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大阪市電気局200形電車

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地下に搬入中の212

大阪市電気局200形電車(おおさかしでんききょく200がたでんしゃ)は、大阪市電気局(のちの大阪市交通局)が1935年および1936年に製造した通勤形電車である。

概要

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大阪市営地下鉄1号線(現・御堂筋線)の難波延長と2両編成運転実施に備え、201~204が川崎車輛で、205~208が日本車輌製造本店で1935年に製造され、続いて209~213が日本車輌製造本店で1936年に製造された。

車体

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基本設計は100形に準じるが、1936年製の209以降については構体の組み立て方法が変更され、リベットが廃止されて全溶接構造となった。

車内は100形で設置されていた座席両端のスタンションポールが廃止され、更に209以降では内装各部の握り棒に施されていた琺瑯加工が省略され、アルマイト加工された軽合金製材料に変更された。

なお、本形式より前面への車番表記が実施され、既存の100形についても追加取り付けが本形式就役と前後して実施されている。

主要機器

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主電動機は従来の芝浦製作所製SE-146と同一スペック[1]ではあるが、川崎車輛製のK-2304-Aを採用した。当時、川崎は三菱電機製MB-146SFRの同等品をK7-1253-ARとして製造するなど、戦時体制の進行と共に本来のメーカーから供給を受けることが次第に困難となりつつあった電動機の同等品を各社に供給しており、これもその一環[2]であった。 これに対し、主制御器は東洋電機製造製ES-512B、台車は住友金属工業KS-63L[3]、それにブレーキは三菱造船製U-5自在弁によるAMU自動空気ブレーキ、と100形とほぼ同等の機器構成である。

運用

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新造以来、戦前、戦中を通じて100形などと共通運用された。

戦後は全室運転台化工事の対象外とされ、片隅運転台のままとされたため、長編成化が進むにつれて中間車として使用される様になり、最終期には車庫内での入れ替え時を除き、運転台が使用されることはなかった。

戦後は100形などと同様、下記の改良工事が随時実施されている。

車内中央スタンションポールの撤去
扉上部への水切り追加[4]
貫通幌の装着[5]
尾灯の追加[6]
扇風機の設置および放送装置の再設置[7]
塗装変更[8]
電磁直通ブレーキへの改造[9]
スピードアップ改造[10]
車内照明の蛍光灯[11]

終焉

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1970年日本万国博覧会に向けての1号線輸送力増強の一環として、1号線在籍の旧型車は新造の30系で置き換えられることとなり、他車同様、1969年秋までに運用終了し、全車廃車された。

脚注

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  1. ^ 端子電圧750V時定格出力170kW/770rpm(全界磁)225A。
  2. ^ それと共に、電気局側にも公営企業として国内メーカーの育成を図るという意図もあったと考えられ、戦後も大阪市交通局はメーカーを1社指名とせず、極力同一仕様の下、複数のメーカーによる入札方式を採る方針で一貫している。
  3. ^ 局内呼称はAS-2で、100形(AS-1)とは区分されていた。
  4. ^ 1951年開業の昭和町-天王寺間がオープンカット工法にて施工後、天井に蓋をせずに開業したため、降雨対策が必要となって追加された。
  5. ^ 桜木町事故の教訓で1952年に装着された。
  6. ^ 前面貫通扉左下部に1灯取り付けられていた尾灯を、前面幕板左右端に各1灯装備に変更し、視認性を向上させた。
  7. ^ 1955年にサービス向上を目的として実施された。
  8. ^ 1958年竣工の1200形に合わせ、上部アイボリーホワイト、下部オレンジの2色塗り分けに変更が工場検査周期に合わせて実施された。
  9. ^ 長大編成化による応答性低下や空走時分の過大化対策として1959年7月から1960年2月にかけて実施。運転台のブレーキ制御弁を交換し、床下にB1電空接触器とNo.21電磁給排弁などを付加した。この改造に際しては、AMUE電磁自動空気ブレーキへの改造を予定して用意してあった空きスペースが活用されたという。
  10. ^ 高性能車と極力同じダイヤで運行可能とするため、主電動機の設定を見直して限流値を引き上げ、RMS電流に対応して主電動機の絶縁種別をA種からB種へ変更、界磁切り替え式弱め界磁段(1段)を追加して主回路の抵抗箱を4個から6個に増設、更に主電動機のベアリングを新品のローラーベアリングで置き換えて起動抵抗を低減することで加速性能と最高速度の向上を図った。東海道新幹線開業に伴う新大阪延伸開業を控えた1964年4月から6月にかけて集中的に施工されている。
  11. ^ 1961年7月から1962年4月にかけて実施。但し、201・202の2両は未施工のまま終わっている。