福田重義
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福田重義 | |
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生誕 |
1887年(明治20年) 長崎県 |
死没 | 1971年(83 - 84歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学工科大学 |
職業 | 建築家 |
所属 |
東京市 福田重義建築事務所 |
建築物 |
旧日比谷公園事務所 横浜市開港記念会館原案 |
福田 重義(ふくだ しげよし、1887年(明治20年) - 1971年(昭和46年)は、日本の建築家。大正期に長く東京市の建築家、建築行政家として、また都市計画の方面でも活躍した。
経歴
[編集]長崎県生まれ。1908年(明治41年)、東京帝国大学工科大学建築学部を卒業。同年の卒業生に出浦高介、田中実、渡辺節、徳大寺彬麿らがいる。
住友総本店臨時建築部(現日建設計)、三菱合資会社地所部(現三菱地所設計)を経て、1910年、東京市技師になる。在職中の1913年(大正2年)には横浜港開港50周年記念事業の公募設計(建築設計競技)で福田案が1等当選。設計原案ならびに基本構造設計を手がけた。その後、建築課長ののち、東京市都市計画試案を立案し調査課長、市場建設課長、営繕課長などを歴任。
関東大震災後の1924年、市場施設視察のため、欧米に出張[1]。1928年、建築課長から復興事業局長に昇進(池辺稲生の後任)[2]。石原憲治、田中希一、佐野利器らと震災復興事業に従事した。
1930年に東京市を退職し、麹町区富士見町の自宅に福田重義建築事務所を開く。1937年、万国博覧会の工営部長に就任[3](博覧会は1940年開催予定であったが、戦争の激化により中止)。1938年(昭和13年)、日本建築学会副会長。
1940年、同潤会建築部長、1941年、住宅営団理事・建築部長に就任[4]。
作品
[編集]名称 | 年 | 所在地 | 状態 | 備考 |
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日比谷公園事務所 | 旧1910年(明治43年) | 千代田区 | 東京都東京都指定有形文化財 | |
四谷見附橋の装飾 | 1913年(大正2年) | 東京都 | ||
横浜市開港記念会館原案 | 1913年(大正2年) | 神奈川県横浜市 | 重要文化財 | 実施設計:山田七五郎・佐藤四郎 |
呉服橋・鍛冶橋の装飾 | 1914年(大正3年) | 東京都中央区 | 現存せず | |
東京市営住宅 | 東京都 | |||
神田青果市場 | 1928年(昭和3年) | 東京都千代田区 | 現存せず | |
早稲田中学校校舎 | 1931年(昭和6年) | 東京都新宿区 | 現存せず | 施工:戸田組[5] |
三楽病院 | 1933年(昭和8年) | 東京都 | 現存せず |
ギャラリー
[編集]-
旧四谷見附橋(長池公園内)
-
同じく
参考文献
[編集]- 森井健介『師と友 建築をめぐる人々』( 鹿島出版会、1967年)