「藤原公実」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
|||
(11人の利用者による、間の11版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date=2019年2月13日 (水) 05:15 (UTC)}} |
|||
{{基礎情報 公家 |
{{基礎情報 公家 |
||
| 氏名 = 藤原公実 |
| 氏名 = 藤原 公実 |
||
| 画像 = |
| 画像 = |
||
| 画像サイズ = |
| 画像サイズ = |
||
16行目: | 17行目: | ||
| 主君 = [[後三条天皇]]→[[白河天皇]]→[[堀河天皇]]→[[鳥羽天皇]] |
| 主君 = [[後三条天皇]]→[[白河天皇]]→[[堀河天皇]]→[[鳥羽天皇]] |
||
| 氏族 = [[藤原北家]][[閑院流]] |
| 氏族 = [[藤原北家]][[閑院流]] |
||
| 父母 = 父:[[藤原実季]]、母:藤原睦子([[藤原経平]] |
| 父母 = 父:[[藤原実季]]、母:[[藤原睦子]]([[藤原経平]]の娘) |
||
| 兄弟 = '''公実'''、[[藤原保実|保実]]、[[藤原仲実|仲実]]、[[藤原苡子|苡子]] |
| 兄弟 = '''公実'''、[[藤原保実|保実]]、[[藤原仲実|仲実]]、[[藤原苡子|苡子]] |
||
| 妻 = [[藤原基貞]] |
| 妻 = [[藤原基貞]]の娘、高階永業の娘<br/>[[藤原実政]]の娘、[[藤原光子]]([[藤原隆方]]の娘)<br/>[[藤原通家]]の娘 |
||
| 子 = [[藤原実隆|実隆]]、[[三条実行]]、[[藤原実兼 (太皇太后宮亮)|実兼]]、[[藤原経実]]室、覚源、[[藤原通季|西園寺通季]]、仁実、[[徳大寺実能]]、[[藤原実子|実子]]、[[藤原公子|公子]]、[[藤原経実]]室、[[源有仁]]室、[[藤原璋子|璋子]]、[[藤原季成|季成]]、[[済実]]、[[藤原家政]]室 |
| 子 = [[藤原実隆|実隆]]、[[三条実行]]、[[藤原実兼 (太皇太后宮亮)|実兼]]、[[藤原経実]]室、覚源、[[藤原通季|西園寺通季]]、仁実、[[徳大寺実能]]、[[藤原実子|実子]]、[[藤原公子|公子]]、[[藤原経実]]室、[[源有仁]]室、[[藤原璋子|璋子]]、[[藤原季成|季成]]、[[済実]]、[[藤原家政]]室 |
||
| 特記事項 = [[三条家]]、[[西園寺家]]、[[徳大寺家]]の祖<br/>[[崇徳天皇|崇徳]]、[[後白河天皇]]の外祖父 |
| 特記事項 = [[三条家]]、[[西園寺家]]、[[徳大寺家]]の祖<br/>[[崇徳天皇|崇徳]]、[[後白河天皇]]の外祖父 |
||
}} |
|||
'''藤原 公実'''(ふじわら の きんざね)は、[[平安時代]]の後期の[[公卿]]、[[歌人]]。[[正二位]]、[[大納言|権大納言]]に至り、三条大納言と称す。 |
|||
== |
== 経歴 == |
||
[[大納言]][[藤原実季|実季]]の[[長男]]で、母は[[藤原経平]]女。[[閑院家]]の祖・[[太政大臣]][[藤原公季|公季]]の玄孫にあたる。弟に[[藤原保実|保実]]・[[藤原仲実|仲実]]、妹に[[藤原苡子|苡子]]([[堀河天皇]][[女御]]、[[鳥羽天皇]]生母)らがいる。[[白河天皇|白河院]]とは従兄弟に当たるため[[朝廷]]の信任も篤く、[[堀河天皇]]に近臣として仕え、妻[[藤原光子|光子]]は堀河・鳥羽二代の乳母となった。歌壇でも活躍し、[[長治]]2年([[1105年]])頃奏覧の『[[堀河院御時百首和歌]]』に出詠し、[[後拾遺和歌集|後拾遺集]]以下の[[勅撰和歌集]]に57首が入集している。また家集『公実集』(断簡のみ)がある。 |
