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武蔵野合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武蔵野合戦
戦争南北朝の内乱
年月日正平7年/文和元年(1352年)閏2月 - 3月
場所武蔵国相模国(現在の東京都埼玉県神奈川県)の各地
結果:北朝・室町幕府の勝利
交戦勢力
南朝
旧直義党
北朝
室町幕府
指導者・指揮官
宗良親王
新田義興
新田義宗
北条時行 処刑
足利尊氏
足利基氏
戦力
- -
損害
- -
南北朝の内乱

武蔵野合戦(むさしのがっせん)は、南北朝時代観応の擾乱直後に発生した合戦正平7年/文和元年(1352年)閏2月から3月にかけて、武蔵国相模国(現、東京都埼玉県神奈川県)の各地において、足利尊氏北朝方の軍勢と、新田義興新田義宗南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦である。

背景

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正平6年/観応2年(1351年)、観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返した。尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。年末に駿河で行われた両軍による薩埵峠の戦いに勝利した尊氏は翌1352年直義を降伏させ、鎌倉に入った。直義は2月に急死したが、『太平記』では、この急死に関して「毒物を口にして亡くなったという変死(もしくは毒殺)のうわさ話」があった、と記している。

正平7年/文和元年(1352年)、南朝方の北畠親房は、北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都鎌倉の同時奪還を企てる。閏2月15日、新田義貞の遺児新田義興義宗と、従兄弟の脇屋義治らが、上野国で挙兵した。同日に現地・世良田の長楽寺に禁制を交付していることから、総司令官は義興であった[1]

新田軍は、即日上野中の国中の尊氏党を討って、翌16日には武蔵国に進軍した[2]。 また、同16日には諏訪氏以下が、同年閏2月6日に征夷大将軍に任じられた[3]宗良親王を奉じて信濃国で挙兵し上野と信濃の堺の碓氷峠まで進軍した[4]。この諏訪氏は『太平記』に「諏訪祝」とあることから、諏訪直頼らを指しているとみられる。信濃勢の中には仁科兵庫祐・高梨越前守・伴野十郎・滋野八郎・祢津小次郎といった、一貫して南朝・直義党として活動してきた面々が親王に与していた[5]

経過

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金井原・人見ヶ原の合戦

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義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下し鎌倉に迫った[3]。鎌倉にいた足利尊氏は閏2月17日に難を避けて神奈川(神奈川県横浜市神奈川区)に逃れた。尊氏が鎌倉にとどまらず、いちはやく鎌倉を出陣したのは、鎌倉を巡るそれまでの攻防戦のなかで自然と身に着いた尊氏の経験則であったと推測され、鎌倉に向かっていた義興・義治軍には想定外のことであったらしい[6]。当時の尊氏軍は、足利一族と奉行衆の他には、武蔵武士の江戸・豊嶋・石浜・川越氏らと、相模・伊豆の武士らが大半という構成で、関東中南部の中小武士や一揆を中心としていた。小田氏の宍戸朝里、大掾氏の鹿島越前守、那須氏一族の那須資宿を除けば、佐竹・小山・宇都宮・大掾・小田・結城・千葉氏らの当主はこの時点では全く参加しておらず、下野常陸下総の旧族大名をまったく含まない構成であった[7]

尊氏が鎌倉から没落したため、南朝勢は閏2月18日に鎌倉を占領する[8]。この時に鎌倉に突入したのは『園太暦』観応3年3月4日条によれば、新田軍の全軍ではなく、義興・義治軍の別動隊とみられる[9]。尊氏は閏2月19日に谷口(東京都稲城市)へ移動したが、これを知らなかった義宗は尊氏を討つために神奈川へ向かった[3]。また同19日までに新田軍は義宗と、義興・義治で二手に分かれた。主力の義宗軍は信濃国・上野国から南下してくる宗良親王らの到着を笛吹峠埼玉県鳩山町嵐山町境)で待ち[10]、義興・義治は武蔵国に向かった[11]

義興・義治軍は、閏2月19日に同国鶴見(横浜市鶴見区)・関戸(東京都多摩市)を経由し、閏2月20日金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて、足利勢との最初の合戦(人見ヶ原の合戦)を行った。この合戦の様子は『太平記』(巻三十一)に生々しく語られており[12]、この戦いで尊氏は、「すでに腹を切んとて、鎧の上帯切て抛捨て、高紐を放さんとし給ひけるを、近習の侍共二十余騎、返合て追かくる敵の河中まで渡懸たると、引組みゞ討死しける其間に、将軍急を遁れて、向の岸へかけ上り給ふ」というほど苦戦した[2]。双方とも相当の損害を出したと言われる。戦いは足利方である『鶴岡社務記録』が閏2月20日付条で「御方打勝而御敵没落」と記録していること[13]や『鎌倉大日記』がこの後の28日の小手指原合戦と合わせて「二度ながら将軍が勝利」と記録しているように[14]、足利勢が勝利した。

