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サンディニスタ革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サンディニスタ革命
中米紛争
1961年7月19日-1990年4月25日
場所ニカラグア
結果 ソモサ政権の消滅、およびコントラの蜂起
衝突した勢力

FSLN
パナマの旗 パナマ(1978年-79年)

支援国:
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦(1980年-90年)
コスタリカの旗 コスタリカ(1978年-82年)
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗 リビア
 キューバ
ブルガリアの旗 ブルガリア
チェコの旗 チェコスロバキア(1989年まで)
東ドイツの旗 東ドイツ(1989年まで)
ハンガリーの旗 ハンガリー(1989年まで)
ポーランドの旗 ポーランド(1989年まで)
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
PLO
アルジェリアの旗 アルジェリア
 チリ(1970年-73年)
ベネズエラの旗 ベネズエラ(1978年-79年)

ニカラグアの旗 ソモサ政権(1961年-79年)
ニカラグアの旗 コントラ(1979年-90年)

支援国:
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
コスタリカの旗 コスタリカ(1982年-86年)
イスラエルの旗 イスラエル
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
中華民国の旗 中華民国
ホンジュラスの旗 ホンジュラス
 チリ(1973年-90年)
パナマの旗 パナマ(1981年-87年)
アルゼンチンの旗 アルゼンチン(1976年-83年)
 コロンビア
イランの旗 イラン帝国(1979年まで)
イランの旗 イラン・イスラム共和国(1979年から)
ブルネイの旗 ブルネイ
メキシコの旗 メキシコ
フランスの旗 フランス
 スウェーデン
指揮官
ダニエル・オルテガ
カルロス・フォンセカ英語版  
ウンベルト・オルテガ英語版
ホアキン・クアドラ英語版
トマス・ボーエ英語版
エデン・パストラ(1981年まで)
パナマの旗 ウーゴ・スパダフォーラ英語版
ニカラグアの旗 ルイス・ソモサ・デバイレ
ニカラグアの旗 アナスタシオ・ソモサ・デバイレ
ニカラグアの旗 エンリケ・ベルムデス英語版
ニカラグアの旗 アドルフォ・カレロ英語版
ニカラグアの旗 アリスティデス・サンチェス英語版
ニカラグアの旗 アルフォンソ・ロベロ英語版
ニカラグアの旗 エドガル・チャモロ英語版
ニカラグアの旗 エデン・パストラ(1982年から)
ニカラグアの旗 フェルナンド・チャモロ英語版
被害者数
10,000人死亡

サンディニスタ革命(サンディニスタかくめい)は、ニカラグア革命運動。ニカラグア革命ともいう。サンディニスタとは、正式名称サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)で、アメリカ海兵隊相手に戦い、1934年アナスタシオ・ソモサ・ガルシア暗殺された革命家アウグスト・セサル・サンディーノにちなむ名称である。

親米独裁から反米左派独裁へ

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この運動はキューバ革命の影響を受けており、1961年カルロス・フォンセカ(1976年に暗殺)の指導のもとに、独裁的支配を続けてきたソモサ一族の支配体制に反対して起こった。ホンジュラス国境地帯のジャングルや山岳地でのゲリラ活動を主としていた。アメリカの支援を受けたソモサ政権による弾圧を受けたが、次第に一般市民、中間層にも反ソモサの支持が広がり、1979年6月9日の蜂起で親米派を追い出し、臨時政府を樹立された。革命政権は民族再建政府と称した5人の最高評議会を中心に土地改革・識字運動などを推進し、ソモサ家の不正蓄財による財産を没収した。しかし、左傾化する政府による急進的な革命には中間層が反発し、1980年には中道派が離脱した。1984年の大統領選挙でFSLNの指導者で「革命の英雄」とされた国家再建委員会議長のダニエル=オルテガが大統領に選出された。オルテガ率いる政党化した「サンディニスタ民族解放戦線」は同国初の民主的な選挙とされる1990年大統領選と選挙に敗れた[1][2][3][4]

