコストは高くなる。

そこで西武では、国鉄形の既存の機器類を同一スペックで新規に製造する手法を採ることにした。開発コストは抑えられるうえ、製造ロットの膨大な国鉄形部品は、量産効果で製造コストも安くなるという当時の西武らしい発想ではある。

この際、西武は国鉄の設計を流用する代償として、国鉄側に「ST式戸締め装置」を無償使用させる旨申し出た。

これは西武所沢車両工場(STの由来)が1960年に開発した自動ドア機構の一種だが、2枚1セットの両開き扉を、ベルトと連動させてドアエンジン1個で駆動できる、という合理的な機構で、既に西武451系電車に用いられていた。両開き扉車のドアエンジン個数を片開き扉車並みに節約する手法はそれ以前にもリンク駆動による方式があったが、西武のベルトドライブ方式は構造が簡単で、ドア数の多い通勤形電車を量産する際にはコストダウン効果が大きく画期的なものだった。

通勤形電車を中心に両開き扉が採用され、これに伴うドアエンジン数の増加による製造・保守コストの増大に頭を悩ませていた国鉄もこの申し出を受け容れ、西武は国鉄形の台車主電動機を自社の取引先メーカー[注釈 16]で新規製造して使用できることになった。ST式戸締め装置は、国鉄では1963年の103系電車以降広く使用されている[注釈 17]

旧式ブレーキ

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電車電気機関車の「発電ブレーキ」は、モーターを発電機として作動させることで走行エネルギーを吸収し制動力とするものである。急勾配路線の降坂用としては日本でも古くから存在したが、車輪にブレーキシューを押しつける空気ブレーキとは制御系統が分けられており、コントロールには熟練を要した。また、停車時に常用する類のものではなかった[注釈 18]

その後、アメリカで開発された電空併用式電磁直通ブレーキ(SMEEおよび改良型のHSC-D)が1953年に日本に導入されると、平坦路線でも高速域から強力なブレーキ力を得られること、また空気ブレーキと自動的に連携・協調して作動し、操作も回転角に比例してブレーキ力が増大するセルフラップ弁となったため、常用ブレーキとしての取り扱いが容易となったことから、通勤用電車への発電ブレーキ装備が一気に普及した。発電ブレーキ併用のHSC-D電磁直通ブレーキは、1950年代後半以降、1980年代まで大手私鉄の高性能通勤電車における一つのスタンダードな装備品にさえなった[注釈 19]

しかし、西武鉄道は1962年の時点でHSC-Dブレーキどころか、その発電ブレーキ省略形であるHSCブレーキすら採用しなかった。カルダン車についてもさすがに長大編成化対応として応答性を向上させる電磁給排弁は付加したものの、従来からの自動空気ブレーキ(AE電磁自動空気ブレーキ)を引き続き使用したのである。自動空気ブレーキとすれば在来車との機器融通も利き、また制御器についても在来車と同調可能とすることで、相互に連結できるようになる。

もっとも自動空気ブレーキは、電磁直通ブレーキに比し、レスポンスの悪さや取り扱いの手間を伴った。制動能力は自ずから制約を受け、カルダン車でありながら、ダイヤ編成上の減速性能は旧型車同様に扱わざるを得なくなった。

新旧併結の例も他にないわけではなかった。しかし多くの私鉄では、従来のAブレーキと互換性を持ちつつ中継弁の併用によってブレーキ力を増幅し、かつ電磁給排弁を設けることで応答速度を向上させたARSE電磁中継併用直通自動ブレーキなどを使用し、長大編成対応や高速応答を実現して高性能化をはかりつつも、A動作弁などによる自動空気ブレーキを搭載する旧型車との併結を可能としていた。そしてこれらの私鉄では、既に吊り掛け式の世代から発電ブレーキを使用している場合も多く、対応する新型車の多くは電空併用のARSE-Dブレーキだった。

ともあれ西武鉄道は、1963年11月から池袋線池袋 - 所沢間でラッシュ時に私鉄初の10両編成運転を開始しているが、この長大編成組成においては、ブレーキ仕様の徹底統一が著しく寄与していた。

