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東映東京撮影所

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東映東京撮影所
西門
西門
種類 映画スタジオ
本社所在地 日本の旗 日本
178-8666
東京都練馬区東大泉2丁目34-5
北緯35度45分14.5秒 東経139度35分41.3秒 / 北緯35.754028度 東経139.594806度 / 35.754028; 139.594806座標: 北緯35度45分14.5秒 東経139度35分41.3秒 / 北緯35.754028度 東経139.594806度 / 35.754028; 139.594806
設立 1951年4月1日
業種 サービス業
事業内容 映画・テレビ製作
所有者 東映株式会社
主要部門
外部リンク www.toei.co.jp/studio/tokyo/
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東映東京撮影所(とうえい とうきょうさつえいじょ)は、東京都練馬区東大泉に存在する映画スタジオ

かつては敷地内に、東映アカデミーも存在していた(2011年3月31日閉鎖)。その東映アカデミーと本社直属の東映俳優センターを統合した所属俳優・声優のマネジメント部門として、同2011年11月1日に「東映株式会社 東京撮影所 マネージメント部」(2024年4月より俳優事業部、通称「東映マネージメント」)を設立した。本項ではこれについても記述する。

概要

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映連加盟の大手映画会社である東映の事業所。 通称「大泉撮影所」「東映大泉」。俳優や映画など業界内では単に「大泉」と略称されることもある。

敷地内には、東映テレビ・プロダクション特撮研究所東映アニメーションといった関連の各企業を内包する。

東映となってからは70数年であるが、撮影所自体は新興キネマが現代劇部用に開所して以来90年と長い歴史を有する。

2023年11月現在の所長は東映の執行役員も兼務する木次谷良助で、東京撮影所制作作品にはプロダクション統括としてクレジットされている。

沿革

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前史

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戦前は「新興キネマ東京(大泉)撮影所」として1934年(昭和9年)10月に開所(当時は東京市板橋区東大泉町)、同社の現代劇部として稼動が始まった。1942年(昭和17年)、新興キネマが日活および大都映画と合併して大映になるとすぐに閉鎖された。

戦後の1947年(昭和22年)、五島慶太が率いる東急資本により「株式会社太泉スタヂオ」が設立され、貸しスタジオとなる。この時代に新東宝がスタジオを借りて黒澤明監督による『野良犬』が撮影された。株式会社太泉スタヂオは「太泉映画株式会社」と改称して自社製作に乗り出す。

東映のスタジオとして

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オープンセット跡地に開業したプラッツ大泉西友リヴィンオズ大泉店)

1951年(昭和26年)4月1日東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して東映株式会社を設立。太泉映画スタジオは「東映東京撮影所」、東横映画撮影所は「東映京都撮影所」となった。東京映画配給の配給・興行機構は、本社・支社、直営映画館として東映という企業体を構成した。

かつて日活調布撮影所銀座の街並みを再現したオープンセットがあったように、大泉にも街並みを再現したオープンセットがあった。そのオープンセット跡地には、1983年(昭和58年)4月23日ショッピングセンタープラッツ大泉」が開業し[1]核店舗として西友オズ大泉店(1999年からはリヴィンオズ大泉店[2][3])が開店した。現在でも映画やテレビドラマロケ地として、特撮やショッピングシーンなどの撮影に使用されている。

また旧正門のあたりには、シネマコンプレックスT・ジョイ SEIBU 大泉」が併設されている。同施設の館内には東京撮影所に関わった経営者・映画監督・俳優の手形や写真パネルが展示されている。

2002年2月28日に地上5階・地下1階建て、敷地132.43坪、延床面積686.35坪の新本館ビル「G.STUDIO」が竣工した。「G.STUDIO」のGには、舞台などの控室を指す「Green Room」や、撮影に訪れた俳優が出入りすることから「Guest」、竣工当時は所内最大の施設であったことから「Giant」など、複数の意味が込められており、東京撮影所のキャスティングプロデューサーである福岡康裕によって命名された[4]

2010年6月には東映ラボ・テックと共同で、総合ポストプロダクション施設「東映デジタルセンター」および次世代VFX技術の研究開発部門「ツークン研究所」を敷地内に設立[5]。VFX・CG・バーチャルプロダクションを含めたトータルなポスプロ体制を作る。

近年のバーチャルプロダクションに対応するため、2022年10月、東京撮影所に専門部署「バーチャルプロダクション部」を発足。それに伴い2023年1月、No.11ステージに横30m×縦5mのLEDウォールを設置。インカメラVFX対応型とする。映画会社が自社でLEDスタジオを保有・運用するのは国内初になる。

付記

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1987年8月28日に新日本プロレスが「戦国合戦シリーズ」第5戦を大泉の東映東京撮影所で開催するなど[6]プロレス団体が敷地内に特設リングを設置して興行を行うことがある。

