コンテンツにスキップ

津島利章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
津島 利章
生誕 (1936-05-22) 1936年5月22日
出身地 日本の旗 岡山県
死没 (2013-11-25) 2013年11月25日(77歳没)
学歴 日本大学芸術学部
ジャンル 映画音楽、ドラマ音楽
職業 作曲家
活動期間 1960年代 - 2013年

津島 利章(つしま としあき、1936年〈昭和11年〉年5月22日[1][2] - 2013年〈平成25年〉11月25日)は、日本作曲家岡山県出身[2]

来歴・人物

[編集]

愛媛県立新居浜工業高等学校電気科を卒業[2]。上京し、東京工業大学を受験するも不合格となり、日本大学芸術学部音楽理論科に入学[2]。音楽を志すつもりはなく、合格後も代々木予備校に通ったが、夏休みに黄疸にかかり、翌年春までの闘病となり、工大受験を断念した[2]

日本大学芸術学部3年生の折に作曲した『管弦四重奏』が、毎日音楽コンクールで入賞[2]。周囲の勧めもあり、作曲家となる。1961年、フジテレビの『宮本武蔵』で注目を浴び、 1964年の『三匹の侍』で東映京都のプロデューサーの目に留まり、誘いを受けて映画音楽家となる。以後様々な映画テレビドラマ音楽を担当した。『木枯し紋次郎 関わりござんせん』や『仁義なき戦い』にも映画音楽を提供した。

多作で知られ、1970年には年間14本の映画音楽を手掛けており、これは総計で約420曲を作曲した計算である。自ら「津島節というものがない」と語り、作曲手法も個性的な独自の手法だった。譜面はほとんど人に進呈してしまい、手元に残さない。「忘れるのも仕事のうち」と語り、作品ごとで完全燃焼するので個々の仕事はあまり覚えていないという。時代劇映画では古めかしい音楽、1980年代の『大捜査線』ではワウワウを使用するなど、アクションものにふさわしいファンキーな曲を提供し、常に臨機応変な作曲姿勢だった。

2013年11月25日、誤嚥性肺炎により死去[3]。77歳没。

作風は可聴域を広く埋めてから、小節線を越えるタイ旋律を引き伸ばすなど、発想がシンフォニックなのが特徴だが、1980年代にはビッグバンド・ジャズ的な曲をドラマに提供するなど、多彩な音楽性を持っていた。

作品

[編集]

※は合作

映画

[編集]

テレビドラマ

[編集]

校歌

[編集]

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b 野村宏平、冬門稔弐「5月22日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、139頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  2. ^ a b c d e f g h i j 小林淳 2022, pp. 388–390, 「第十章 多様なエンタテインメント映画を謳う音律 [1975 - 1978] 三『惑星大戦争』」
  3. ^ 「仁義なき戦い」手がけた作曲家、津島利章さん死去”. MSN産経ニュース. 産業経済新聞社 (2013年11月27日). 2013年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月27日閲覧。
  4. ^ 校歌”. 東京医療保健大学. 2023年4月11日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 季刊誌「シネマアイ」1982年夏号
  • 小林淳『東宝空想特撮映画 轟く 1954-1984』アルファベータブックス〈叢書・20世紀の芸術と文学〉、2022年5月14日。ISBN 978-4-86598-094-3 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]