[[大納言]][[藤原実季|実季]]の[[長男]]で、母は[[藤原経平]]女。[[閑院流|閑院家]]の祖・[[太政大臣]][[藤原公季|公季]]の玄孫にあたる。弟に[[藤原保実|保実]]・[[藤原仲実|仲実]]、妹に[[藤原苡子|苡子]]([[堀河天皇]][[女御]]、[[鳥羽天皇]]生母)らがいる。[[白河天皇|白河院]]とは従兄弟に当たるため[[朝廷 (日本)|朝廷]]の信任も篤く、[[堀河天皇]]に近臣として仕え、妻[[藤原光子|光子]]は堀河・鳥羽二代の乳母となった。歌壇でも活躍し、[[長治]]2年([[1105年]])頃奏覧の『[[堀河院御時百首和歌]]』に出詠し、[[後拾遺和歌集|後拾遺集]]以下の[[勅撰和歌集]]に57首が入集している。また家集『公実集』(断簡のみ)がある。 |
||
公実の逸話として、[[嘉承]]2年([[1107年]])に甥が[[鳥羽天皇]]として[[即位]]した時、公実は[[摂家|摂関家]]の当主[[藤原忠実|忠実]]の若年であることを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ[[摂政]]に就任すべしと主張したが、「五代もの間、並の公卿として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の[[源俊明]]に一蹴されたという話がある<ref>「公季ヲモヒモヨラデ、ソノ子ムマゴ実成、公成、実季ト五代マデタエハテヽ、ヒトエノ凡夫ニフルマイテ代々ヲヘテ、摂政ニハサヨウノ人ノイルベキホドノツカサカハ」(『[[愚管抄]]』巻4)</ref>。また、鳥羽天皇の即位直後、天皇の側近く仕える公卿が行うべき作法を天皇の伯父である公実が知らなかったことを藤原忠実から批判されている<ref>『殿暦』嘉承2年7月28日条</ref> |
公実の逸話として、[[嘉承]]2年([[1107年]])に甥が[[鳥羽天皇]]として[[即位]]した時、公実は[[摂家|摂関家]]の当主[[藤原忠実|忠実]]の若年であることを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ[[摂政]]に就任すべしと主張したが、「五代もの間、並の公卿として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の[[源俊明]]に一蹴されたという話がある<ref>「公季ヲモヒモヨラデ、ソノ子ムマゴ実成、公成、実季ト五代マデタエハテヽ、ヒトエノ凡夫ニフルマイテ代々ヲヘテ、摂政ニハサヨウノ人ノイルベキホドノツカサカハ」(『[[愚管抄]]』巻4)</ref>。また、鳥羽天皇の即位直後、天皇の側近く仕える公卿が行うべき作法を天皇の伯父である公実が知らなかったことを藤原忠実から批判されている<ref>『殿暦』嘉承2年7月28日条</ref><ref>[[樋口健太郎]]は「公実を含む閑院流には天皇を[[後見 (歴史学)|後見]]するために必要な[[有職故実]]が伝わっていなかった上に、鳥羽天皇の即位時に閑院流の公卿は権大納言の公実と弟の権中納言の仲実しかおらず、[[輔仁親王]]という皇位継承を巡る競争相手が控えた鳥羽天皇の後見として閑院流(公実・仲実兄弟)は頼りにならなかった、という現実的な理由があった」としている。- [[樋口健太郎]]『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) {{ISBN2|978-4-642-02948-3}} P20-21</ref>。その公実も、鳥羽天皇の即位からわずか4か月後に病死している。享年55。 |
||
しかし、公実の権勢はその子供たちの出世にそのまま反映され([[三条実行|実行]]は[[太政大臣]]、[[徳大寺実能|実能]]は[[左大臣]]、末娘[[藤原璋子|璋子]]は[[鳥羽天皇]][[中宮]])、[[三条家|三条]]・[[西園寺家|西園寺]]・[[徳大寺家|徳大寺]]の三[[清華家]]の共通の祖となった。 |