2020年令和2年)3月31日日刊スポーツが「新型コロナウイルス感染症関連で撮影所が封鎖された」[7]と報道したが、誤報(デマ)であった[8]。東映は当該報道を受け、同年4月3日に公式サイトで「3月31日に『撮影所封鎖』なる一部報道がされましたが、当日は撮影所は一切封鎖はしておらず、この報道に関しては誤報でございます。撮影所としては保健所との協議の上での対応と、更なる予防策の強化を実施しており、現在も通常運営を行っております。」と発表した[8]

主なフィルモグラフィ

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劇場用映画

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昭和残侠伝 唐獅子牡丹』(1966年)

近年の劇場映画

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テレビドラマ

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東映東京制作所

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1965年7月[9][10]、東京撮影所と京都撮影所内にそれぞれ、東映東京制作所、東映京都制作所(のち東映太秦映像)が新設された[9][11][12]。東映の自社製作が減っていた現状を鑑み、貸しスタジオやテレビ映画テレビドラマコマーシャルフィルムなどの製作を行うための組織改革とされたが[9]、実際は過激な組合活動家を押し込むための組織であり[11][13][14]佐伯孚治折田至ら160人がここへ移動させられた[10][15]。特に東京制作所は契約者労働組合「東映東京制作所契約者労働組合」(東制労)を結成し[10]、同じ敷地内の東京撮影所、東映動画(東映アニメーション)、東映テレビ・プロダクションの組合活動家を糾合し、"東制労闘争"として会社に対する労組攻勢を強めた[10][16]。出身者に植田泰治[14]やまさき十三[10][17]、呉徳洙らがいる[10]1984年の『高原に列車が走った』は、ここを強権発動で潰したいと考えた岡田茂東映社長に植田泰治が啖呵を切り[14]、東京制作所出身者を中心に製作されたもので[14]、東映は長年、岡田が好きな映画だけが作られてきたが[14][18]、同作は岡田が唯一、作りたくなかった映画といわれる[14]

キャスティング部門

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俳優声優キャスティングを手掛ける。2014年に声優のキャスティング業務をマネージメント部からキャスティング部へ移管した[19]

過去の所属声優

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キャスティング担当作品

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東映マネージメント

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東映株式会社 東京撮影所 俳優事業部
本社所在地 日本の旗 日本
178-8666
東京都練馬区東大泉2丁目34-5
北緯35度45分14.5秒 東経139度35分41.3秒 / 北緯35.754028度 東経139.594806度 / 35.754028; 139.594806
設立 2011年平成23年)11月1日
業種 サービス業
事業内容 俳優のマネージメント
所有者 東映株式会社
外部リンク toei-management.com
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2011年11月1日に本社直属の「東映俳優センター」と東京撮影所の一部門である「東映アカデミー」を統合し誕生。正式名称は「東映株式会社 東京撮影所 俳優事業部」。事務所は東映本社内に置かれている。

所属俳優

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2024年9月現在。

過去の所属俳優

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T・ジョイSEIBU大泉

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T・ジョイSEIBU大泉
T・JOYSEIBUOIZUMI
情報
正式名称 T・ジョイSEIBU大泉
旧名称 T・ジョイ大泉
開館 2001年12月15日
収容人員 (9スクリーン)1,592[23]
用途 映画上映
運営 株式会社ティ・ジョイ
所在地 178-0063
東京都練馬区東大泉2丁目34-1
オズスタジオシティ4階[24]
位置 北緯35度45分11.0秒 東経139度35分41.5秒 / 北緯35.753056度 東経139.594861度 / 35.753056; 139.594861 (T・ジョイSEIBU大泉
T・JOYSEIBUOIZUMI
)
最寄駅 SI 西武池袋線 大泉学園駅石神井公園駅[25]
外部リンク T・ジョイSEIBU大泉 - KINEZO
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T・ジョイSEIBU大泉(ティ・ジョイセイブおおいずみ、英語: T・JOYSEIBUOIZUMI)は、東映東京撮影所のOZ STUDIO CITYに所在するシネマコンプレックス。東映の子会社である株式会社ティ・ジョイが「T・ジョイ大泉」の名で2001年に開業した[26]。9スクリーン合計で車椅子席含めた1592人を収容できる[23]。同社と西武リアルティソリューションズによる共同事業体への移行に伴い、2016年4月1日に「T・ジョイSEIBU大泉」に改称した[27]

スクリーン詳細[23]
No. 座席数 3D対応 備考
通常 車椅子
1 429 2
2 201 1
3 166 1
4 235 2
5 117 1
6 74 1
7 160 1
8 90 1
9 109 1

