ニコライ・ペトロフ
ニコライ・アルノリドヴィチ・ペトロフ | |
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生誕 | 1943年4月14日 |
出身地 | ソビエト連邦 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国、モスクワ |
死没 | 2011年8月3日(68歳没) |
学歴 | モスクワ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
ニコライ・アルノリドヴィチ・ペトロフ(ロシア語: Никола́й Арно́льдович Петро́в、ラテン文字転写例:Nikolai Arnol'dovich Petrov、1943年4月14日モスクワ - 2011年8月3日)は、ロシアのピアニスト[1]。
略歴
[編集]1943年、ソビエト連邦時代のロシア、モスクワで音楽家と舞踏家の名門の家庭に生まれる[2][3]。1949から1961年までモスクワ音楽院付属中央音楽学校で学び、1961年から1966年までモスクワ音楽院、1966年から1968年まで同音楽院研究科で学んだ。音楽院ではヤコフ・ザークに師事した。在学中の1962年には、 ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに参加し第2位、1964年にはエリザベート王妃国際音楽コンクールに参加して第2位を受賞した。これらコンクールに参加してソビエト国外にデビューした後、幅広く国際的に活動を展開した。1966年のチャイコフスキー国際コンクールにも参加していたものの、手の故障のために本選会を棄権した。そのときの第1位は当時16歳のグリゴリー・ソコロフであった。
国内オーケストラのソリストとしての活動は、1965年からモスクワ国立アカデミー交響楽団 (Московская государственная академическая филармония) のソリストを務めていた。
ロシア音楽を得意とし、世界初録音のプロコフィエフ・ピアノソナタ全集を含む広いレパートリーを持つ。日本でも評価されるのが早く、桐朋学園などでマスタークラスを開講したことがあるほか、来日時の演奏も遺された。国際コンクールの審査も厳しく、チャイコフスキー・コンクールの本選会で「第1位ばかりが能じゃない」とアレクサンドル・ルビャンツェフを高く評価した(この時の彼の順位は3位)。
2011年5月に演奏旅行で訪問していたベラルーシで脳卒中に倒れ、その後搬送されたモスクワの病院で同年8月3日に死去した。68歳であった[3][4]。
音楽・録音について
[編集]マイナーなレパートリーにも積極的に取り組み、当時まだ無名の存在だったニコライ・カプースチンのピアノソナタ第2番を初レコーディングした。
リストの『パガニーニ練習曲』の初版はリストの最難曲といわれているが、これも出版されたばかりの当時の楽譜を直読みして演奏に臨んだCDが、記念碑的な演奏となった。
脚注
[編集]- ^ “В Москве на 69-Путин - современный Гитлер, Россия - современный нацист.”. www.classicalmusicnews.ru. 2019年3月21日閲覧。
- ^ 吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、126ページ、ISBN 4-7872-7208-X
- ^ a b “訃報:ニコライ・ペトロフさん 68歳=ロシアのピアニスト - 毎日jp(毎日新聞)”. 毎日新聞. (2011年8月4日) 2011年8月4日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “ロシアのピアニスト、ペトロフ氏が死去”. 日本経済新聞 (2011年8月4日). 2021年1月28日閲覧。