しかし、公実の権勢はその子供たちの出世にそのまま反映され([[三条実行|実行]]は[[太政大臣]]、[[徳大寺実能|実能]]は[[左大臣]]、末娘[[藤原璋子|璋子]]は[[鳥羽天皇]][[中宮]])、[[三条家|三条]]・[[西園寺家|西園寺]]・[[徳大寺家|徳大寺]]の三[[清華家]]の共通の祖となった。 |
||
32行目: | 34行目: | ||
== 系譜 == |
== 系譜 == |
||
* 父:[[藤原実季]] |
* 父:[[藤原実季]] |
||
* 母:藤原睦子 - [[藤原経平]]女<ref>[[藤原北家]][[小野宮流]]の出身</ref> |
* 母:[[藤原睦子]] - [[藤原経平]]女<ref>[[藤原北家]][[小野宮流]]の出身</ref> |
||
* 妻:[[藤原基貞]]女 |
* 妻:[[藤原基貞]]女 |
||
** 長男:[[藤原実隆]](1079-1127) |
** 長男:[[藤原実隆]](1079-1127) |
||
39行目: | 41行目: | ||
** 男子:[[藤原実兼 (太皇太后宮亮)|藤原実兼]](?-1130) |
** 男子:[[藤原実兼 (太皇太后宮亮)|藤原実兼]](?-1130) |
||
* 妻:[[藤原実政]]女 |
* 妻:[[藤原実政]]女 |
||
** 女子:[[藤原経実]]室(1071- |
** 女子:[[藤原経実]]室(1071-1104) |
||
* 妻:[[藤原光子]]([[藤原隆方]]女) - [[堀河天皇|堀河]]、[[鳥羽天皇]]の乳母 |
* 妻:[[藤原光子]]([[藤原隆方]]女) - [[堀河天皇|堀河]]、[[鳥羽天皇]]の乳母 |
||
** 男子:覚源 - 阿闍梨 |
** 男子:覚源 - 阿闍梨 |
||
48行目: | 50行目: | ||
** 女子:[[藤原公子]](1087?-?) - [[藤原経実]]室、[[藤原経宗|経宗]]・[[源懿子 (後白河天皇妃)|懿子]]母 |
** 女子:[[藤原公子]](1087?-?) - [[藤原経実]]室、[[藤原経宗|経宗]]・[[源懿子 (後白河天皇妃)|懿子]]母 |
||
** 女子:[[源有仁]]室(?-1151) |
** 女子:[[源有仁]]室(?-1151) |
||
** 女子:[[藤原璋子|待賢門院 |
** 女子:[[藤原璋子|藤原璋子(待賢門院)]](1101-1145) - 鳥羽天皇[[中宮]]、[[女院]] |
||
* 妻:[[藤原通家]]女 |
* 妻:[[藤原通家]]女 |
||
** 七男:[[藤原季成]](1102-1165) |
** 七男:[[藤原季成]](1102-1165) |
||
82行目: | 84行目: | ||
* [[閑院流]] |
* [[閑院流]] |
||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:ふしわら の きんさね}} |
{{DEFAULTSORT:ふしわら の きんさね}} |
||
[[Category:閑院流|きんさね]] |
[[Category:閑院流|きんさね]] |
2024年1月26日 (金) 12:29時点における最新版
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 天喜元年(1053年) |
死没 | 嘉承2年11月14日(1107年12月29日) |
別名 | 三条大納言 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後三条天皇→白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流 |
父母 | 父:藤原実季、母:藤原睦子(藤原経平の娘) |
兄弟 | 公実、保実、仲実、苡子 |
妻 |