601系電車

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クハ1601形(制御付随車 (Tc) ) - モハ601形(電動車 (M) ) - モハ601形(電動車 (M') ) - クハ1601形(制御付随車 (Tc) )の4両編成で、1962年末から1963年までに4両編成7本28両が製造された

車体

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西武所沢車両工場で内製した、20m級の3ドア軽量車体。全金属製である。

外観は、前年の1961年に製造された吊り掛け式の551系とほぼ同型である。正面は細いピラーを中央に通した湘南形2枚窓、だが扉はプレスドアに戻っている。当初の塗装は、俗に「赤電」と呼ばれるローズピンクとベージュのツートーンで、この点も在来車と変わらなかった。

異なるのは、551系が先頭車を制御電動車としたため、両端先頭車にパンタグラフがあるのに対し、本系列は中間電動車方式を採用し、中間車2両中1両のみにパンタグラフがある点である。

また、台車の関係からか551系と比べて床面高さが高くなったことから、連結器を避けるための欠き取りが小さくなっている。また、正面ワイパー位置が551系の窓上装備に対して本系列では窓下装備とされている。これにより前面の表情がわずかに異なっている。

車内はロングシートのみの簡素な作りで、蛍光灯照明にアルミデコラ板内装など、当時の一般的水準のきわめて平凡な通勤仕様車であり、特記すべき点は全くない。

主要機器

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主電動機

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中空軸平行カルダン駆動方式の日立HS-836-Frb[注釈 20]で、国鉄が開発したばかりの最新型である「MT54」とほとんど同一の設計である。ただし冷却ファン構造の差異のせいか、発生する駆動音は同じ国鉄制式でもやや旧式な「MT46形」[注釈 21]に似ていた。日立製作所は国鉄から指定を受け、完全自社設計の電装部品とは別に、他の主要な重電メーカーと統一した仕様で国鉄制式設計の電装部品を製造し、国鉄に納入していたのである。

MT54を搭載した国鉄初の車両である165系電車の就役は1963年1月であり、西武は最新型の主電動機を本家国鉄に先駆けて使用開始したことになる。もっとも西武では、メーカーでの国鉄向け量産が本格化した後の1970年代まで701系・801系・401系(2代)(電装品交換に伴う搭載)用としてこの系列のモーターを新製投入し続けており、導入全期間を通して見ればコストダウンの意図は十分に達成されたと考えられている。

ギア比はMT46搭載車だった国鉄101系電車と同一の84:15 ( = 5.60) で、MT54搭載の国鉄近郊形(ギア比4.82)よりもさらに加速力・牽引力重視の設定である。国鉄では電力消費量の問題などを背景に、このギア比を採ったMT54搭載の通勤形電車はまったく新造されず、約20年後にMT54を搭載する581・583系近郊形化改造時に101系の駆動装置を転用し、ギア比を5.60とした例が生じたにとどまっている[注釈 22]

制御装置・補機類

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主制御器は日立MMC-HT-20A(弱め界磁起動1段、直列10段、並列7段、弱め界磁5段)電動カム軸式1C8M制御の多段制御器で、2両分8個のモーターを制御する。4両編成で制御器1基、パンタグラフも1基で済まされており、コストを抑制している。

制御段数は発電制動がないため、力行(加速モード)のみの23段である。当時はもっと制御段数の多い超多段制御器も多く出現していたが、イニシャルコスト・メンテナンスコストとも高く付くため、在来車との併結も考慮して比較的簡素なこのタイプを選択したものと見られる。これでも制御段数が10段足らずの在来型のCS5よりは上等であった。ただし運転台マスコンは3ノッチ仕様の旧式な国鉄MC1[注釈 23]のままで、在来車と操作性を合わせている。

電動発電機空気圧縮機は、旧型国電用の部品を充当している。空気圧縮機AK-3形は旧型国電からの中古品だけでなく新製したものも存在し、5000系レッドアロー2000系2両編成車に至るまで、西武標準形として広く採用された[注釈 24]

