乾正春
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乾 正春(いぬい まさはる、生年不詳 - 1830年10月8日(文政13年8月22日))は、江戸時代後期の土佐藩士。掛川衆侍。幼名は丑之助。通称は市郎兵衛(世襲名)、佐内と変わり、最後は乾 左八と名乗った[1]。
来歴
[編集]- 土佐藩士(小姓格)乾正壽(宅平)の嫡男として高知城下町に生まれる。母は本山茂苞(安之進)の娘。
- 1786年3月14日(天明6年2月15日)、土佐藩主山内豊雍の時に嫡孫御目見え仰せ付けられる。
- 1810年8月9日(文化7年7月10日)、正春の嫡子正勝が、嫡孫[2]御目見え江戸代参を以って仰せ付けられる。
- 1812年(文化9年)、弟の乾右馬之助が武芸を以って御目見えを仰せ付けられ、その後、母の生家である本山家の本山茂直(安之進)の養子を仰せ付けられた。
- 1822年1月10日(文政4年12月18日)、嫡子正勝が病死する。
- 1827年10月21日(文政10年9月1日)、土佐藩主山内豊資の時、戌治郎(山内豊策五男、後の黒田長元)、熊弥太(山内豊策六男、後の山内豊栄)附きを仰せ付けられ、役料米5石を下し置かれた。
- 1828年12月5日(文政11年10月29日)、それまでつき従ってきた戌治郎が筑前国秋月藩主・黒田長韶の元へ養子へ出ることとなった為、江戸表へ向けて発駕をされる時に、戌治郎様附きの任をはずされて、熊弥太(山内豊栄)附だけに変更された。
- 1829年9月7日(文政12年8月10日)、亡父正壽の跡目を無相違下し置かれ、それまでの御附役料米共に10俵を下し置かれた。
- 1830年5月4日(文政13年閏3月12日)、敏衛、郁松(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。
- 1830年10月8日(文政13年8月22日)病死。墓は土佐の薊野山[3]にある。
- 1831年1月7日(文政13年11月24日)、正春が無嗣子で病死したが、土佐藩祖山内一豊が掛川藩に封ぜられて以来の大切な血統(掛川衆侍)のため、藩主より直々に特段のはからいがあり、1831年5月10日(天保2年3月28日)、実甥の本山楠弥太が末期養子となることを認められて跡を継いだ。