藤原基貞の娘、高階永業の娘 藤原実政の娘、藤原光子(藤原隆方の娘) 藤原通家の娘 |
子 | 実隆、三条実行、実兼、藤原経実室、覚源、西園寺通季、仁実、徳大寺実能、実子、公子、藤原経実室、源有仁室、璋子、季成、済実、藤原家政室 |
特記 事項 |
三条家、西園寺家、徳大寺家の祖 崇徳、後白河天皇の外祖父 |
藤原 公実(ふじわら の きんざね)は、平安時代の後期の公卿、歌人。正二位、権大納言に至り、三条大納言と称す。
経歴
[編集]大納言実季の長男で、母は藤原経平女。閑院家の祖・太政大臣公季の玄孫にあたる。弟に保実・仲実、妹に苡子(堀河天皇女御、鳥羽天皇生母)らがいる。白河院とは従兄弟に当たるため朝廷の信任も篤く、堀河天皇に近臣として仕え、妻光子は堀河・鳥羽二代の乳母となった。歌壇でも活躍し、長治2年(1105年)頃奏覧の『堀河院御時百首和歌』に出詠し、後拾遺集以下の勅撰和歌集に57首が入集している。また家集『公実集』(断簡のみ)がある。
公実の逸話として、嘉承2年(1107年)に甥が鳥羽天皇として即位した時、公実は摂関家の当主忠実の若年であることを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ摂政に就任すべしと主張したが、「五代もの間、並の公卿として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴されたという話がある[1]。また、鳥羽天皇の即位直後、天皇の側近く仕える公卿が行うべき作法を天皇の伯父である公実が知らなかったことを藤原忠実から批判されている[2][3]。その公実も、鳥羽天皇の即位からわずか4か月後に病死している。享年55。
しかし、公実の権勢はその子供たちの出世にそのまま反映され(実行は太政大臣、実能は左大臣、末娘璋子は鳥羽天皇中宮)、三条・西園寺・徳大寺の三清華家の共通の祖となった。
系譜
[編集]- 父:藤原実季
- 母:藤原睦子 - 藤原経平女[4]
- 妻:藤原基貞女
- 妻:高階永業女
- 男子:藤原実兼(?-1130)
- 妻:藤原実政女
- 女子:藤原経実室(1071-1104)
- 妻:藤原光子(藤原隆方女) - 堀河、鳥羽天皇の乳母
- 妻:藤原通家女
- 七男:藤原季成(1102-1165)
- 未詳
略歴
[編集]- 治暦4年(1068年)7月 従五位下
- 延久2年(1070年)12月 左兵衛佐
- 延久4年(1072年)正月 従五位上
- 延久4年(1072年)12月 蔵人
- 延久5年(1073年)正月 左少将
- 延久6年(1074年)正月 正五位下 備前介
- 承保元年(1074年)11月 従四位下
- 承保2年(1075年)正月 従四位上
- 承保2年(1075年)6月 中将
- 承保4年(1077年)正月 正四位下 中宮権亮
- 承暦4年(1080年)正月 蔵人頭
- 承暦4年(1080年)12月 参議
- 永保2年(1082年) 従三位
- 永保3年(1083年)11月 正三位
- 康和2年(1100年) 正二位 権大納言
- 康和5年(1103年)8月 春宮大夫
- 嘉承2年(1107年)11月14日 薨去。55歳。
脚注
[編集]- ^ 「公季ヲモヒモヨラデ、ソノ子ムマゴ実成、公成、実季ト五代マデタエハテヽ、ヒトエノ凡夫ニフルマイテ代々ヲヘテ、摂政ニハサヨウノ人ノイルベキホドノツカサカハ」(『愚管抄』巻4)
- ^ 『殿暦』嘉承2年7月28日条
- ^ 樋口健太郎は「公実を含む閑院流には天皇を後見するために必要な有職故実が伝わっていなかった上に、鳥羽天皇の即位時に閑院流の公卿は権大納言の公実と弟の権中納言の仲実しかおらず、輔仁親王という皇位継承を巡る競争相手が控えた鳥羽天皇の後見として閑院流(公実・仲実兄弟)は頼りにならなかった、という現実的な理由があった」としている。- 樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3 P20-21
- ^ 藤原北家小野宮流の出身