河野悦次郎
河野 悦次郎 | |
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生誕 |
1891年6月15日 日本 愛媛県 |
死没 | 1944年9月8日(53歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1944年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6月15日[1][2] - 1944年(昭和19年)9月8日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]愛媛県出身[1][2][3]。木工業・河野民吉の二男として生まれる[1]。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる[1][4]。陸軍歩兵学校付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した[1][2][3]。
1926年(大正15年)2月、参謀本部付勤務(支那班)となり、支那駐屯軍参謀を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1929年(昭和4年)3月、歩兵第1連隊大隊長となり、歩兵第75連隊付(竜井村駐在)、第3師団参謀、第8師団参謀を務め、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進む[1]。1934年(昭和9年)8月、関東軍参謀に就任し、陸士付、支那駐屯軍司令部付(太原駐在)を務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に進級し第3師団司令部付(名古屋医科大学配属将校)となる[1][3]。
1938年(昭和13年)3月、北支那方面軍司令部付(太原特務機関長)に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。同年5月、北支那方面軍特務部付となり、第12軍司令部付(青島特務機関長)、済南特務機関長、山東省特務機関長を務め、1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進級した[1][2][3]。
1941年(昭和16年)10月、第12軍参謀長に転じ、兼山東省特務機関長(1941年10月-1942年5月)を務め、1942年(昭和17年)12月、関東軍司令部付として満州国軍政部最高顧問となり1943年(昭和18年)3月まで在任[1][2][3]。1943年6月、陸軍中将に昇進[1][2][3]。東部軍司令部付を経て、1943年9月、第53師団長に親補され、ビルマの戦いに出征[1][2][3]。病のため1944年(昭和19年)4月、参謀本部付となり帰国したが、同年9月に戦病死した[1][2][3]。
親族
[編集]- 弟 河野清吾(陸軍軍医大佐)・河野又四郎(陸軍大佐)[1]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。