松平信応
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄10年(1697年) |
死没 | 延享2年10月5日(1745年10月29日) |
改名 | 信政→信応 |
別名 | 八十之丞→舎人 |
戒名 | 誓雲院殿鏡誉祐岳円心居士 |
墓所 | 東京都文京区小日向の深光寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 |
父:松平信定 養父:松平信連 |
兄弟 | 長八郎、主税、斐章、求馬、信望、縫殿、内匠、数馬、外記、輝規、九鬼隆直、竹之助、信応、女(秋元時朝室)、女(米津政容室) |
妻 | 浅野正氏の娘 |
子 |
信高、某、女(松平忠章室) 養子:信成、女(関永張の娘、信成室) |
松平 信応(まつだいら のぶまさ)は、江戸時代中期の旗本(寄合)。堅綱系大河内松平家4代。石高は1000石。
元禄10年(1697年)に旗本・松平信定の十三男として江戸で生まれる。宝永元年(1704年)9月20日に松平信連の末期養子となり、12月2日に遺領を相続する。幼少のため小普請に入り、正徳元年(1711年)10月19日に初めて将軍家宣に御目見する。享保20年(1735年)11月28日に寄合に列する。延享2年(1745年)10月5日に死去した。享年49。
信応の代から、菩提寺を大河内一族の菩提寺である野火止の平林寺から、小日向の深光寺へと変更している。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第二百五十七