カッパロケット
カッパ(ギリシャ文字のK)ロケット は、東京大学生産技術研究所と後継機関の東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所(ISAS))が、富士精密工業と後継法人のプリンス自動車工業、日産自動車宇宙航空事業部(現IHIエアロスペース)と共に開発した固体燃料を使用する観測ロケットである。
概要
編集カッパロケットは、1950年に東京大学生産技術研究所(当時)の糸川英夫によって始まった日本のロケット開発において、初めての本格的な地球観測用ロケットである。カッパロケットによる観測は国際地球観測年(IGY)プロジェクトそのものとは独立したものだったが、IGYに合わせて日本が独自に行うことを目標にしたもので、1958年9月、K(カッパ)-6型 3号機にて高度50kmの高層物理観測を行った。
カッパロケットは1988年まで運用された。もっとも多く打ち上げられたのは K-9M型ロケットで、1961年から1988年の28年間で合計81機が打ち上げられた。
バリエーション
編集カッパロケットには多くのバリエーションがある。Kに続く数字は開発番号で、後のラムダロケットやミューロケットが、一部例外があるものの、段数を示すのとは異なっている。
K-1
編集当時K-128Jと呼ばれていたロケットモータを用いた単段式の観測ロケットである。全面燃焼方式を採用していた為に高温の燃焼ガスが金属製モータケースに接触し溶けてしまう問題があったが、内面にグラスファイバー、酸化クロム、水ガラスからなるアブレーションを施し、冷却することでこれを解決した。推薬にはペンシルやベビーと同様にダブルベース火薬が用いられている。
- 諸元
- 打上げ一覧
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 ノート 1956年 9月24日 9:02 1 秋田道川海岸 5km ‐ 9月28日 11:15 2 秋田道川海岸 5km 尾翼のフラッタ現象が発生 9月29日 10:50 3 秋田道川海岸 5km ‐ 12月3日 13:20 4 秋田道川海岸 5km ‐ 12月8日 12:32 5 秋田道川海岸 5km ‐ 12月11日 12:26 6 秋田道川海岸 5km ‐ 12月13日 11:10 7 秋田道川海岸 5km ‐
K-2
編集直径220mmのブースタK-220Bの上にK-128Jのダミーを装着したロケット。2段構成であるが実質的には1段式である。K-128JDには燃料の代わりに木が詰められ、重量と重心位置はK-128Jと同様となっている。
- 諸元
- 構成:2段式(1段目:K-220B、2段目:K-128JD)
- 飛翔距離:9 km
- 重量:166.65 kg
- 直径:0.22 m
- 全長:4.898 m
- 打上げ一覧
K-3
編集K-2のダミー上段をK-128Jに換装した初の本格的な2段式観測ロケット。3機が飛翔した。
- 諸元
- 構成:2段式(1段目:K-220B、2段目:K-128J)
- 飛翔距離:25 km
- 重量:170 kg
- 直径:0.22 m
- 全長:4.9 m
- 打上げ一覧
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 ノート 1957年 5月2日 10:36 1 秋田道川海岸 ‐ 通信途絶、K-128J異常燃焼。 6月22日 21:47 2 秋田道川海岸 22km 尾翼前縁部が空力加熱で融解。 6月26日 21:27 3 秋田道川海岸 21km ‐
K-4
編集高層観測を本格的に始めたロケットである。高度50km付近の成層圏界面の観測と宇宙線観測を目的としていたが、その半分以下の高度までしか到達できなかった。K-330Bはチャンバ材として4130系耐熱鋼を用いた最後のモータであり、質量が予定より30kgほどかさんだことで重心が後退し、空気力学的な不安定さが増したことによって飛翔性能が低下したものとされている。
- 諸元
- 構成:2段式 (1段目:K-330B、2段目:K-128J)
- 飛翔距離: 45 km
- 推力: 78.4 kN
- 直径: 0.33 m
- 全長: 5.86 m
- 重量: 364 kg
- 打上げ一覧
K-122
