内田正学
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 弘化4年11月3日(1847年12月10日) |
死没 | 明治43年(1910年)7月22日[1] |
改名 | 騎一郎(幼名)→正学 |
墓所 | 東京都台東区寿の鯉寺竜宝寺[2] |
官位 | 従五位下、主殿頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下総小見川藩主→小見川藩知事 |
氏族 | 内田氏 |
父母 | 父:内田正路、養父:内田正縄 |
妻 | 録子(内田正道の娘) |
子 | 正吉(長男)、寛治 |
内田 正学(うちだ まさのり / まさあきら[1])は、下総小見川藩の第10代(最後)の藩主。小見川藩内田家13代。明治時代の政治家・陸軍軍人、子爵。
生涯
[編集]弘化4年(1847年)11月3日、内田家分家で1500石を領する旗本・内田正路の次男として生まれた。元治元年(1864年)に本家第9代藩主の正縄が早世したため、その養子として跡を継いだ。幕末期は佐幕派として芝増上寺の警護を務めていたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では官軍に協力している。明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官された。
1877年(明治10年)の西南戦争では、東伏見宮嘉彰親王に従って三等中警部心得として参戦する。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した[3]。1892年(明治25年)には陸軍大尉となり、1894年(明治27年)の日清戦争では歩兵第2連隊副官として参戦した。1897年(明治30年)7月10日には貴族院議員となり[1][4]、1910年7月22日の死去まで在任した[1]。享年64。
家族
[編集]父母
妻
- 内田録子 ー 内田正道の娘
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (小見川)内田家初代 1884年 - 1910年 |
次代 内田正吉 |