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小松快禅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小松 快禅(こまつ かいぜん、快全、生没年不詳)は、江戸時代で、素人碁打ち加賀国能美郡小松に生まれ、その後江戸増上寺に所化、宝暦から安永頃に囲碁の強豪として名を馳せた。五段。快禅の大塗りと呼ばれるハメ手棋譜で有名。

馬場文耕『当世武野俗談』(1757年)に、増上寺の若僧快全という「碁の妙を得たる人」として、当時の賭け碁打ちの中の第一に記されている。本因坊烈元が27-8歳(1777-78年)本因坊跡目で六段の時に先で十番碁を打ち、5勝5敗の打ち分けとした。棋譜は江戸中期の素人打碁集『当流碁経類聚』『素人名手碁経拾遺』『当流続撰碁経』に多く収められている。また、最初の女流棋士と言われる横関伊保との二子局(1778年)がある。

快禅の大塗り

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黒が快禅で、下図右上隅黒の小目に白が小ゲイマガカリした形から、白6の時に黒7と切った変化。黒は捨て石で全局的な厚みを作り圧倒的優勢。白は6の手で上辺にヒラくぐらい。


幽霊と碁を打つ

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林元美『爛柯堂棋話』にある話で、宝暦の頃上州厩橋の近藤佐司馬なる碁好きの処子があり、快禅に二子で2局勝った。これが評判となって旗本衆や井上春碩因碩にも招かれて大いに喜び、次いで快禅に先での対局を願ったが、先の碁品にあらずとして断られ帰郷する。年を経て快禅の居に佐司馬が訪ねて来て熱心に対局を頼むので先で打ったが、佐司馬は非常によく打って、深夜までかかってかろうじて快禅の4目勝ちとなり、佐司馬は礼を述べて席を立って戻ってこなかった。その後厩橋の者が訪ねて来た際にこの話をすると、佐司馬は長く患った末に死去しており、その対局の日が命日ということだった。

参考文献

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  • 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
  • 林元美著・林裕校注『爛柯堂棋話』平凡社 1978年