編集K-4の欠点を克服するために計画されていた軽合金製チャンバを持つロケット。主に通信機器のテストや推薬の比較試験のために用いられた。直接的にK-128Jの系列に属すわけではないために”K-1(K-122)"と表記されることもある。1957年にS型2機1958年にST型2機、計4機が飛翔した他、K-150やシグマロケットの開発基盤となった。
- 諸元
- 構成:1段式
- 重量:45 kg
- 直径:0.12 m
- 全長:2.743 m
FT-122
編集唯一茨城県大洗から打ち上げられたロケット。低発射角での飛翔試験に用いられた。
- 打上げ一覧
K-150
編集K-5及びK-6の上段として用いることを前提として開発された1段式ロケットである。径は150mmと180mmが検討されたがK-330Bとの組合せにおいて飛翔性能が格段に優れていることから150mmに決定された。K-122と同様にアルミ合金製モータケースをもち、ポリエステル系コンポジット系推薬の性能試験を目的として飛翔実験が行われた。直接的にK-128Jの系列に属すわけではないために“K-1(K-150)” と表記されていたこともある。
- 諸元
- 構成:1段式
- 飛翔距離: 7 km
- 直径: 150 mm
- 全長: 3,256 mm
- 重量: 70.8 kg
- 打上げ一覧
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 ノート 1958年 4月8日 10:31 S-1 秋田道川海岸 ‐ 雲により光学観測中断。 4月24日 9:30 T-1 秋田道川海岸 ‐ ‐ 13:00 T-2 秋田道川海岸 ‐ ‐
K-5
編集K-6を想定して超音速飛行時の飛翔安定性を確認する目的で、K-220Bの上にK-150を搭載することで開発された。高度性能は30km程でIGYの要求からすれば今ひとつであったが、性能計算書を大きく上回るものとなった。さらにコンポジット系推薬の優秀性が確認されたことも大きな収穫となった。
- 諸元
- 構成:2段式
- 飛翔距離: 30 km
- 推力: 105.00 kN
- 直径: 0.22 m
- 全長: 5.90 m
- 打上げ一覧
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 ノート 1958年 4月20日 09:00 1 秋田道川海岸 ‐ ‐ 5月26日 12:41 2 秋田道川海岸 ‐ ‐ 6月18日 13:35 3 青森尾駮海岸 ‐ ‐
K-245
編集K-6の第1段。飛翔テストとして1958年6月14日に1機が打ち上げられた。
- 諸元
- 重量: 180 kg
- 直径: 245 mm
- 全長: 2,361 mm
K-6
編集K-150とK-245を基にポリサルファイド系コンポジット系推薬を全面的に採用することで開発されたものである。全面燃焼から内面燃焼への燃焼方式変更に伴って、構造の単純化や軽量化が行われた。IGY参加を果たした他、ユーゴスラビア宇宙協会に5機が輸出された。
- 諸元
- ペイロード:15 kg
- 飛翔距離: 50 km
- 重量: 255 kg
- 直径: 0.25 m
- 全長: 5.4 m
- 打上げ一覧
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 ノート 1958年 6月16日 11:36 1 秋田道川海岸 30km ‐ 6月20日 15:15 2 秋田道川海岸 45km ‐ 9月12日 10:31 3 秋田道川海岸 50km 日本初の高層物理観測に成功 9月14日 11:40 4 秋田道川海岸 40km ‐
K-6TW
編集- 打ち上げ実績
- 観測内容 - A:大気構造
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 成否 1958年 6月24日 10:51 1 秋田道川海岸 20km A × 6月30日 16:52 2 秋田道川海岸 40km A × 9月25日 11:55 3 秋田道川海岸 43.5km A △ 9月26日 12:50 4 秋田道川海岸 52.9km A △ 12月23日 12:03 5 秋田道川海岸 59km A ○ 1959年 3月18日 11:45 6 秋田道川海岸 48.5km A ○ 3月20日 11:50 7 秋田道川海岸 48.6km A ○ 1960年 9月17日 11:50 8 秋田道川海岸 46km A ○
K-6RS
編集- 打ち上げ実績
- 観測内容 - R:輻射線