義興から足利勢への追撃が行われた事実はなく[15]、敗れた義興はいったん鎌倉へ戻った[11]。退却した義興を追撃するように、閏2月25日に武蔵国府東京都府中市)から足利方の石塔義基らによる尊氏軍の別働隊が鎌倉に向け出陣し[15]、新田義興・三浦高通らと石塔義基とで攻防戦が続く[16]ことになる。

鎌倉合戦

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尊氏率いる足利勢は、武蔵国石浜東京都台東区。場所には諸説あり)に退却し、勢力の回復を図った。離散した軍勢の再結集を進める一方で、尊氏が関東の旧族大名・領主たちに協力を求めた結果、千葉氏胤小山氏政小田治久宇都宮氏綱大掾高幹佐竹義篤佐竹師義結城直光・長沼判官ら、下野・常陸・下総の旧族大名らが石浜に参陣した[17]。また尊氏の息子の足利基氏が、尊氏が人見原・金井原で合戦をしていたのと同時期の閏2月23日[18]に鎌倉で三浦軍と合流した義興に攻められたため、尊氏のいる石浜に走っている[12]。この間に新田軍は三浦半島を征した[2]

当時の新田方には、武蔵七党の児玉党・丹党・猪俣党・野与党・私市党・西党・横山党・村山党および熊谷氏らの西北武蔵の武士らが馳せ参じているが、加えて旧直義方であった上杉憲顕石塔義房・三浦高通らが、尊氏に反して新田方に味方していた[19]。新田軍が鎌倉に入った閏2月20日の鶴岡社務記録の同日条には北条時行の名も確認できる[20]。ただし、時行が義興たちにどこから合流したかは不明である[21]

日付の異同はあるが、同記録によれば22日に義興・時行は鎌倉を出たという[22]鈴木由美は、前述の石塔義基との攻防のため、三浦に援軍を求めにいったと推測している[21]が、時行の名前はこの後の閏2月28日の鎌倉合戦では確認できず、いつまで義興と行動を共にしていたかは不明である[21]。また、江田郁夫は20日の金井原合戦での敗北を受け、義興が閏2月23日に味方の三浦高通の本拠地である三浦半島に退いたという見方をしている。これは安房国守護代に新田軍を追討するよう下知するように命じた尊氏の同23日付の御行書(「新田兵佐介・三浦介以下輩、可令没落安房国之由有其聞」(清源寺文書))をその裏付けとしており、三浦半島から安房に逃れて勢力を盛り返し、鎌倉幕府を樹立した源頼朝の先例を念頭においた尊氏が、新田軍も同様に安房に渡海する可能性を想定していた[23]ことがうかがえるという。

まもなく体制を立て直した新田軍は鎌倉に拠点を移し、閏2月28日に攻め寄せた石塔義基ら尊氏軍との間で攻防戦を繰り広げた[23]。『鶴岡社務記録』の同日条は、鶴岡八幡宮社頭の赤橋(太鼓橋)周辺で、足利勢の高氏石塔氏らと三浦・新田軍主力との間で合戦が行われ、高氏らが敗れたと記録している[24]。なお、この戦いに石塔義基の指揮下で参加した佐藤元清への軍忠状(佐藤文書)から、佐藤氏を含めた高・石塔氏の軍は尊氏軍別動隊の「大将御合戦」に合流するために化粧坂に引き返したことがわかるが、鶴岡八幡宮の社人には足利方が敗北したように映ったらしく[25]、実際に義興軍は3月2日まで鎌倉を掌握し続けた。

小手指原合戦・笛吹峠の戦い

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閏2月20日と23日の武蔵野と鎌倉での戦いでそれぞれ退却・敗走した足利勢は、北武蔵に陣した義宗を討つべきか、鎌倉に入った義興を打つべきかを論議したが、まず上杉憲顕が参加している義宗軍を討つことに決めた[26]。閏2月25日、金井原合戦に間に合わなかった千葉氏胤らをはじめとする新手の軍勢がほぼ集結し終え、『太平記』によれば「総勢八万余騎」におよんだという軍勢の再編成を行った尊氏軍は[15]、石浜を出て武蔵国府東京都府中市)へ進み、そこで武田信武ら甲斐の軍勢を合わせ[17]、28日には北武蔵野に進軍した[26]。前述の通り、同25日には石塔義基らの別働隊が武蔵国府を出て、新田義興らがいる鎌倉に向かっており、足利勢としては新田義宗と義興の軍勢を合流させず、分断したまま各個撃破する作戦であったようである[15]

