本多忠利 (挙母藩主)
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永12年(1635年) |
死没 | 元禄13年5月8日(1700年6月24日) |
官位 | 従五位下・山城守、長門守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番兼寺社奉行 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 陸奥石川藩主→三河挙母藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 | 本多忠義、森忠政娘・法光院 |
兄弟 |
忠平、忠利、忠以、忠晴、忠周、忠常、 忠寄、清性院、井上正任正室、 金森頼直正室、心涼院、清殊院、 石川総良側室、勢幾、松平忠倫正室 |
子 |
本多忠次正室、冨姫 忠寄、忠次 |
本多 忠利(ほんだ ただとし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥国石川藩主、三河国挙母藩主。官位は従五位下・山城守、長門守。
生涯
[編集]寛永12年(1635年)、本多忠義の次男として誕生した。寛文2年(1662年)11月25日、兄で陸奥白河藩主の本多忠平により1万石を分与され石川藩を立藩し、その初代藩主となった。
寛文11年(1671年)4月25日に奏者番と寺社奉行を兼任する。しかし延宝4年(1676年)12月25日に両職を辞任している。天和元年(1681年)9月15日に三河挙母藩に移封される。
元禄13年(1700年)5月8日に死去した。享年66。嗣子が無かったため、婿養子の忠次(長府藩主・毛利綱元の次男で養子入籍前の本名は毛利匡英)が跡を継いだ。