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 成否 1958年 9月25日 14:50 1 秋田道川海岸 不明 R × 11月29日 12:05 2 秋田道川海岸 41km R × 1959年 3月17日 10:35 3 秋田道川海岸 54km R × 3月19日 10:15 4 秋田道川海岸 41.3km R ×
K-6CP
編集- 打ち上げ実績
- 観測内容 - A:大気構造 P:粒子線
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 成否 1958年 11月28日 12:05 1 秋田道川海岸 35.6km A,P △ 11月30日 13:00 2 秋田道川海岸 48.2km A,P ○
K-6Y
編集1962年に実機及び推進剤製造技術のノウハウや推進剤製造装置、検査器具や燃焼実験装置も含めた輸出契約がなされ、1963年にユーゴスラビア宇宙協会に5機輸出されたもの。同年夏、ユーゴスラビア西部ドブロブニク海岸において5機全てが打ち上げられた。その飛翔試験には東大の教授2名と日産の技術者1名が同席した。
K-6H
編集- 諸元
- 構成: 2段式
- ペイロード: 25 kg
- 飛翔距離: 80 km
- 重量: 330 kg
- 直径: 0.25 m
- 全長: 6.9 m
- 打上げ一覧
- 観測内容 - A:大気構造
K-7
編集直径420mmのロケットモータを用いた単段式観測ロケット。機体の部分損傷が発生したが、問題を修正した後にK-8の第1段として採用された。
- 諸元
- 構成: 1段式
- 飛翔距離: 49 km
- 重量: 1,195 kg
- 直径: 0.42 m
- 全長: 7.296 m
- 打上げ一覧
- 観測内容 - A:大気構造
K-8D
編集K-7の上段にK-245Hダミーモータを組み合わせた2段式ロケット。
- 諸元
- 構成: 1段式
- 重量: 1,471.4 kg
- 直径: 0.42 m
- 全長: 10.119 m
- 打上げ一覧
K-8
編集1958年に構想が立てられ、1960年から実用に入った。初めて高度200kmに到達し、後のK-8L以外全てのカッパロケットの基礎となった。第1段は直径420mmで全長6.42mであったが、後に段間部の仕様変更に伴い、6.26mと短縮されている。推薬の改良が施されており、比推力がK-6の180secから200secまで向上されている。第1段の加速度は9.3G、第2段の加速度は25Gと大きく、生物をペイロードにする際には考慮が必要である。しかし、当時のアメリカ製同型固体燃料観測ロケットと比較すると著しく低く、観測結果の効率の高さをもたらしていた。信頼性の高さと低価格から1965年まで利用され、シグマロケット計画に止めを刺した。他にインドネシアへ10機が輸出されている。
- 諸元
- 構成:2段式
- ペイロード:50 kg
- 飛翔距離:160 km
- 重量: 1500 kg
- 直径: 0.42 m
- 全長: 10.90 m(計測機器部の設計により異なる)
- 打上げ一覧
- 観測内容 - A:大気構造 I:電離層,空間プラズマ RN:電波現象 R:輻射線 M:磁場,電場 P:粒子線
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 成否 1960年 7月11日 13:24 1 秋田道川海岸 180km ‐ ‐ 7月17日 13:11 2 秋田道川海岸 186km I ● 9月22日 15:32 3 秋田道川海岸 197.5km I,R ○ 9月26日 20:25 4 秋田道川海岸 186km I × 1961年 3月27日 13:08 5 秋田道川海岸 169.2km I,R ○× 4月18日 21:27 6 秋田道川海岸 144.2km I,R ○× 7月21日 11:42 7 秋田道川海岸 159km A,I ○ 10月24日 12:59 8 秋田道川海岸 198km I ○ 10月30日 20:13 9 秋田道川海岸 174.5km I,R ●○ 1962年 5月24日 19:50 10 秋田道川海岸 0km I,R × 12月18日 14:03 11 内之浦 202.1km M,RN,P ○ 1965年 7月16日 19:50 12 内之浦 160km A,I,RN △ 1966年 4月20日 21:05 13 内之浦 160km M ○ 10月20日 11:20 14 内之浦 191km I,M ○ 1969年 1月9日 16:40 15 内之浦 ‐ ‐ ‐