台車・ブレーキ

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電動車の台車住友金属工業製FS342で、実質的に国鉄の通勤電車・普通電車用標準台車であるDT21そのものである。住友は以前から国鉄向けにDT21を生産していた。鋼板をプレスした部材を溶接で組み立てる、ボルスター付の金属ばね台車でボルスカアンカーは装着せず、ペデスタル支持のウイングばねによる軸箱支持機構など、当時としてもごく平凡無難な構造である。1957年に開発された国鉄101系に採用されて以来、この系列の台車は国鉄向けには1980年代中期まで生産が続いた。

付随車の台車は、またしても中古の流用品のTR11が用いられた。本来、大正時代に国鉄(鉄道省)が客車用に設計し大量に製造され、電車の付随車用としても使われた台車である。弓形イコライザー式の古典台車で、製造後最低でも30年以上を経過しており、20m級の大型客車・電車にはあまり適さず高速域ではピッチングの酷い代物であった。

ただし、混雑の激化に対応して可能な限り大量の車両を揃えねばならなかった当時の状況下、付随台車については既存インフラが有効活用可能で、かつ国鉄払い下げによる大量調達も容易なこの台車以外コスト面で選択肢が存在しなかった西武ならではのやむを得ない事情があった。
元来、戦後の西武鉄道成立以前の一方の母体となった武蔵野鉄道が、この鉄道省系の同型台車採用に長期に渡って固執し続けていたという経緯もあって、この種の台車の整備に必要なインフラは西武社内に整備されていた。
更に、西武は国鉄から車両の払い下げを受けるに当たって、TR11と同型ながら心皿荷重上限が大きいTR12[注釈 25]装着車を重点的に指定するなど、現実的範囲でのベターな選択を模索していた。事実、本系列などでの台車再利用に当たっては、所沢車両工場でいったん完全解体のうえ、徹底的な改修工事を実施[注釈 26]しており、基本設計の旧弊さは変わりないにしても、可能な限りの強化・近代化を図る努力は怠っていなかった[注釈 27]
また、旧型台車供用では相応の整備ノウハウを求められるが、これを支える技術のある人員も西武には揃っており[注釈 28]、この種の台車を採用した各社中では最良に近い整備状況であったことが知られている。

ブレーキは前述の通り電磁給排弁付のAE電磁自動空気ブレーキで、電磁給排弁の付加で特に長大編成時の応答速度は向上しているが、発電ブレーキがないこともあって制動能力そのものは旧型車並みである。電動車のブレーキシリンダーは中継弁を介した台車シリンダー方式としたが、制御車は台車側のブレーキワークの関係もあって車体装架であった。

その後の推移

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1970年代まで主に新宿線系統で後続形式の701系等と共に運用されていたが、新宿線系統の701系基本編成が4両から6両に変更されるのに伴い、1975年以降、少数派の本系列は順次この編成組み替えに種車を供出するため編成を解かれることになった。

モハ601形

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中間電動車モハ601形は既存の701系4両編成に組み込まれることになり、ブレーキをHSC電磁直通ブレーキとし冷房化改造も施され、形式を701系中間車の枝番扱いとする形(モハ701-1 - 14)で同系に編入された。また、客用扉を101系で採用されたものと同じステンレス製無塗装扉に交換している[注釈 29]。初期に改造されたモハ701-1・2・5・6は赤電塗装のまま、それ以外は黄色一色で落成したが、後に全車黄色一色となり完全に面目を一新した。しかし窓形状が本来の701系の独立窓ではなく、551系などと同様に2組1セットの2連窓であることから容易に区別がつく。車内の設備は初期の6両は冷房以外ほぼ製造時のオリジナルだったが、モハ701-7以降は新101系と同様の手すり・網棚に交換され、モハ701-9からはさらにドアエンジンがSTK-4D形に変更された[注釈 30]

701系6両編成の廃車進行に伴い、1992年までに全車廃車された。

クハ1601形

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総武流山電鉄クハ71 (元クハ1659)
総武流山電鉄クハ71
(元クハ1659)

初期に編成を解かれたクハ1601 - 1606は、老朽化したクハ1411形を置き換えるため、塗色・台車・ブレーキ等は従来のまま、吊り掛け駆動の旧型車グループに編入された。1983年11月までに新形式の新101系・301系3000系に本線運用を置き換えられ離脱した。

