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ジム・バーネット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジム・バーネット
ジム・バーネットの画像
左からデビッド・フォン・エリック、バーネット、ロン・フラー(1983年)
プロフィール
本名 ジェイムズ・エドワード・バーネット
誕生日 1924年6月9日
死亡日 (2004-09-18) 2004年9月18日(80歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オクラホマ州の旗 オクラホマ州
オクラホマ郡オクラホマシティ[1]
所属 GCWWWFJCPWCW
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ジム・バーネットJim Barnett、本名:James Edward Barnett1924年6月9日 - 2004年9月18日)は、アメリカ合衆国プロレスリングプロモーターオクラホマ州オクラホマシティ出身[1]

来歴

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1950年代は、シカゴや東部地区のプロモーターだったフレッド・コーラーのオフィスボーイとして活動[2]。同地区のプロレス中継を放送していたデュモン・ネットワークのスクリプト・ライターも務めていた[3]1958年にコーラーのもとから独立し、インディアナポリスデトロイトコロンバスなど中西部地区のプロモーターとなる[2]

しかし1964年ウイルバー・スナイダーディック・ザ・ブルーザーザ・シークら配下のプロレスラーが相次いで離脱して対抗勢力を旗揚げしたことにより、共同経営者のジョニー・ドイルと共にオーストラリアへ転出[4]。同年秋、シドニーにて新団体ワールド・チャンピオンシップ・レスリングを発足させ[5]、フラッグシップ・タイトルとしてIWA世界ヘビー級王座を創設、キラー・コワルスキーを初代王者に認定した[6]

1972年8月、NWAジョージア地区のブッカー兼レスラーだったレイ・ガンケルがオックス・ベーカーとの試合後に心臓発作で急死。以降の興行の主導権を巡り内紛が勃発し、レイの妻だったアン・ガンケルが新団体を設立、同地区内で2つのプロモーションが興行戦争を展開する事態となったが、1973年のNWA総会に出席するためアメリカに帰国していたバーネットが最終的に両プロモーションを買収、オーストラリアの権利を売却してジョージア地区の運営を引き継ぐことになった[3][7](バーネットの帰米後、ワールド・チャンピオンシップ・レスリングの運営はロン・ミラー&ラリー・オーディらが引き継いだが、1978年に活動を停止している[5])。

以降、1980年代前半までジョージア・チャンピオンシップ・レスリング(GCW)のオーナーとして活躍[8]。団体名を冠したプロレス中継番組『ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング』はテッド・ターナーのWTCG(後のWTBS)にて全国放送され高視聴率を獲得し、NWA内部における影響力も増大。1974年8月のNWA総会にてNWA世界ヘビー級王者のスケジュールを決める責任者に就任するなど[9]フロリダエディ・グラハムと並び、ディープサウスを代表する大プロモーターとなって一時代を築いた[1][7]。また、NWAの「主流派」であったことから日本ではジャイアント馬場全日本プロレスに協力。1975年12月のオープン選手権をはじめ、リーグ戦やタイトルマッチの立会人として度々来日した[10]

1982年には、WTBSの番組名をオーストラリアで運営していた団体名と同じ『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング』に改称(この名称は、後年WCWに引き継がれる)。しかし同年末、世界最強タッグ決定リーグ戦のウィットネスとして来日中、GCWのヘッドブッカーだったオレイ・アンダーソンがバーネットの不在を利用してクーデターを起こし、バーネットは辞任に追い込まれる[11]。そこで1984年ジャック・ブリスコジェリー・ブリスコらと共にGCWの株式をWWFビンス・マクマホンに売却[12]。『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング』の放映権もWWF所有となり、ブラック・サタデーと呼ばれる事件に発展した[13]

以降はWWFの幹部となったが、水面下でNWAミッドアトランティック地区(JCP)のジム・クロケット・ジュニアと接触していたことが発覚しWWFを解雇される[14]。その後はアトランタに戻り1987年下期よりJCPに所属、団体が経営難に陥るとテッド・ターナーへの事業売却をクロケットに助言し[14]1990年代は相談役としてWCWに在籍した[1]

2004年9月18日のため死去[15]。80歳没。生前は同性愛者であることを公言し、1950年代には俳優ロック・ハドソンとの関係も噂された[16]

没後の2005年NWA殿堂入り[17]2019年にはWWE殿堂のレガシー部門に迎えられた[18]

参考文献

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  • ショーン・アセール、マイク・ムーニハム『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』ベースボール・マガジン社、2004年。ISBN 4583037880 

脚注

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  1. ^ a b c d Jim Barnett was TV innovator”. SLAM! Sports. 2015年2月21日閲覧。
  2. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.11』、P52(2009年、辰巳出版ISBN 4777806502
  3. ^ a b 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P62
  4. ^ 『Gスピリッツ Vol.13』、P76(2009年、辰巳出版、ISBN 4777807150
  5. ^ a b World Championship Wrestling”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
  6. ^ IWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
  7. ^ a b Jim Barnett's Australian legacy”. SLAM! Sports. 2015年2月21日閲覧。
  8. ^ Georgia Championship Wrestling”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
  9. ^ 『Gスピリッツ Vol.34』、P63-64(2014年、辰巳出版、ISBN 4777814165
  10. ^ 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』、P98(2002年、日本スポーツ出版社
  11. ^ 『Gスピリッツ Vol.55』、P90(2020年、辰巳出版、ISBN 4777825302
  12. ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P67
  13. ^ Black Saturday: The unbelievable story of the original invasion”. WWE.com. 2015年2月21日閲覧。
  14. ^ a b 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P111
  15. ^ Jim Barnett 1924-2004”. Cauliflower Alley Club. 2015年2月21日閲覧。
  16. ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P153
  17. ^ National Wrestling Alliance Hall of Fame”. Wrestling-Titles.com. 2016年1月19日閲覧。
  18. ^ Congratulations to the 2019 WWE Hall of Fame Legacy inductees”. WWE.com. 2019年4月7日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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