K-8I
編集太陽極小期国際観測年(IQSY)のためにインドネシア国立航空宇宙研究所に輸出されたもの。10機がインドネシア国内へ持ち込まれ、そのうち3機がパームングプークの宇宙観測所から打ち上げられた。残りの7機については打ち上げ記録が残っていない。この輸出に伴い、軍事転用の可能性に関してマレーシア政府から厳重な抗議を受けた。これに対し通商産業省及びISASは誘導装置の搭載が不可能である点、全機がそれぞれの観測内容に沿った専用設計である点などから、直接的な軍事転用は不可能であり、問題はないとしている。[1][2]
- 打上げ一覧
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 ノート 1965年 8月7日 ‐ 1 パームングプーク ‐ ‐ 8月11日 ‐ 2 パームングプーク ‐ ‐ 8月17日 ‐ 3 パームングプーク ‐ ‐
K-8L
編集K-6Hの改良型 K-6S として開発されたものである。K-6Hから機体の大型化,推進剤の高比推力化,機体の軽量化等が行われた。これによって高度性能がK-8型と同等になった為に K-8L と改名された経緯を持つ。
- 諸元
- 構成: 3段式
- ペイロード: 30/25 kg
- 飛翔距離: 160/200 km
- 重量: 350 kg
- 直径: 0.25 m
- 全長: 7.40 m
- 打上げ一覧
- 観測内容 - A:大気構造 M:磁場,電場
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 成否 1962年 8月23日 16:15 1 内之浦 172.3km ‐ ‐ 1962年 12月12日 17:50 2 内之浦 103km A × 1964年 4月1日 12:10 3 内之浦 ‐ M × 7月26日 10:26 4 内之浦 124km A ‐ 7月26日 12:10 5 内之浦 115km A ○ 11月2日 18:03 7 内之浦 156km A ○ 11月10日 11:05 8 内之浦 145km M ○ 11月12日 12:05 6 内之浦 153km A △ 1965年 10月6日 13:00 9 内之浦 140km M ○ 1966年 8月11日 21:05 10 内之浦 130km ‐ ‐ 10月18日 18:17 11 内之浦 145km ‐ ‐ 12月10日 12:00 12 内之浦 147km I,M ○
K-9T
編集K-9の飛翔特性テスト用小型モデル。
- 打上げ一覧
K-9L
編集K-8にK-6の2段目を追加することで開発された日本初の3段式観測ロケットである。K-9Mの開発によって2機のみで打ち上げを終了した。観測成果は貧弱ではあるが、スピン安定技術の習得 , 2段目と3段目の結合切断法の確立 等、ラムダロケットやミューロケット及び以後の観測ロケットの発達において技術的に大きな成果を残した。K-9Lの"L"は Lower performance を意味する。
- 諸元
- 構成: 3段式
- ペイロード: 20 kg
- 飛翔距離: 350 km
- 重量: 1,550 kg
- 直径: 0.42 m
- 全長: 12.50 m
- 打上げ一覧
- 観測内容 - I:電離層,空間プラズマ
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 成否 1961年 4月1日 12:25 1 秋田道川海岸 310km ‐ ‐ 12月26日 12:05 2 秋田道川海岸 347.6km I △
K-9M
編集K-8を元に推進剤の高比推力化,機体材料の高抗張力化,構造設計のリファインなどを施すことで開発された。K-8Hとして開発されたが高度性能がK-9Lと同等であることからK-9Mと改名されている。標準型の観測ロケットとして長く利用され1988年までに81機打ち上げられた。43号機以降は第1段がK-10のものに変更されている。
- 諸元
- ペイロード: 100 kg
- 飛翔距離: 350 km
- 重量: 1,500 kg
- 直径: 0.42 m
- 全長: 11.10 m
- 打上げ一覧
- 観測内容 - A:大気構造 I:電離層,空間プラズマ RN:電波現象 R:輻射線 M:磁場,電場 P:粒子線