脚注

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出典

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  1. ^ 日本映画1984. 芳賀書店. (1984-05) 
  2. ^ 1994年6月から1999年4月までは百貨店業態の「西友オズ大泉西武店」としても営業(「西友オズ大泉店オープン、生鮮“こだわり”追求、話題商品売れる」日本食糧新聞、1994年6月15日。)。
  3. ^ 「リヴィン大泉店 朝採り野菜直販 西友」『日経流通新聞』 1999年(平成11年)4月27日。
  4. ^ 東映株式会社総務部社史編纂担当 編『東映の軌跡』東映、2016年3月、468頁。全国書誌番号:22743708 
  5. ^ 「AKIBARANGER VFX TALK 永富大地×美濃一彦」『非公認戦隊アキバレンジャー(非)公式読本 AKIBA MIRACLE DELUSION』グライドメディア〈グライドメディアムック86〉、2012年9月10日、88-93頁。ISBN 978-4-8130-8186-9 
  6. ^ 新日本プロレス「戦国合戦シリーズ」第5戦 1987年8月28日 東京・東映大泉撮影所特設リング 試合結果”. プロレス試合結果データベース. 2019年4月17日閲覧。
  7. ^ “東映東京撮影所が封鎖、関係者が新型コロナ発症”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年3月31日). オリジナルの2020年3月31日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/lFsZO 2020年3月31日閲覧。 
  8. ^ a b 東京撮影所に関する一部報道について”. 東映株式会社 オフィシャルサイト (2020年4月3日). 2020年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月3日閲覧。
  9. ^ a b c 「女優さんは近頃おひまヤクザとエロに締出させた清純派」『週刊朝日』1965年9月24日号、朝日新聞社、122頁。 
  10. ^ a b c d e f 新宿書房 俎板橋だより(7)村山新治と佐伯孚治日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 24 呉徳洙(オ・ドクス)聞き手:門間貴志 - 山形国際ドキュメンタリー映画祭公式サイト、評者◆凪一木 その59 小平裕、本年八二歳No.3460 ・ 2020年08月15日
  11. ^ a b 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年、221-223頁。ISBN 978-4-16-376810-6 
  12. ^ 第3回『私と東映』x 神先頌尚 (全4回)”. 東映 (2011年12月15日). 2020年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月25日閲覧。
  13. ^ 荒井晴彦「映画をより面白く見る法(24) 井出俊郎/桂千穂〈ゲスト〉」『シナリオ』1984年12月号、日本シナリオ作家協会、124頁。 
  14. ^ a b c d e f 「『ザ・スーパーガール』の世界 植田泰治インタビュー」『映画秘宝』2015年12月号、洋泉社、76-77頁。 
  15. ^ 『日本映画テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年、173頁。 
  16. ^ 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第十一回 その名も東映番外地」『シナリオ』2013年4月号、日本シナリオ作家協会、70-73頁。 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十回 いけいけ! 闘争と性春の日々」『シナリオ』2014年1月号、日本シナリオ作家協会、88-92頁。 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十一回 二人の刺客の喧嘩仁義(ごろめんつう)」『シナリオ』2014年2月号、日本シナリオ作家協会、60-64頁。 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十四回 酒とバカの日々」『シナリオ』2014年5月号、日本シナリオ作家協会、84-85頁。 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十七回 華麗なるクマの手」『シナリオ』2014年8月号、日本シナリオ作家協会、88頁。 
  17. ^ 【CINEMAゲンダイ】「あさひるばん」やまさき十三監督(Internet Archive)
  18. ^ 「匿名座談会日本映画復興のきざしは見えたが!!各社の合理化と製作営業の方向を探る」『映画時報』1968年10月号、映画時報社、27頁。 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、43-51頁。ISBN 978-4-636-88519-4 岡本明久・星野行彦・富田泰和「日本映画の現状をどう打開するか(5) 東映の労働運動は岡田社長ワンマン体制を打破し企画と経営の民主化をかちとることが目標です」『シネ・フロント』、シネ・フロント社、1987年4月、52-57頁。 
  19. ^ 俳優マネージメント・キャスティング”. 東映東京撮影所. 2020年6月22日閲覧。
  20. ^ 朝井彩加 (@a_ayaka0511)”. Twitter (2017年10月1日). 2017年11月1日閲覧。
  21. ^ 新加入のお知らせ”. What's New (2020年8月1日). 2020年8月1日閲覧。
  22. ^ 活動再開・連絡先変更のお知らせ”. 東映マネージメント (2015年7月13日). 2020年6月22日閲覧。
  23. ^ a b c 施設案内”. KINEZO. ティ・ジョイ. 2024年9月12日閲覧。
  24. ^ 劇場一覧”. ティ・ジョイ. 2024年9月12日閲覧。
  25. ^ 電車をご利用の方”. KINEZO. ティ・ジョイ. 2024年9月12日閲覧。
  26. ^ 沿革”. ティ・ジョイ. 2024年9月12日閲覧。
  27. ^ 「プリンスホテル」と東映グループ「ティ・ジョイ」品川と大泉学園でシネコン事業提携 (PDF)』(プレスリリース)、株式会社プリンスホテル、株式会社ティ・ジョイ、2016年1月14日。2024年9月12日閲覧

注釈

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  1. ^ 1975年の『仮面ライダーストロンガー』までは、東映生田スタジオで撮影を行っていた。
  2. ^ 1977年の『ジャッカー電撃隊』までは、東映生田スタジオで撮影を行っていた。

関連項目

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外部リンク

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