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田原伸吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田原 伸吾
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1967-04-25) 1967年4月25日(57歳)
身長
体重
181[1] cm
kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

田原 伸吾(たはら しんご、1967年4月25日 - )は、日本の元アマチュア野球選手外野手)・コーチTDK社員。

此花学院高校の強打者として知られ[2]本塁打を量産して「浪速のベーブルース」としてスポーツ紙で取り上げられた[1]。また、当時は清原和博のライバルと目されていた[2]

その後、明治大学卒業を経て社会人野球熊谷組TDKでプレーする[2]

経歴

[編集]

1983年、此花学院高校に入学する。1年生からレギュラーで出場し本塁打を量産した。高校通算で78本のホームランを打ち、これは同学年の清原を14本上回る成績で[2]当時の日本記録を樹立する[要出典]

PL学園野球部の練習場の付近で練習していたため、PL学園が練習を終えるまでは自分たちも練習を続けると意識したという[1]1985年の夏の甲子園大阪府予選の盾津戦では右越え2点本塁打を放ち、準々決勝では同期の桑田清原KKコンビを擁するPL学園と対戦する[2]。しかし、桑田投手を相手に二塁打を放つも[1]、此花学院高校は1 - 5でPL学園に敗戦する[2]

また、体育振興牌を秩父宮記念体育振興会から授与される。

その後、プロ野球の球団からの誘いを断り、東京六大学明治大学へ進学[2]。神宮では2本と本塁打こそ少なかったが、4年生の秋、水戸市市民球場で行われた島岡吉郎監督の追悼試合で早稲田大学と対戦。4番打者として勝利に貢献する。

大学卒業後もプロ野球の誘いが来るが断り、社会人野球の名門チーム熊谷組に入社。1年目にはスポニチ大会で優勝に貢献 、2年目には2打席連続ホームランを打ち同大会にて優秀選手に選ばれる。

翌々年にゼネコンが不況になり、熊谷組野球部が休部になるが、92年に田原はTDKに移籍[2]。低迷していた野球部の建て直しに取り組み、TDKを11年ぶりに東北地区代表として都市対抗全国大会出場に導く[2]

同時に秋田県仁賀保町の地域活性化にも貢献する。

96年から熊谷組がクラブチーム、熊球クラブとして復活し、TDKに所属しながら在籍する。コーチ兼任としてプレーし、3度のクラブ選手権全国大会に出場し、97年は全国クラブ選手権大会準優勝に貢献する。

2005年時点ではTDK海外駐在員としてシンガポールにセールスマネージャーとして勤務する[2]。シンガポールに駐在中は、ボランティアで硬式野球のシンガポール代表チームの臨時コーチを勤める。

また、2015年にはTDK硬式野球部の次期監督の有力候補であると報じられ[3]、同年10月から就任予定であるとされていた[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e 「第97回全国高校野球:初☆競り勝つ 大阪偕星、延長、打線つながる スタンド大歓声 /大阪」『毎日新聞』地方版/大阪2015年8月9日付、19頁。G-searchにて閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 「(あの夏、そして-KKから20年:1)田原伸吾さん・此花学院 高校野球 /大阪府」『朝日新聞』大阪地方版2005年6月28日付、30頁。G-searchにて閲覧。
  3. ^ 「社会人野球 日本選手権東北最終予選最終日 TDKが全国切符=東北」『スポーツ報知』2015年9月1日付、19頁。G-searchにて閲覧。