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 成否 1962年 11月25日 11:04 1 内之浦 55.1km I × 1963年 5月20日 11:09 2 内之浦 341km M,RN ○ 1964年 7月29日 19:05 5 内之浦 ‐ RN,P × 11月5日 12:01 4 内之浦 ‐ I,M × 1965年 1月22日 14:14 3 内之浦 350km 飛翔試験 ○ 2月6日 14:01 7 内之浦 325km I,M,R ○ 2月6日 19:02 6 内之浦 335km RN ○ 3月25日 20:21 8 内之浦 320km I,R ○ 3月27日 14:01 9 内之浦 335km I,R ○ 3月28日 16:01 10 内之浦 349km M,R ○● 7月26日 21:01 12 内之浦 350km R ○ 7月27日 12:10 13 内之浦 317km I,M,RN ○ 10月4日 12:00 14 内之浦 300km I ○ 12月13日 15:20 16 内之浦 318km I,R ○ 12月18日 15:00 17 内之浦 316km M,RN,P ○ 1965年 3月20日 21:15 15 内之浦 300km I,R,RN ○ 7月17日 11:10 18 内之浦 326km I,M,P ○ 8月3日 11:00 11 内之浦 328km TV ○ 8月10日 21:37 19 内之浦 330km R,RN ○ 10月20日 17:25 20 内之浦 353km I,R ○ 12月5日 11:00 21 内之浦 326km I,R ○
この節の加筆が望まれています。 |
K-10S
編集K-8を基に第2段を第1段と同じ420mm径まで大型化し、300mm径で球形のチタン製第3段を付加することで開発された。"S" は "Super performance" と "Spherical motor" を意味する。1961年頃に科学衛星計画の為の技術試験機として計画され、K-8またはK-9Mの第2段に小型球形ロケットを納容する形で高度1,000km級を狙う小型ロケットとして考えられていたが、球形ロケット自体が新しい技術であったために実現したのは1965年8月である。ノーズコーンは前方に分離された後ロケットエンジンによって横によけるという平行開頭方式をとっている。下段ロケットモータは第1段第2段共にL-3ロケットの上段を流用したものとなった。チャンバ材には超高張力鋼HT-140、推薬にはポリウレタン系コンポジット推薬UP-10を採用している。
- 諸元
- 構成: 3段式
- ペイロード: 18 kg
- 飛翔距離: 740 km
- 重量: 1,700 kg
- 直径: 0.42 m
- 全長: 9.5 m
- 打上げ一覧
- 観測内容 - I:電離層,空間プラズマ
K-10
編集大重量ペイロードを活用して姿勢制御装置を搭載、精密な天文観測を行うなど、観測ロケットとして用いられたものである。1号機ではM-4S開発計画の一環として、姿勢制御装置の機能試験も行われた。
- 諸元
- 構成: 2段式
- ペイロード: 170 kg
- 飛翔距離: 250 km
- 重量: 1,750 kg
- 直径: 0.42 m
- 全長: 9.8 m
- 打上げ一覧
- 観測内容 - A:大気構造 I:電離層,空間プラズマ R:輻射線
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 成否 1965年 11月8日 14:05 1 内之浦 228km I ○ 1966年 12月10日 20:30 2 内之浦 253km A,R ○ 1967年 3月7日 20:00 3 内之浦 248km R ○ 1969年 1月14日 19:00 4 内之浦 229km R ○ 9月6日 20:35 5 内之浦 247km A,I ○ 1971年 8月20日 21:10 7 内之浦 274km A ○ 9月1日 11:10 6 内之浦 228km R ○ 1972年 9月12日 20:10 8 内之浦 259km R ○ 1973年 2月19日 09:22 9 内之浦 236km A,I,R ○ 9月22日 18:20 10 内之浦 242km I,R ○ 1975年 9月24日 14:00 11 内之浦 196km R ○ 1976年 1月18日 14:20 12 内之浦 350km I ○ 1977年 9月14日 21:22 13 内之浦 204km R ○ 1980年 8月27日 20:40 14 内之浦 219km R ○
