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ナランホ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナランホ
ナランホの位置(グアテマラ内)
ナランホ
遺跡の位置
所在地 グアテマラペテン県
座標 北緯17度18分01秒 西経89度15分44秒 / 北緯17.30028度 西経89.26222度 / 17.30028; -89.26222座標: 北緯17度18分01秒 西経89度15分44秒 / 北緯17.30028度 西経89.26222度 / 17.30028; -89.26222
種類 定住地
歴史
時代 先古典期-古典期
文化 マヤ

ナランホ(Naranjo)は、グアテマラペテン県の古代マヤ遺跡。ペテン県北東部のベリーズ国境に近い場所にあり、2004年以降はヤシュハ=ナクム=ナランホ国立公園スペイン語版の一部をなしている[1]。公園はモレレットワニ英語版Petenia splendida英語版メキシコカワガメジェフロイクモザル英語版クビワペッカリーなどの生息地として、2006年にラムサール条約登録地となった[2]

遺跡

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「ナランホ」はスペイン語オレンジの樹を意味し、もちろん新しい名前である。

先古典期からある大きな遺跡であり、389の建築物が6つのアクロポリスを構成する[1]。多数の石碑階段祭壇まぐさ石球戯場の彫刻に碑文が残されているが、1960年代から1970年代にかけて略奪に遭った。

歴史

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碑文によってわかるナランホの歴史は切れぎれである。ナランホの石碑の日付で最古のものは石碑41号に記された475年だが、このころの歴史はほとんどわからない[3]。最初に事績のわかる王は、35代目の王とされるアフ・ウォサルで、カラクムルのトゥーン・カップ・ヒシュによって擁立され、546年に即位した[4]。アフ・ウォサルは幼くして即位し、その後少なくとも69年間は王位についていた。しかし次の王の時代になると、626年に南のカラコルに征服され、631年にはカラクムルに征服された。37代目の王は680年にカラコルを打ち破った[5]

682年、ドス・ピラス初代王バラフ・チャン・カウィールの娘である「ワク・チャニル・アハウ英語版」(Wak Chanil Ajaw、「6の空」という意味。Ix Wak Jalam Chanとも[6])がナランホの新しい王朝を建てた。688年にカック・ティリウ・チャン・チャークが生まれ(おそらく「ワク・チャニル・アハウ」の子)、693年に5歳で38代目の王として即位した。「ワク・チャニル・アハウ」自身はナランホの王ではなかったが、実質的な支配者であり、それはカック・ティリウの即位後もしばらく変わらなかったと思われる[7]。この時代、ナランホはカラクムルに臣属していたが、いつまでそうだったかは明らかでない[8]

744年にはティカルイキン・チャン・カウィールによってナランホは蹂躙され、王は殺された[9]。その後の歴史はあまり明らかでないが、780年にはイツァムナーフ・カウィールが即位し、近隣のヤシュハを征服した。ナランホは他の多くのマヤの都市と同様に、830年ごろに滅亡した[10]

再発見と略奪

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ナランホは1905年にテオベルト・マーラーによって再発見された[11]。その後、シルヴェイナス・モーリーによる調査が行われた。

ナランホの遺物は早くから盗難にあっていたが、1964年以降に略奪はとりわけ激しくなった。略奪者は運搬を容易にするために大きな遺物を切り刻んだため、ナランホの遺跡は悲劇的な状態に陥った[12]イアン・グレアムは1966年にナランホの石碑8号がロサンゼルスのデパートに飾られているのを発見して衝撃を受け、『マヤ神聖文字碑文集成』の最初の調査対象のひとつにナランホを選んだ[13][14]

脚注

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  1. ^ a b Naranjo, ワールド・モニュメント財団, https://www.wmf.org/project/naranjo 
  2. ^ Parque Nacional Yaxhá-Nakum-Naranjo | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2006年2月2日). 2023年4月11日閲覧。
  3. ^ Martin & Grube (2000) p.70
  4. ^ Martin & Grube (2000) p.72
  5. ^ Martin & Grube (2000) p.72-73
  6. ^ Nikolai Grube (2016), “Research Note 3: The Logogram JALAM”, Textdatenbank und Wörterbuch des Klassischen Maya, doi:10.20376/IDIOM-23665556.16.rn003.en 
  7. ^ Martin & Grube (2000) p.74-75
  8. ^ Martin & Grube (2000) p.75-77
  9. ^ Martin & Grube (2000) p.78-79
  10. ^ Martin & Grube (2000) p.82-83
  11. ^ Martin & Grube (2000) p.69
  12. ^ 外部リンクの『マヤ神聖文字碑文集成』の解説を参照
  13. ^ Graham (2010) pp.315-316, 345
  14. ^ Robert Reinhold (1973-03-26). “Looters Impede Scholars Studying Maya Mystery”. The New York Times. http://www.nytimes.com/1973/03/26/archives/looters-impede-scholars-studying-maya-mystery-scholars-of-maya-in-a.html. 

参考文献

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  • Graham, Ian (2010). The Road to Ruins. University of Mexico Press. ISBN 9780826347541 
  • Martin, Simon; Grube, Nikolai (2000). Chronicle of the Maya Kings and Queens. Thames & Hudson. ISBN 0500051038 

外部リンク

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