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大村純庸

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大村 純庸
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文10年1月13日1670年3月4日
死没 元文3年5月13日1738年6月29日
改名 伊織・幾之助(幼名)、純庸、蘭台(法号)
戒名 崇利了翁日貞元通院
墓所 長崎県大村市本経寺
官位 従五位下、伊勢
幕府 江戸幕府
肥前国大村藩
氏族 大村氏
父母 父:大村純長、母:相沢氏
養父:大村純尹
兄弟 姉(生駒親興室)、純真純尹大田原清勝
姉(福田長兼室)、純庸西郷寿員、五郎八、
妹(久世広隆室)、妹(堀秀行室)
正室:諸星氏
吉三郎、純富、娘(大村保勝室)、
純皓(三男)、娘(大村富敬室)、
娘(針尾保納室)、虎之助、
娘(大田原友清正室)、熊野富包(五男)、
三好富次(七男)
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大村 純庸(おおむら すみつね)は、肥前大村藩の第6代藩主。

寛文10年(1670年)1月13日、第4代藩主・大村純長の四男として玖島城で生まれる。宝永3年(1706年)に父が死去すると、家督は異母兄の純尹が継ぎ、純庸は3000石を分与された。

やがて純尹の実子が全て早世したため養子となり、正徳2年(1712年)に純尹が死去すると家督を継いだ。享保4年(1719年)5月3日から行き詰まった藩政を立て直すため、地方知行制を蔵米知行制に変更し、年貢増徴を行なっている。

享保12年(1727年)閏1月9日、家督を次男・純富に譲って隠居する。以後は蘭台と号して、俳諧の世界で余生を過ごした。元文3年(1738年)5月13日に大村の向屋敷で死去した。享年69。