ルイージ・ラディーチェ
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Luigi Radice | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1935年1月15日 | |||||
出身地 | チェザーノ・マデルノ | |||||
没年月日 | 2018年12月7日(83歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1955-1959 | ACミラン | 20 | (0) | |||
1959-1960 | トリエスティーナ | 31 | (0) | |||
1960-1961 | パドヴァ | 24 | (0) | |||
1961-1965 | ACミラン | 53 | (1) | |||
代表歴 | ||||||
1962 | イタリア | 5 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ルイージ・ラディーチェ(Luigi Radice ,1935年1月15日 - 2018年12月7日)は、イタリアのチェザーノ・マデルノ出身の元サッカー選手でサッカー指導者。
経歴
[編集]1962年にイタリア代表として5試合の経験があり[1]、同年のワールドカップに出場した。
ACミランでプロのキャリアをスタートさせるも、その後はトリエスティーナ、パドヴァに貸し出された。1961年にミラン復帰、1961-62年シーズンにはセリエAを制し、翌年にはチャンピオンズカップを制したが、その後大怪我で引退を余儀なくされた[2]。すぐに指導者の道に入り、1975-76年シーズン、トリノFCをリーグ制覇に導いた[3][2]。その後ACミラン、インテルなどの監督を務めた。1992-93年シーズン、ACFフィオレンティーナを率いて前半終了間際まで優勝を争うが、シーズン21試合を残す中、マリオ・チェッキ・ゴーリ会長との衝突で退任した[4]。チームはその後新監督を迎えたが、大きく低迷し、セリエBに降格した[4]。
獲得タイトル
[編集]- 選手時代
ACミラン
[編集]- セリエA : 1956-57, 1958–59, 1961–62
- チャンピオンズカップ 1962-63
- 指導者
モンツア
[編集]- セリエC : 1966-67
トリノFC
[編集]- セリエA : 1975-76
- 個人
- セミナトーレ・ドーロ : 1984
- イタリアサッカーの殿堂
- トリノFCの殿堂 : 2014[5]
- ACモンツアの殿堂
外部リンク
[編集]脚注
[編集]- ^ “Radice” (イタリア語). イタリアサッカー協会. 2022年3月28日閲覧。
- ^ a b “Italian coach Radice passes away” (英語). UEFA (2018年12月7日). 2022年3月28日閲覧。
- ^ “Gigi Radice è morto: vinse quattro scudetti con Milan e Torino” (イタリア語). ガゼッタデロスポルト (2018年12月7日). 2022年3月28日閲覧。
- ^ a b “HALL OF FAME - LUIGI RADICE” (イタリア語). ACモンツア. 2022年3月28日閲覧。
- ^ “GIGI RADICE – HALL OF FAME GRANATA 2014” (イタリア語). トリノFCミュージアム. 2022年3月28日閲覧。