コンテンツにスキップ

井上八千代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
印刷用ページはサポート対象外です。表示エラーが発生する可能性があります。ブラウザーのブックマークを更新し、印刷にはブラウザーの印刷機能を使用してください。

井上 八千代(いのうえ やちよ)は、京舞井上流家元名跡である。

初世家元 初代井上八千代

本名・井上サト(明和4年(1767年) − 安政元年12月5日1855年1月22日))

京都の出身。儒者井上敬助の妹。街師匠から稽古につき、16歳で公家の一つ近衛家に奉公に出る。奉公しながら修行を積む。宮廷文化を基盤に創始。天明時代から近衛家に仕え、曲舞白拍子舞を学ぶ。1797年に近衛家を退いた際に八千代の芸名と近衛菱紋を贈られ井上流を創始。

二世家元 二代目井上八千代

本名・井上アヤ(明和7年(1770年) - 慶応4年3月1日1868年3月24日))

京都の出身。初代の姪(兄の井上敬助の娘)で後に養子。才女として知られ、当時花街の師匠として風靡した篠塚流に対抗するには、もはや風流舞ではおぼつかないと見て、金剛流舞の型や人形浄瑠璃の人形の型、さらに歌舞伎からも取材して、新しい舞「本行舞」を創始した。

三世家元 三代目井上八千代

左から片山博通観世左近兄弟、娘・光子、三代目八千代。1927年頃(89歳前後)。

本名・片山春子(天保9年2月1日1838年2月24日) - 昭和13年(1938年9月7日、旧姓:吉住)

大坂住吉の社家吉住彦兵衛の次女。初世家元・サト、二世家元・アヤに師事し井上春を許される。夫は能楽シテ方観世流六世片山九郎右衛門(晋三)

明治5年(1872年)、35歳のとき、京都初の博覧会が催され、万亭の杉浦治郎右衛門と二人で余興として「都をどり」を企画。振付ならびに指導を担当、これまで座敷舞であった京舞を舞台にのせ、また祇園町と井上流の関係を深めて流派を興隆にみちびいた。四代目八千代、松本佐多はじめ多くの弟子をそだてている。なお「井上八千代」を名乗るのは96歳の時で、それまでは片山春子で通していた[1]。娘・光子の婿が七世片山九郎右衛門(観世元義)で、孫に観世左近(元滋)と八世片山九郎右衛門(片山博通)がいる。博通の妻が四代目八千代である。北條秀司の戯曲『京舞』は、三代目八千代と四代目八千代を主人公としている。

昭和12年、百寿の祝賀会で創作舞を披露。最晩年まで舞にかける情熱は衰えを見せなかった。翌昭和13年の春、101歳となっても「都をどり」の采配を振るった。同年6月頃から衰えが顕著となり、9月7日、老衰のため京都市東山区の自宅で死去した[2][3]

四世家元 四代目井上八千代

本名・片山愛子(1905年(明治38年)5月14日 - 2004年平成16年)3月19日) 1905年(明治38年)5月14日、東山区建仁寺町にて生まれる(父:北井清治郎、母:木田いと)。二歳で、当時縄手通車道西入ルにあったお茶屋兼置屋を経営する岡本マスの養女となる。その後、芸妓松本佐多(本当の芸名は定、本名は愛子)の妹として一字を貰い、岡本定子の芸名で10歳で舞妓デビューする。大正天皇御大典奉祝「第47回都をどり・都名所」で都をどり初出演。 13歳で松本佐多の強い勧めで、京舞井上流三代目の内弟子となる。この時、三代目井上八千代は81歳。一応、正式に岡本家から三代目師匠が旦那として彼女を引いた。その時の引き祝い金は百円であった。その年の温習会に「屠蘇万歳」を舞ったのが舞妓最後の舞台となり、以降、都をどり・温習会には出演せず。 三代目井上八千代の内弟子。夫は三代目の孫である片山博通(八世片山九郎右衛門)。子に九世片山九郎右衛門(博太郎)、片山慶次郎、杉浦元三郎(いずれも能楽シテ方観世流)。日本芸術院賞等を受賞。人間国宝認定、日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章。後年隠居して初代井上愛子を名乗る[4]

