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チャールズ・コミスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チャールズ・コミスキー
Charles Comiskey
1918年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イリノイ州シカゴ
生年月日 1859年8月15日
没年月日 (1931-10-26) 1931年10月26日(72歳没)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
初出場 1882年5月2日
最終出場 1894年9月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1939年
選出方法 ベテランズ委員会選出
チャールズ・コミスキー(1910年頃)

チャールズ・アルバート・コミスキー(Charles Albert Comiskey、1859年8月15日 - 1931年10月26日)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身のプロ野球選手一塁手)、監督、後にシカゴ・ホワイトソックスの球団オーナー。右投げ右打ち。ニックネームは"The Old Roman"(オールド・ローマン)。

経歴

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選手・監督として

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1882年、アメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズ(現カージナルス)に参加する。ファーストを離れて守り、投手にファーストをカバーさせるという彼のスタイルは、現在でも高い評価を得ている。1885年から1890年途中までブラウンズの選手兼任監督を務め、1887年には打点103、盗塁117という記録を残した。コミスキー率いるブラウンズは1885年から4年連続でリーグ優勝を遂げた。

球団オーナーとして

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ブラウンズを離れた後、コミスキーはアメリカンリーグの設立に尽力、1901年アメリカンリーグが正式にナショナルリーグに並ぶメジャーリーグであると宣言し活動を始めて後、シカゴ・ホワイトソックスの球団オーナーに就任する。

ホワイトソックスは、1910年に鉄筋コンクリート製の新鋭球場ホワイトソックス・パーク(まもなくコミスキー・パークと改称した。なお、1991年に開場した現在のホワイトソックス本拠地ギャランティード・レート・フィールドも、ネーミングライツで現在の名称となった2003年まではコミスキー・パークと呼ばれていた)を建設した。

しかし1919年、球団オーナーを務めていたシカゴ・ホワイトソックスの選手たちが八百長事件を起こした(ブラックソックス事件)。

ブラックソックス事件とコミスキー

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ブラックソックス事件は、コミスキーが極端な吝嗇家であったことが原因だといわれている。以前からコミスキーは洗濯代を惜しんで黒く汚れたユニフォームを選手に着させていた。そのせいでチームは事件前から「ブラックソックス」と呼ばれていた。洗濯代を選手から徴収しており、選手が勝手にクリーニングに出したら罰金を取ったこともあるという。

セミプロでさえ年に5000ドル稼いでいた時代に、選手には多くても6000ドルしか支払わなかった。ディッキー・カーという選手は、この薄給に業を煮やしてセミプロに移籍した。そのため彼は球界を永久追放になってしまった。一番ひどいケースは、ブラックソックス事件にも関わったエディ・シーコットである。シーコットは1917年には28勝してチームをリーグ優勝に導いたのに3500ドルしか貰っていなかった。これらのエピソードが物語るとおり、ブラックソックス事件に関わったものが全面的に悪いとは必ずしもいえない。

ブラックソックス事件を受けてコミッショナー制度が導入され、ホワイトソックスの選手8人は永久追放処分を受けた。一方、オーナーのコミスキーは処分を受けることなく、のちに野球殿堂入りなどの名誉を得ることとなった。処分の不公平感などから、永久追放処分されたホワイトソックスの選手8人は「悲運の8人」(アンラッキー・エイト)と同情が寄せられることになった。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1882 STB 78 333 329 58 80 9 5 1 102 45 -- -- -- -- 4 -- -- -- -- .243 .252 .310 .562
1883 96 412 401 87 118 17 9 2 159 64 -- -- -- -- 11 -- -- -- -- .294 .313 .397 .710
1884 108 470 460 76 109 17 6 2 144 84 -- -- -- -- 5 -- 5 -- -- .237 .253 .313 .566
1885 83 358 340 68 87 15 7 2 122 44 -- -- -- -- 14 -- 4 -- -- .256 .293 .359 .652
1886 131 588 578 95 147 15 9 3 189 76 41 -- -- -- 10 -- 0 -- -- .254 .267 .327 .594
1887 125 572 538 139 180 22 5 4 224 103 117 -- -- -- 27 -- 7 11 -- .335 .374 .416 .790
1888 137 592 576 102 157 22 5 6 207 83 72 -- -- -- 12 -- 4 37 -- .273 .292 .359 .692
1889 137 609 587 105 168 28 10 3 225 102 65 -- -- -- 19 -- 3 19 -- .286 .312 .383 .695
1890 CHP 88 394 377 53 92 11 3 0 109 59 34 -- -- -- 14 -- 3 17 -- .244 .247 .289 .566
1891 STB 139 612 572 84 148 16 2 2 174 88 38 -- -- -- 33 -- 7 25 -- .259 .307 .304 .611
1892 CIN 141 587 551 61 125 14 6 3 160 71 30 -- -- -- 32 -- 4 16 -- .227 .274 .290 .565
1893 64 272 259 38 57 12 1 0 71 26 9 -- -- -- 11 -- 2 2 -- .220 .257 .274 .531
1894 63 241 228 26 61 9 0 0 70 38 10 -- 5 -- 5 -- 3 5 -- .268 .292 .307 .599
MLB:13年 1390 6040 5796 992 1529 207 68 28 1956 883 *416 -- *5 -- 197 -- *42 *132 -- .264 .293 .337 .630
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • 通算記録の「*数字」は不明年度がある事を示す

監督としての戦績

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年度 チーム リーグ 試合 勝利 敗戦 勝率 順位 備考
1883年 STB AA 19 12 7 .632 2位
1884年 25 16 7 .696 4位
1885年 112 79 33 .705 1位
1886年 139 93 46 .669 1位
1887年 138 95 40 .704 1位
1888年 137 92 43 .681 1位
1889年 141 90 45 .667 2位
1890年 CHP PL 138 75 62 .547 4位
1891年 STB AA 141 86 52 .623 2位
1892年 CIN NL 155 82 68 .547 5位 前期4位、後期8位
1893年 131 65 53 .508 6位
1894年 134 55 75 .423 10位
通算 1410 840 541 .608

脚注

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関連項目

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外部リンク

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