再執権・2007年の変貌

その後2007年に与党に復帰した「サンディニスタ民族解放戦線」は変貌し、独裁色を強めた。社会主義国ベネズエラからの石油を介した巨額の援助が支えであり、年平均5億ドル。オルテガ政権はこれを元に経済を立て直し、2009年に44.7%だった貧困率を2017年には41.2%へと改善させた。しかし、左派政権の腐敗は急激に進んだ。オルテガ大統領は党内の反対派を排除し、メディアを買収して政府の支配下に置いた。さらに最高裁の判事や最高選挙管理委員会に自身と近い人物を置き、大統領の連続再選を禁じた憲法を改正して「無限再選」を可能とした。2014年に石油価格が下落すると産油国ベネズエラからの支援が激減でニカラグアの社会保障費は赤字が積み重なった。同年に憲法の再選禁止規定を撤廃しており、独裁的な政治手法に対して批判が強まったが、2017年には夫人を副大統領に据えた。2018年4月18日にニカラグア政府は、年金の減額や保険料の値上げといった社会保障制度改革を決定した。すると、まず、学生らが反発。SNSでデモを呼び掛けると、政府に不満を持つ人々の間で抗議の大波が広まった。反政府デモに対する政府の対応は警官隊のほか、退役軍人やサンディニスタ民族解放戦線の青年部らによる狙撃隊を組織し、自動小銃で武装した。首都などが数カ月間、市街戦の舞台になった。自動小銃で武装する政府側に対し、市民はバリケードを築き、鉄パイプの手製「迫撃砲」や投石で応戦した。5月30日、一連の衝突で子どもを失った母親たちが「平和的なデモ」を呼びかけると、首都マナグア中心部を40年前にゲリラ兵士を迎えた市民の数を大きく上回る50万人以上の市民が埋め尽くしたのに政府側から銃撃がなされた。以降も政権は野党指導者や批判的な報道をした記者を拘束して拷問するなどでの暴力的な独裁を続けている。2021年には3つの野党から政党資格を剥奪し、7人の野党大統領候補を含む30人以上の反体制派有力者を逮捕・メディア弾圧もして、国際的に非難される再選をしている。かつて1979年の革命でソモサ独裁政権を倒したサンディニスタ民族解放戦線の指導者自身が権力を握ると独裁者化した。このような反親米独裁政府勢力が政権を握ると左派独裁政権化するというのは、ラテンアメリカではよく見られる現象である。2019年時点で国民の42%が暮らす農村民の55.9%が貧困状態にあり、子どもの53%が初等教育を終了できていないために、「革命は成功しなかった」と評価されている。それでも反米左派政権であるためにロシア、イラン、ベネズエラ、キューバ、ボリビアはオルテガ政権への支持を表明している[3][1][4][2]

経緯

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サンディニスタ革命まで

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1974年ごろからニカラグア国内に広く反ソモサの動きが広まり、1978年には体制側により反政府系新聞社主ペドロ・ホアキン・チャモロが暗殺されるに至った。これを契機に反ソモサ勢力の中にはサンディニスタへの支持基盤が広がり、結果的にチャモロ社主の暗殺は、却ってソモサ体制をより大きくを揺るがすこととなった。

1979年7月、サンディニスタの大規模な軍事攻撃や市民のゼネラル・ストライキは遂にアナスタシオ・ソモサ・デバイレを亡命に追い込み、民族再建政府が樹立された。革命政府は土地改革・識字運動・ソモサ家の財産没収などの政策を実行した。

サンディニスタ革命以後

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革命政府によるこれら急進的な政策に反対する穏健派革命勢力(サンディニスタの一部を含む)は下野し、更にその一部はソモサ派残党と手を結んで「コントラ」と呼ばれる反革命勢力に加わった。

1980年代に入るとアメリカが経済援助を停止して経済封鎖を続け、またコントラを支援した。1984年の総選挙で、これまで民族再建会議議長であったダニエル・オルテガ大統領に就任し、非同盟混合経済を謳う新憲法が発布された。1988年コスタリカ大統領アリアスの和平提案が旧中米連邦5カ国の大統領によって調印されたが、完全な実行には至らなかった。

長引く戦闘の重圧と経済疲弊の中で行われた1990年の総選挙で反サンディニスタ側が勝利、ペドロの妻ビオレタ・チャモロが新大統領となり、サンディニスタ革命は終焉した。

脚注

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参考文献

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  • 岡部広治『たたかうニカラグア』新日本出版社、1986年10月、ISBN 4406014578[1]
  • 藤井満『ニカラグアを歩く 革命と内戦の今昔』日本図書刊行会、1997年4月、ISBN 4890392130
  • V.ニィスキー、M.ベルヤット(共著)『ニカラグア サンディニスタ革命』ありえす書房、1985年10月、[2]
    • V. Nizskii, M. Beriat, Nicaragua:revolution for the people
  • ディーター・マズール(関西ラテンアメリカ研究会訳)『ゲリラのまなざし ニカラグア革命外史』現代企画室、1989年8月、[3]
    • Dieter Masuhr, Los ojos de los guerrilleros
  • 村田信『ニカラグア賛歌 サンディニスタに栄光あれ』啓文社、1991年10月、ISBN 4772914137
  • 吉田ルイ子『サンディーノのこどもたち 私の見たニカラグア』大月書店、1985年11月、[4]

関連項目

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