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南条時員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
南条 時員
時代 鎌倉時代中期
生誕 不明
死没 不明
別名 南条七郎
官位 左衛門尉
幕府 鎌倉幕府 御家人
氏族 平姓南条氏
父母 南条次郎?[注釈 1][1]
兄弟 次郎?[注釈 1]時員忠時[1]
太郎、頼員[注釈 2][2]
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南条 時員(なんじょう ときかず)は、鎌倉時代中期の武士

生涯

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南条氏は伊豆国田方郡南条を名字の地とする武士で平氏を称したが、和邇部氏ともいわれる[3][4]建暦3年(1213年1月北条義時椀飯献上の際に馬引き役を務めているのが『吾妻鏡』における初見である。このとき椀飯の儀に参じていることからも南条氏は当初は御家人だったが、時員の代には近郷の出身で関係性も深かったであろう北条氏に接近し、その被官(御内人)となっていったようである[5][6]

承久3年(1221年)の承久の乱では鎌倉を出陣する北条泰時に従う18騎の一人[注釈 3]として名が見える。宇治川の戦いでは芝田兼義とともに川の瀬踏みを行い、戦闘が始まると北条時氏に従って渡河を敢行。戦勝後は西園寺公経家司三善長衡と合流し、泰時の命で公経邸護衛のために長衡ととも入京した[8][9]貞応3年(1224年)の義時の急死に伴って鎌倉へ戻った泰時の側近の一人[注釈 4]となり、伊賀氏事件が噂される中で泰時邸の警護を担当している[6]。以後も椀飯に参じるなど御家人としての奉仕を続けつつ、嘉禎2年(1236年)に泰時が新邸を建てた際には隣地に屋敷を与えられるなど、御内人としての性格を強めている[6]。またこの間に左衛門尉に任官している[11]。『吾妻鏡』における時員の活動は嘉禎4年(1238年)を終見とし、翌年からは弟とみられる忠時が現れるが、建長元年(1249年)に出家した時員が京都への使者としてとなっていることが知られ、建治元年(1275年)までには死去している[11]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 『吾妻鏡』に見られる南条次郎(平次)については、時員の父とする説と兄とする説がある[1]
  2. ^ 南条頼員は時員の子(南条七郎次郎・左衛門次郎と同人)とする説と孫とする説がある[2]
  3. ^ 他には北条時氏・同有時・同実義尾藤景綱関実忠平盛綱、安東藤内左衛門尉、伊具盛重、岡村次郎兵衛尉、佐久間家盛葛山広重勅使河原則直横溝資重、安藤左近将監、塩河中務丞、内島忠俊らが従った[7]
  4. ^ 同様に名が挙がるのは平盛綱尾藤景綱関実忠安東光成、万年右馬允の5名[10]

出典

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  1. ^ a b c 梶川 2008, pp. 434–435.
  2. ^ a b 梶川 2008, pp. 434–436.
  3. ^ 梶川 2012, p. 34.
  4. ^ 太田 1963, § 南條.
  5. ^ 梶川 2008, p. 434.
  6. ^ a b c 梶川 2012, pp. 38–39.
  7. ^ 『大日本史料』4-16, pp. 32–33.
  8. ^ 梶川 2012, p. 38.
  9. ^ 『大日本史料』4-16, pp. 203–206.
  10. ^ 梶川 2012, p. 39.
  11. ^ a b 梶川 2008, p. 444.

参考文献

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  • 梶川貴子 著「得宗被官南条氏の基礎的研究―歴史学的見地からの系図復元の試み―」、大学院紀要編集委員会 編『創価大学大学院紀要』 30巻、創価大学大学院、2008年。 
  • 梶川貴子 著「南条氏の得宗被官化に関する一考察」、創価大学人文学会 編『創価大学人文論集』 24巻、創価大学人文学会、2012年。 
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。ISBN 978-4-04-030200-3 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 16巻、東京大学出版会、1972年。ISBN 978-4-13-090166-6