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大津淳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大津 淳
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県明石市
生年月日 (1932-01-02) 1932年1月2日
没年月日 (2020-11-13) 2020年11月13日(88歳没)
身長
体重
171 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1955年
初出場 1956年3月21日
最終出場 1961年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大津 淳(おおつ あつし、1932年昭和7年〉1月2日 - 2020年令和2年〉11月13日)は、兵庫県明石市プロ野球選手外野手)。

関西六大学野球都市対抗野球大会で優勝経験後に、大阪タイガースに入団。引退後には球団フロントも務めた。

経歴

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明石高校(旧制明石中学校)では、捕手として1947年春の選抜に出場。1回戦で徳島商に敗退[1]。卒業後は関西大学に進学、外野手に転向する。関西六大学野球では在学中3度優勝。1953年春季リーグで首位打者を獲得、『ミスター関六』と呼ばれる。リーグ通算93試合出場、319打数102安打、打率.320、3本塁打。プロ野球から誘いが来るが、断り日本生命に入社。1955年都市対抗全鐘紡の補強選手として出場。準決勝で決勝二塁打を放つなど中心打者として活躍、決勝でも鐘淵化学を破り優勝を飾る[2]。同年の世界アマチュア野球大会日本代表に選出された。

同年12月に阪神電気鉄道に入社し、出向の形で大阪タイガースに入団[3]。翌1956年から、レギュラー外野手として出場。1957年には打撃ベストテン8位(打率.262)の好成績を記録した。1960年には1試合だけ捕手として起用された。1961年限りで現役引退[3]

引退後は阪神電鉄に戻り、その後阪神球団フロントに入って1985年には営業部長として球団初の日本一達成に貢献し、編成部長なども務めた[4]

2020年11月13日13時50分、肺炎のため、明石市の病院で死去[4]。88歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1956 大阪
阪神
99 366 344 28 85 13 5 3 117 44 19 11 3 3 16 1 0 13 8 .247 .281 .340 .621
1957 128 485 451 60 118 13 5 8 165 56 7 9 4 6 22 1 2 19 12 .262 .299 .366 .665
1958 105 383 350 27 88 10 2 5 117 42 10 2 12 3 18 1 0 17 7 .251 .288 .334 .622
1959 115 416 378 31 90 14 0 5 119 24 4 7 8 1 27 1 2 16 8 .238 .292 .315 .607
1960 92 266 249 21 52 8 2 1 67 11 4 3 2 2 12 0 1 12 5 .209 .248 .269 .517
1961 92 190 175 14 45 12 1 2 65 17 2 3 3 1 11 0 0 10 9 .257 .301 .371 .673
通算:6年 631 2106 1947 181 478 70 15 24 650 194 46 35 32 16 106 4 5 87 49 .246 .286 .334 .620

記録

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背番号

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  • 19(1956年 - 1961年)

脚注

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  1. ^ 毎日新聞社(編)『選抜高等学校野球大会60年史』毎日新聞社、1989年、[要ページ番号]
  2. ^ 『都市対抗野球大会60年史』日本野球連盟・毎日新聞社、1990年、[要ページ番号]
  3. ^ a b 『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、p.106
  4. ^ a b “阪神OB大津淳氏死去、日本一の85年には営業部長”. 日刊スポーツ. (2020年11月13日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202011130001107.html 2020年11月21日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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