この6両は順にクハ1651形(1657 - 1662)と改称し[注釈 31]、貫通路を狭幅化の上451系と編成を組んで、国分寺線多摩川線等の支線を中心に運用された。のち1984年には組成相手である451系の廃車進捗に伴い3両が廃車となったが、残る3両は貫通路を再度広幅化し、551系クモハ556 - 558に連結相手を変え、この際台車は空気ばね台車のFS40となった。

西武鉄道では1988年までに廃車されたが、1984年にクハ1658を、1988年にはクハ1659を総武流山電鉄(現、流鉄)に譲渡(クハ81・クハ712001年までに廃車)、また1985年にはクハ1661を一畑電気鉄道(鉄道事業は現、一畑電車)に(クハ1911998年廃車)に、クハ1662を上信電鉄に(クハ1051996年廃車)にそれぞれ譲渡している。クハ1662を除いていずれも551系と2両編成を組んで譲渡されたものである[注釈 32]

その後編成を解かれたクハ1607 - 1614は、当時旧型車の淘汰が進行していたため、転用されることなく1981年5月に廃車解体となった。

脚注

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注釈

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  1. ^ 新造した鋼製車体に載せ替える工事。
  2. ^ 1946年から1955年にかけて製作されたクモハ311形、クハ1311形、1411形など。これらの改造車両は、国鉄の戦前形鋼製電車モハ50形・クハ55・65形をほとんどデッドコピーした設計であり、実際にも大井工場などでそれらの製造に携わったスタッフを迎え入れて工事が進められた。
  3. ^ MT30。端子電圧675V時1時間定格出力128kW/780rpm(全界磁)・1,005rpm(60%界磁)。
  4. ^ TR25あるいはTR22。ただし、西武での独自発注による国鉄規格外の短軸距モデルを含む。
  5. ^ MT15。端子電圧675V時1時間定格出力100kW/653rpm。他に同級性能のMT7等も用いられた。さらに西武では、100kW級主電動機までもが車体新造車に充当されて払底すると、17m級電動車の一部に国鉄払い下げ主電動機でも更に旧式なMT4(端子電圧675V時定格出力85kW)を装備してしのぐという、念の入った玉突き中古部品転用を連発している。
  6. ^ TR14
  7. ^ 複々線化や待避線の整備、ホーム有効長延長などの地上設備投資よりも、高性能車両への投資の方が輸送力対策として比較的低コストで手っ取り早かったという実情がある。もっとも、高性能車の威力を過信して設備投資が後回しになった小田急電鉄などは後年、地上設備の強化改善に塗炭の苦しみを味わうことになる。
  8. ^ 国鉄では主に自重30t以下の電車あるいは客車に使用されていた。なお、同時代の20m級車は一般に自重40tを超過していた。
  9. ^ これは、手持ちの低性能な機器を流用しつつ一定の輸送力・走行性能を実現するために、最新設計の車体を積極導入した。
  10. ^ もっとも、西武でのTR11・TR14台車は、後述するように外観では判別しにくい部分について徹底的な改修を実施しており、限られた予算の範囲で少しでも改良する努力は行われていた。
  11. ^ 主に昭和初期製造の17m級鋼製車。371系他のグループとなった。
  12. ^ 501系が搭載した主電動機のMT30は額面上定格出力が128kWであるが、これは戦前の国鉄で架線電圧が定格値より1割低下した条件で定格出力を設定していたが故の値である。つまり、架線電圧をそのまま利用できる前提となった戦後の基準では定格出力は142kWで国鉄モハ63形などに採用された後継機種のMT40と同等となる。この値は狭軌を採用する日本の私鉄各社の電車用電動機では、戦前の一部関西私鉄で採用された150kW級電動機を別にすれば最強クラスで、東武や南海で同時期に製造されていた吊り掛け駆動の通勤電車と比較しても同等である。
  13. ^ ただし地方私鉄の場合は、通勤電車の高性能化よりも、優等列車の居住性の向上や、高速運転時の軌道負担の軽減が主眼である。
