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フランシス・ダッシュウッド (第11代ル・ディスペンサー男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第11代ル・ディスペンサー男爵
フランシス・ダッシュウッド
Francis Dashwood
11th Baron le Despencer
生年月日 1708年12月
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国イングランドミドルセックスウェストミンスター
没年月日 1781年12月11日
死没地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国、イングランド・バッキンガムシャーウェスト・ウィコム英語版
所属政党 トーリー党
称号 第11代ル・ディスペンサー男爵、第2代準男爵英語版枢密顧問官 (PC)、王立協会フェロー (FRS)
配偶者 サラ(旧姓グールド)

内閣 ビュート伯爵内閣
在任期間 1762年6月9日 - 1763年4月8日[1]

選挙区 ニュー・ロムニー選挙区英語版ウェイマス=メルクーム・レジス選挙区英語版
在任期間 1741年5月5日 - 1763年4月19日[2]

在任期間 1763年4月19日 - 1781年12月11日
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第11代ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド: Francis Dashwood,11th Baron le Despencer, PC, FRS1708年12月 - 1781年12月11日)は、イギリス政治家トーリー党に所属し、第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート内閣財務大臣を務めた。秘密結社地獄の火クラブの主宰者でもあった。

経歴

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1708年12月、初代準男爵英語版サー・フランシス・ダッシュウッドとその妻メアリー(旧姓フェイン。第4代ウェストモーランド伯爵ヴィアー・フェイン英語版の娘)の間の長男として生まれる[3][4]。彼の父はトルコと取引をしていた商人であり、ウィンチルシー選挙区英語版選出の庶民院議員だった[5]

個人教育で育ったと見られる[5]1724年11月に父の死により第2代準男爵位と地所を相続[3][4][5]。若い頃にはヨーロッパ旅行で放蕩の限りを尽くして悪名を流した[5]。ロシアではスウェーデン王カール12世になりすまし、ロシア女帝アンナの恋人になろうと画策したり、イタリアでは宗教と道徳に対する冒とくから教会から追放処分を受けた[5]

イギリスに帰国した後、皇太子フレデリック・ルイス家で小さな役職を得たが、母方の伯父にあたる第7代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェインウォルポール首相に解任されたことで熱烈な反ウォルポール派となり、役職を辞した[5]。1734年には貴族の芸術愛好家協会を創設した[6]

1741年総選挙ではニュー・ロムニー選挙区英語版でウォルポール派候補と激しく争い、議席を確保した[2]。以降1761年までこの選挙区から選出され続け、トーリー党所属の庶民院議員を務めた(1761年から1763年まではウェイマス=メルクーム・レジス選挙区英語版から選出される)[4]。当選後、ウォルポール政権を激しく攻撃し、ウオルポール失脚後もジョージ2世の下で成立する全ての政府に反対し続けた[2]1746年6月19日には王立協会フェロー(FRS)となる[4][2]

1755年頃には地獄の火クラブを創設した[2]。ギャンブル、乱痴気、冒涜で悪名高い組織だった[6]

1761年枢密顧問官(PC)となる[4]。1761年から1762年にかけて王室会計長官英語版、1762年6月から1763年4月にかけて財務大臣を務めた[3][4]。第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの支持者であったため、その庇護を受けての就任だった。しかし経済について無知すぎたため、彼の予算に関する演説は失笑を買った[2]。1763年4月にビュート伯爵の首相退任とともに財務大臣を辞職し、衣服保管長官英語版に就任[1]

母方の伯父第7代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェインの死後、保持者不在となっていたル・ディスペンサー男爵位の保持者不在が1763年4月19日に解除されて彼がル・ディスペンサー男爵位を継承し、貴族院議員に転じた[4][1]

長期政権のノース卿フレデリック・ノース内閣では共同郵政長官英語版を務めた[1]

1781年12月11日ウェスト・ウィコム英語版で死去。子供がなかったため、ル・ディスペンサー男爵位は保持者不在となる。1788年になって保持者不在が解除され、従兄妹の孫にあたる第5代準男爵英語版トマス・ステイプルトン英語版が継承した[4]。準男爵位は異母弟のジョン・ダッシュウッド=キング英語版が継承した[5]

家族

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1745年12月19日バッキンガムシャー・アイヴァー(Iver)のジョージ・グールド(George Gould)の娘で第3代準男爵英語版リチャード・エリス英語版の未亡人サラ(Sarah)と結婚した。しかし子供はなかった[4][2]

肖像画

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参考文献

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  • ラングフォード, ポール 著、鶴島博和/坂下史 訳『オックスフォード ブリテン諸島の歴史8巻』慶応義塾大学出版会、2013年。ISBN 978-4766416480 
  •  この記事にはパブリックドメインである次の文書本文が含まれている: Pollard, Albert Frederick (1901). "Dashwood, Francis". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (1st supplement) (英語). London: Smith, Elder & Co. pp. 112–115.

出典

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  1. ^ a b c d Pollard 1901, p. 114.
  2. ^ a b c d e f g Pollard 1901, p. 113.
  3. ^ a b c Lundy, Darryl. “Sir Francis Dashwood, 11th Lord le Despenser” (英語). thepeerage.com. 2020年1月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i Heraldic Media Limited. “le Despencer, Baron (E, 1295 with precedency from 1264)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年1月18日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g Pollard 1901, p. 112.
  6. ^ a b ラングフォード 2013, p. 251.

外部リンク

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グレートブリテン議会英語版
先代
スティーブン・ビッセ英語版
サー・ロバート・オーステン英語版
ニュー・ロムニー選挙区英語版選出庶民院議員
1741年 – 1761年
同職:ヘンリー・ファーニーズ英語版 1741年 – 1756年
ローズ・フラー英語版 1756年 – 1761年
次代
サー・エドワード・デリング英語版
トマス・ナイト英語版
先代
ウェルボア・エリス
ジョン・キャヴェンディッシュ卿英語版
ジョージ・ドディントン
ジョン・タッカー英語版
ウェイマス=メルコム・レジス選挙区英語版選出庶民院議員
1761年 – 1763年
同職:ジョン・タッカー英語版
リチャード・グローヴァー英語版
ジョン・オルミアス 1761年 – 1762年
リチャード・ジャクソン英語版 1762年 – 1763年
次代
ジョン・タッカー英語版
リチャード・グローヴァー英語版
リチャード・ジャクソン英語版
チャールズ・ウォルコット英語版
公職
先代
第2代バリントン子爵
財務大臣
1762年 – 1763年
次代
ジョージ・グレンヴィル
先代
第2代ベスバラ伯爵英語版
第2郵政長官英語版
1765年 – 1781年
次代
第2代バリントン子爵
宮廷職
先代
チャールズ・タウンゼンド
王室会計長官英語版
1761年 – 1762年
次代
サー・ギルバート・エリオット英語版
先代
第2代ゴア伯爵
衣服保管長官英語版
1763年 – 1765年
次代
第2代アシュバーナム伯爵
名誉職
先代
第2代テンプル伯爵
バッキンガムシャー統監英語版
1763年 – 1781年
次代
第5代チェスターフィールド伯爵英語版
イングランドの爵位
停止
最後の在位者
ジョン・フェイン
第11代ル・ディスペンサー男爵
1763年 – 1781年
停止
次代の在位者
トマス・ステイプルトン英語版
グレートブリテンの準男爵
先代
フランシス・ダッシュウッド
第2代準男爵英語版
(ウェスト・ウィコムの)

1724年 – 1781年
次代
ジョン・ダッシュウッド=キング英語版