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内田正学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内田正学
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 弘化4年11月3日1847年12月10日
死没 明治43年(1910年7月22日[1]
改名 騎一郎(幼名)→正学
墓所 東京都台東区寿の鯉寺竜宝寺[2]
官位 従五位下、主殿頭
幕府 江戸幕府
下総小見川藩主→小見川藩知事
氏族 内田氏
父母 父:内田正路、養父:内田正縄
録子内田正道の娘)
正吉(長男)、寛治
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内田 正学(うちだ まさのり / まさあきら[1])は、下総小見川藩の第10代(最後)の藩主。小見川藩内田家13代。明治時代の政治家陸軍軍人子爵

生涯

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弘化4年(1847年)11月3日、内田家分家で1500石を領する旗本内田正路の次男として生まれた。元治元年(1864年)に本家第9代藩主の正縄が早世したため、その養子として跡を継いだ。幕末期は佐幕派として芝増上寺の警護を務めていたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では官軍に協力している。明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官された。

1877年(明治10年)の西南戦争では、東伏見宮嘉彰親王に従って三等中警部心得として参戦する。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した[3]1892年(明治25年)には陸軍大尉となり、1894年(明治27年)の日清戦争では歩兵第2連隊副官として参戦した。1897年(明治30年)7月10日には貴族院議員となり[1][4]、1910年7月22日の死去まで在任した[1]。享年64。

家族

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父母

子女

脚注

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  1. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』37頁。
  2. ^ 史跡巡り 蔵前
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、8頁。

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
小見川)内田家初代
1884年 - 1910年
次代
内田正吉