笛吹峠埼玉県鳩山町嵐山町境)に陣を敷いていた新田義宗は、宗良親王ら信濃勢や直義派であった上杉憲顕らと合流した。閏2月28日、足利勢と新田勢は小手指原(埼玉県所沢市)で合戦となった。新田軍が敗走し、これを足利軍が追撃して入間河原(埼玉県狭山市)・高麗原(埼玉県日高市)で合戦が行われた[16]。小手指原合戦の際には、宗良親王が南朝軍を陣頭指揮して「君がため世のため何かをしからん すててかひある命なりせば」(新葉和歌集)の和歌を詠んだと言われている。

義宗らは笛吹峠に退き、ここで最後の戦いが行われた。この時、上杉憲顕軍の二人長尾弾正・根津小次郎が尊氏軍に紛れ入り、尊氏を狙い撃とうとしたが見破られ「運強キ足利殿ヤ」と言い捨てて逃げ帰ったと『太平記』は記している[12]。足利勢が勝利し、敗れた義宗は越後方面、宗良親王は信濃方面に落ち延びた。

鎌倉にいた新田義興・三浦高通の軍は同28日に鎌倉で尊氏方の石塔義基らの軍と戦い勝利していたが[21]、笛吹峠の戦いで勝利した尊氏軍が、関東八ヵ国の軍勢を率いて鎌倉に向かっていると聞き、再度の挙兵をきして3月2日に鎌倉を脱出し[12]、3日ごろには相模国平塚(神奈川県平塚市)に移り[11]、その後相模国河村城神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。

3月8日に尊氏は相模に出陣し、3月12日に基氏と共に鎌倉に帰った(鶴岡社務記録)[12]。翌13日には基氏の「沙汰始」の式を行い、河村城には畠山国清を派遣する。国清は15日に義興が立て籠もる河村城を攻め、義興は翌文和2年(1353年)の春までこの城を守ったが、そののち義治とともに越後に没落した[26]。北条時行は同年5月8日から11日にかけての間に鎌倉付近で足利基氏の手の者に捕らえられ、同月20日に龍ノ口で斬首された[27]

義興・義治・義宗は同年10月~1月に越後国で足利軍と戦うが没落し、翌文和2年(1353年)9月にも尊氏方と戦うも再び没落する。さらに文和3年(1354年)4月にも義治・義宗は越後国で尊氏方と戦うがこれにも敗れ、潜伏することになる[28]。他方、義宗のその後の行方はわかっていない。応安元年(1367年)に死んだというが定かではなく、日本各地にさまざまな伝説(複数の墓や生存伝承)を残している[29]

影響

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一時は南朝方が京都・鎌倉の両方を占領したが、一連の合戦により南朝方の関東での挙兵は短期間で鎮圧された。その結果、関東における南朝方および直義派の勢力は衰退し、以後それらの勢力に鎌倉が渡ることはなかった。

ただし南朝方の動きは続いており、宇都宮氏支配下の西明寺城栃木県益子町)では、南北朝の動乱に際して南朝方として行動していた氏綱の父・宇都宮公綱寄りの立場にいた益子氏が中心と思われる南朝方勢力が籠城し、翌年10月近くまで落城しなかった。遠江国駿河国の動静も緊迫した状態を迎えており、尊氏は今川範氏を駿河に下し、閏2月24日に伊達右近将監に対して範氏に従い忠節を励むよう命じている[30]。尊氏は翌年7月まで鎌倉に滞在し、1年と5カ月の間、関東の情勢を鎮めることに注力した。また尊氏自身は、鎌倉に戻る前日の観応3年(1352年)3月11日からの軍忠状などの文書に正平ではなく、ふたたび観応の年号を用いるようになる[26]

鎌倉公方基氏を補佐する執事職は空白となっていたが、畠山国清が任命され、以後足利基氏・畠山国清の体制で鎌倉府が運営されていくこととなる(薩埵山体制)。また畠山国清は武蔵・伊豆守護、宇都宮氏綱は上野・越後守護、千葉氏胤が上総・下総守護と、この3名が2カ国の守護を兼ね、河越直重が相模守護、小山氏政が下野守護となり、尊氏上洛後の足利基氏鎌倉府を支えることになった[31]。ただしこれは、建武の動乱のあとは武蔵・上野・上総・伊豆・越後を足利氏が把握し、高氏上杉氏が守護をつとめていた関東の守護職が、観応の擾乱の結果、武蔵・伊豆を除いて関東の武士(外様)に与えられたということであり、鎌倉の足利政権の性格はきわめて弱体なものとなり、足利氏の求心力が相対的に低下した[32]。のちに鎌倉公方の基氏はこの政治体制の克服を目指すことになる。

