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他阿真円

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
他阿 真円
1919年大正8年)6月10日 - 2021年令和3年)12月9日
生地 愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市矢作町馬場)
宗旨 浄土教
宗派 時宗
寺院 清浄光寺
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加藤 円住
かとう えんじゅう
生年月日 (1919-06-10) 1919年6月10日
出生地 愛知県矢作町(現・岡崎市矢作町馬場)
没年月日 (2021-12-09) 2021年12月9日(102歳没)
死没地 愛知県岡崎市
出身校 大正大学専門部
龍谷大学文学部
所属政党 無所属

当選回数 4回
在任期間 1967年4月 - 1979年4月
1980年10月26日 - 1984年10月25日
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他阿 真円(たあ しんえん、本名:加藤 円住(かとう えんじゅう)、1919年大正8年〉6月10日 - 2021年12月9日)は、日本政治家時宗の74世法主(遊行上人)、藤沢清浄光寺57世住職(藤沢上人)。岡崎市議会議員を通算4期、市議会議長を1期歴任した。

来歴

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加藤が誓願寺の境内に創設した矢作保育園

愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市矢作町馬場4番地)の誓願寺に生まれる。1932年昭和7年)、出家得度。1941年(昭和16年)、大正大学専門部を卒業し、龍谷大学に編入。

軍部に徴集され東南アジアに派遣される。マラリアに感染し入院。1943年(昭和18年)、誓願寺住職に就任するも、再び徴集され、東南アジアに派遣される。陸軍少尉として輜重を担う。1945年連合軍の捕虜となり、2年間の強制労働に従事。

1947年(昭和22年)5月、復員[1]。誓願寺住職に戻るも、肺結核となる。

1948年11月1日、境内に矢作保育園を設立し、園長となる[2][3]

1955年4月30日に行われた岡崎市議会議員選挙の第7選挙区(旧矢作町)に立候補するも次点で落選。市議選には7回立候補し、4回当選した(選挙の記録は後述)。初当選は1963年(昭和38年)[4]

1982年(昭和57年)6月から1983年(昭和58年)11月まで議長を務めた。

1983年(昭和58年)、岡崎市仏教会会長となる。1984年(昭和59年)の市議選で落選。以後、政治活動から身を引く。

1994年(平成6年)、勲五等双光旭日章を受章。1997年平成9年)、足下位に就任。

2003年(平成15年)3月、真光寺住職、法主後継者となる[5]。 同年7月23日、第74世遊行上人に就任。

2019年(令和元年)6月11日、満100歳を祝う会が銀座アスター藤沢賓館で開かれた[6]

2021年12月9日、S字結腸ガンのため岡崎市の病院で死去。102歳没[7]

選挙の記録

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執行日 選挙 当落 備考
1955年4月30日 岡崎市議会議員選挙 第7選挙区(旧矢作町)から立候補
1959年4月30日 岡崎市議会議員選挙
1963年4月30日 岡崎市議会議員選挙 -- 不出馬
1967年4月28日 岡崎市議会議員選挙
1971年4月25日 岡崎市議会議員選挙
1975年4月27日 岡崎市議会議員選挙
1979年4月22日 岡崎市議会議員選挙 -- 不出馬
1980年10月26日 岡崎市議会議員選挙 自主解散に伴う選挙
1984年10月21日 岡崎市議会議員選挙

エピソード

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著作リスト

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  • 『捨ててこそ人生は開ける - 「苦」を「快」に変える力』 東洋経済新報社、2013年6月7日。
  • 『生かされて生きる - 「捨ててこそ」の実践』 神奈川新聞社、2016年1月4日。

論文・記事等

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脚注

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参考文献

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  • 『捨ててこそ人生は開ける - 「苦」を「快」に変える力』 東洋経済新報社、2013年6月7日。
先代
他阿一雲
遊行上人(時宗法主)
第74代:2003年 -
次代
先代
他阿一雲
藤沢上人(清浄光寺住職)
第57世:2003年 -
次代