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上村松篁

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上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年(明治35年)11月4日[1]-2001年(平成13年)3月11日)は日本画家

幼名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。父は松園の師の日本画家鈴木松年ともされるが、未婚であった松園は多くを語らなかった。息子も同じく日本画家の上村淳之である。

略歴

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※創造美術はその後、新制作協会日本画部を経て創画会となる

エピソード

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鳥に関するもの

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  • 写生には強いこだわりを持っており、「鳥の生活を理解しなければ、鳥は描けない」と言い、鳥の観察のためにインドオーストラリア東南アジア等を旅行した。
  • また、奈良市郊外の自身のアトリエの敷地にも大規模な禽舎(鳥小屋)を設け、1,000羽を超える鳥を飼って生涯観察を続けていた。彼の死後、この禽舎は息子の上村淳之が管理していた。
  • とりかかると厄介なモチーフとして、ウズラを挙げていた。
  • 円山派の流れに立つが、円山派の描いた鳥に対しては、「十分、生きた鳥になりきっていない」と不満を言っていた。

母・松園に対して

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  • 幼い頃の松篁には、松園は『二階の画室にこもって絵を描いている』姿程度しか記憶になかった為、松園のことを「二階のお母さん」と呼んでいた。
  • 松園が描いた作品で好きなものとして、『春苑』、『天保歌妓』の二つを挙げている。
  • 美人画を描かなかった(『万葉の春』の様に例外もある。)松篁だが、松園の影響を受けていることを認めている。

梅原猛の考察

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  • 哲学者梅原猛は、『アート・トップ』1978年12月号に掲載された小論で、「上村松篁の花鳥画は、鳥の世界に移された一種の美人画である。」と言う様な主旨を述べている。また、「その根底には、幼少からの『人間嫌い』がある。」とも述べている。

主な作品

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関連書

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参考文献

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  • 「湖の伝説 画家・三橋節子の愛と生」著・梅原猛、新潮社:上記の小論が掲載されている。
  • 「芸術の世界 梅原猛対談集」著・梅原猛、講談社:松篁と梅原の対談が収録。

画集

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  • 「上村松篁画集 作品一九二一‐一九八〇」講談社
  • 「花下鳥遊 上村松篁自選素描集」日本経済新聞社
  • 「唳禽集 上村松篁 画集・写真集複製画」中央公論美術
  • 「上村松篁画集」求竜堂

脚注

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  1. ^ 上村松篁 :: 東文研アーカイブデータベース https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28214.html
  2. ^ 日本画特選に十六人『東京日日新聞』昭和3年10月14日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p494 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 『朝日新聞』1967年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。

関連項目

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画風

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団体

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人物

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外部リンク

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