尊氏は鎌倉を出発する直前の7月28日に、越後上野の新田党に備えて基氏を武蔵に下向させ、入間川御陣埼玉県狭山市)に滞陣させた[33]。先述の通り、武蔵野合戦において尊氏は、上野で蜂起した新田軍を迎え撃つに辺って鎌倉に一切とどまることなく出陣し、広大な武蔵野で攻防戦を行ったが、この入間川は上野・越後へ向かう鎌倉街道上道が通り、交通の要衝といえる武蔵野の要地に位置していた。敵方の策動が続く中で越後や北関東により近接するという、軍事的にも地政的にも好条件を備える地であり、結果的に武蔵野合戦が入間川御陣を拠点とする「入間川殿」=足利基氏による関東支配を誕生させた[34]

参加人物

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北朝勢、足利勢

足利尊氏、足利基氏、畠山国清、仁木頼章結城直光、宇都宮氏綱、河越直重、江戸長門、千葉氏胤、小山氏政、小田治久、大掾高幹、佐竹義篤、佐竹師義、高坂氏重[35]、金子信泰、高麗経澄、高麗季実、久下忠頼、春日行元、別府幸実

南朝勢、新田勢(旧足利直義派を含む)

宗良親王、新田義興、新田義宗、脇屋義治、上杉憲顕、石塔義房、三浦高通、北条時行、諏訪直頼、仁科重貞祢津行貞祢津宗貞

脚注

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  1. ^ 亀田俊和生駒孝臣編(2021)『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、p.172)
  2. ^ a b c 黒田基樹編(2013)『足利基氏とその時代』戎光祥出版、p.14
  3. ^ a b c 埼玉県編(1988)『埼玉県史 通史編2 中世』ぎょうせい、p.284
  4. ^ 鈴木由美(2021)『中先代の乱中央公論新社、p.176
  5. ^ 亀田俊和ほか(2021)p.216
  6. ^ 峰岸純夫・江田郁夫編(2016)『足利尊氏 激動の生涯とゆかりの人々』pp.221-222
  7. ^ 峰岸・江田編(2016)p.182
  8. ^ 亀田俊和ほか(2021)p.172
  9. ^ 峰岸・江田編(2016)p.209
  10. ^ 峰岸・江田編(2016)p.210
  11. ^ a b c 亀田俊和ほか(2021)p.173
  12. ^ a b c d e 田辺久子(2002)『関東公方足利四代:基氏・氏満・満兼・持氏』吉川弘文館、p.30
  13. ^ 峰岸・江田編(2016)p.211
  14. ^ 峰岸・江田編(2016) p.217
  15. ^ a b c d 峰岸・江田編(2016) p.216
  16. ^ a b 埼玉県編(1988)p.285
  17. ^ a b 峰岸・江田編(2016)p.182
  18. ^ 亀田俊和ほか(2021)p.203
  19. ^ 黒田基樹編(2013)pp.14-15
  20. ^ 亀田俊和ほか(2021)p.202
  21. ^ a b c d 鈴木由美(2021)p.177
  22. ^ 亀田俊和ほか(2021)pp.202-203
  23. ^ a b 峰岸・江田編(2016)p.213
  24. ^ 峰岸・江田編2016 p.214
  25. ^ 峰岸・江田編(2016)pp.214-215
  26. ^ a b c d 黒田基樹編(2013)p.15
  27. ^ 亀田俊和ほか(2021)p.203
  28. ^ 亀田俊和ほか(2021)p.174
  29. ^ 亀田俊和ほか(2021)p.175
  30. ^ 峰岸・江田編(2016)p.221
  31. ^ 峰岸・江田編(2016)p.106
  32. ^ 山田邦明(1995)『関東府と関東:中世の政治秩序と在地社会』p.45
  33. ^ 峰岸・江田編(2016)p.220
  34. ^ 峰岸・江田編(2016)p.222
  35. ^ 埼玉県編(1988)p.286

参考文献

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  • 亀田俊和・生駒孝臣編『南北朝武将列伝・南朝編』戎光祥出版、2021年3月。ISBN 978-4-86403-380-0 
  • 黒田基樹編『足利基氏とその時代(関東足利氏の歴史第1巻)』戎光祥出版、2013年4月。ISBN 978-4-86403-080-9 
  • 埼玉県編『埼玉県史 通史編2 中世』ぎょうせい、1988年3月。 
  • 鈴木由美『中先代の乱』中央公論新社、2021年7月。ISBN 978-4-12-102653-8 
  • 田辺久子『関東公方足利氏四代:基氏・氏満・満兼・持氏』吉川弘文館、2002年9月。ISBN 9784642077897 
  • 峰岸純夫・江田郁夫編『足利尊氏:激動の生涯とゆかりの人々』戎光祥出版、2016年2月。ISBN 978-4-86403-186-8 
  • 山田邦明『鎌倉府と関東:中世の政治秩序と在地社会』校倉書房、1995年8月。ISBN 9784751724903 

関連項目

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