1942年(昭和17年)の日活映画『宮本武蔵 一乗寺決闘』で、稲垣浩監督は市川春代が演じた吉野太夫の舞を四代目井上八千代に指導してもらった。夫の片山博通にも昭和13年に『出世太閤記』で月形龍之介が演じた織田信長の幸若舞を指導してもらっている[5]

代表作は『長刀八島』、『海士』(あま)、『鉄輪』(かなわ)、『信乃』ほか。

経歴

  • 1905年、京都東山区建仁寺町に生まれる
  • 1906年 岡本マスの養女となる
  • 1908年(3歳)、京舞井上流三世八千代に入門
  • 1915年(10歳)、松本佐多の妹で「定子」の芸名で舞妓となる
  • 1918年(13歳)、三世井上八千代に引かれ舞妓を辞めて養女になる
  • 1919年(14歳)、名取。井上愛子を名乗る
  • 1923年、八坂女紅場学園舞踊科教師になる
  • 1931年、三世家元の孫、観世流能楽師・片山博通(八世片山九郎右衛門)と結婚
  • 1947年、四世家元、四代目井上八千代を襲名
  • 1952年、日本芸術院賞[6]
  • 1953年、芸術祭賞
  • 1955年、人間国宝に認定
  • 1957年、日本芸術院会員に選ばれる
  • 1969年、京都市文化功労者
  • 1971年、NHK放送文化賞
  • 1975年、京都市名誉市民[7]、文化功労者
  • 1976年、勲三等宝冠章
  • 1986年、第15回花柳寿応賞
  • 1988年、第3回関西大賞
  • 1990年、文化勲章
  • 2000年、孫の井上三千子に家元の座と八千代の名跡を譲り、「井上愛子」に戻る
  • 2004年、満98歳で老衰により死去

五世家元 五代目井上八千代

本名・観世三千子(1956年11月28日 - 、旧姓:片山)

1956年、四代目八千代の片山愛子を祖母、片山幽雪(九世片山九郎右衛門、能楽シテ方観世流)を父に京都に生まれる。夫は九世観世銕之丞(能楽シテ方観世流)。子に井上安寿子(観世安寿子)、観世淳夫。日本芸術院会員。

弟は片山清司十世片山九郎右衛門)。

公益社団法人・日本舞踊協会常任理事。

経歴

  • 1956年、京都に生まれる
  • 1959年(2歳)、舞の稽古を始める
  • 1970年(14歳)、名取
  • 1975年、私立ノートルダム女学院高校卒業。学校法人「八坂女紅場学園」(祇園女子技芸学校)の舞踊科教師になる
  • 1999年、日本芸術院賞を受賞
  • 2000年、五世家元として「五代目井上八千代」を襲名
  • 2004年、京都府文化賞功労賞を受賞
  • 2013年、紫綬褒章受章、日本芸術院会員に選ばれる。 
  • 2014年、京都市文化功労者
  • 2015年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定[8]

脚注

  1. ^ 片山家能楽・京舞保存財団のウェブサイト中の片山家の紹介の記述を参照し加筆
  2. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  3. ^ 京舞いの家元、百一歳の生涯とじる『大阪毎日新聞』(昭和13年9月8日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p14 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  4. ^ 遠藤保子『三世井上八千代 京舞井上流家元 祇園の女風土記』
  5. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  6. ^ 『朝日新聞』1952年3月26日(東京本社発行)夕刊、2頁。
  7. ^ 京都市名誉市民 片山愛子(かたやま あいこ)氏[四世 井上八千代]”. 京都市. 2022年9月20日閲覧。
  8. ^ 片岡仁左衛門らが人間国宝に”. シアターガイド (2015年7月22日). 2015年7月23日閲覧。

関連項目

参考文献

外部リンク