  14. ^ 日立製作所HS-269-CRおよび東洋電機製造TDK-544(いずれも端子電圧750V時1時間定格出力142kW)といった、西武が愛用したMT30と同等の出力の機種を採用していたが、これらは定格回転数が全界磁で1,250rpmと吊り掛け式としては非常に高く、大幅な軽量化が実現されていた。
  15. ^ それでも、西武における戦前形電装部品を装備した車両増備は、1968年まで続いた。
  16. ^ 台車は住友金属工業、主電動機は日立製作所。
  17. ^ その後に言及するならば、バブル崩壊によって大手私鉄でもコストカットが強く求められる時代に入り、2002年の相模鉄道10000系を皮切りに、主に関東圏の私鉄でその設計の基礎を国鉄の後身であるJR東日本の車両に求める事が多くなり、結果的に西武は先見の明があったとも言える。
  18. ^ ただし、大阪市営地下鉄などいくつかの事業者では、踏面ブレーキ多用によるタイヤの緩み、地下敷設軌道内での鉄粉飛散などを抑制するため、この様なシステムでも停止制動用に常用していた。特に阪和電気鉄道の一部の車両では、抵抗器で熱として発散させる狭義の発電ブレーキに代わり、電力を架線へ押し返す回生ブレーキを戦前期にすでに常用していた。
  19. ^ 国鉄ではHSC-Dブレーキの同等品として、SELD発電併用電磁直通ブレーキという名称で採用している。
  20. ^ 端子電圧375V、一時間定格出力120kW、定格電流360A、定格回転数1,630rpm
  21. ^ 端子電圧375V、一時間定格出力100kW 定格電流300A、定格回転数1,860rpm(70%界磁)
  22. ^ JR発足以降まで見れば165系の廃車発生部品を流用したJR東日本107系電車(制御器は1M方式)の例もあるが、これも少数にとどまった。
  23. ^ 大正時代にゼネラル・エレクトリック社から輸入されたC36を改良・国産化したもの。
  24. ^ なお、1990年代以降新形への置き換えや車両そのものの代替新造により、2011年に2000系クハ2414が圧縮機を更新したのを最後に現役の搭載車両はなくなった。
  25. ^ TR11とTR12の相違はほぼ車軸のみで外観の差違は事実上皆無であり、このためTR12装着車であってもTR11装着と誤認されたケースが少なからず存在する。通勤用電車ではラッシュ時の荷重がかさむため、台車は荷重上限の大きい方が望ましい。
  26. ^ 再用部分はオーバーホールし、ペデスタル部を独自に設計した鋳鋼製の新品に交換して強度や剛性を向上、併せてコロ軸受化を実施するなどのアップデートを図った。
  27. ^ TR11系台車は1960年代時点でも前時代的だったが、国鉄払い下げ品や私鉄での同型台車が多く、廉価に入手可能であり、この時代以降も改装して重用した私鉄は少なくなかった。相模鉄道での強化事例は西武以上で、枕ばねのコイルばね化やオイルダンパーの追加を実施している。
  28. ^ 西武では、国鉄の大宮・大井工場出身の工員で戦前にモハ50クハ65形の鋼製化改造工事に携わった者を、戦後に社員として迎え入れていた。この際、この系統の旧型台車を熟知した熟練技術者をも獲得していたと伝えられている。
  29. ^ 扉の窓支持方式は701-1 - 6は黒色Hゴム、701-7 - 14は新101系に準じた金具押さえタイプである。
  30. ^ これは組み込み先である701系の冷房改造時期の違いによる工事内容差異に準じるものであり、従来のST式戸閉機構は車掌スイッチを「開」にしたときに空気が抜けて客用扉がゆっくり開き、「閉」にするとすぐ扉が閉まる方式だった。STK-4D形はこのパターンを逆にして「開」で即座に扉が開き、「閉」で数秒おいてから扉が閉まる方式になった。
  31. ^ 車両番号が中途半端なのは当初の連結相手であったクモハ457 - 462に合わせたためである。
  32. ^ このうち西武在籍当時からの編成のままで譲渡されたのはクハ1659 - クモハ558とクモハ461 - クハ1662の2編成で、クハ1658はクモハ561、クハ1661はクモハ560とそれぞれ新たに編成を組ませた上で譲渡されている。

出典

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