K-10C
編集K-10本来の技術試験機として用いられたものである。ミューロケット開発史上重要な役割を果たした。2号機では第2段がランチャ上で点火し、第2段のみが飛翔するという事故が起きたが、2号機以外は正常に飛翔している。
- 打上げ一覧
- 観測内容 - A:大気構造 R:輻射線
打ち上げ日時(JST) 通番 射点 到達高度 観測内容 技術試験 成否 1969年 1月12日 14:10 1 内之浦 724km A,R M-4S第2段フレア性能試験 ○ 9月26日 ‐ 2 内之浦 ‐ ‐ 2次噴射によるTVC装置の試験 × 1970年 9月13日 ‐ 3 内之浦 300km ‐ 2次噴射によるTVC装置の試験 ○ 1973年 9月15日 ‐ 4 内之浦 ‐ ‐ M-3C1,2段の開傘型接手の機能試験 ○ 1975年 8月23日 ‐ 5 内之浦 ‐ ‐ 固体モータロール制御装置(SMRC)の試験 ○
PT-420
編集K-420 1/3 ロケットモータを用いた2次液噴射による推力偏向(LITVC)の試験機。M-3Cの開発で用いられた。
- 諸元
- 重量: 600 kg
- 全長: 3.9 m
- 直径: 0.42 m
- 打上げ一覧
平和目的の国際協力による輸出後の軍事転用・日本政府による武器輸出三原則表明
編集1960年代にカッパロケットK-6Y型5基と関連機材(打ち上げ設備と固体燃料製造設備とロケット追尾用レーダー)がユーゴスラビアに輸出され[3]、それらの技術はユーゴスラビアが独自開発していた地対空ミサイルR-25 ヴルカンに軍事転用された。
当時のユーゴスラビアはソ連と距離を置く独自の社会主義路線を歩んでおり、ソ連からの兵器の調達が困難になり兵器の国産化が急務となったため、ユーゴスラビア軍のミサイル開発責任者が1958年に欧州を訪問中の日本のロケット開発の中心人物であった糸川英夫東大教授と接触、1959年11月に東大生産技術研究所および富士精密工業とユーゴスラビアの間で輸出契約とユーゴスラビアからの技術者の受け入れの合意がなされた。1960年には平和目的の国際協力であることと軍事転用をしないことを契約条件に、ロケット本体と打ち上げ設備と固体燃料製造設備が1億7000万円で輸出されることが明らかになった。後にロケット追尾用レーダーも輸出された。
しかしユーゴスラビア側の本当の狙いは、ロケット本体よりも、ロケットに使われていた当時最新の固体燃料である「コンポジット推進剤」の製造方法と製造設備であった(先進各国では軍事機密であった)。日本から入手した固体燃料製造設備は、現ボスニア・ヘルツェゴビナ中部の都市ビテツにある軍需火薬工場、通称「SPS」に納入された。
ユーゴスラビアによる他国への輸出以後
編集その後、SPSはミサイルやロケット弾の推進剤の一大製造拠点となり、発展途上国に広く輸出された。この固体燃料製造設備は現存している。
1965年にはインドネシアにもカッパロケットK-8型10基と関連機材が伊藤忠商事によって輸出され、軍事転用を懸念したマレーシアが日本に抗議した。
これらの結果、1967年に佐藤栄作首相により、共産圏や紛争当事国への武器輸出を禁止する、「武器輸出三原則」が表明された[4]。
脚注・参照
編集- ^ 第49回国会 科学技術振興対策特別委員会 第3号. 衆議院
- ^ 第51回国会 科学技術振興対策特別委員会宇宙開発に関する小委員会 第1号. 衆議院
- ^ 戸田康明「ユーゴスラビアにロケット推進薬製造技術のうりこみ(1963年)」『ISASニュース』第027号、宇宙科学研究所、1983年6月。
- ^ 日経クロステック(xTECH) (2016年5月25日). “衛星と安全保障の関係[3]日本の技術開発が歩んだ道のり”. 日経クロステック(xTECH). 2023年9月1日閲覧。
参考文献
編集- JAXAサイト内「SPACE INFORMATION CENTER」の旧ページ群:日本の宇宙開発の歴史 1950年代/1960年代/1970年代/1980年代/1990年代/21世紀ほか
- 旧NASDAサイト「ロケット打ち上げ実績」のキャッシュ
- 社団法人 日本航空宇宙工業会サイト「日本の航空宇宙工業 50年の歩み」
- 明星電気 株式会社サイト「MEISEIミュージアム/宇宙開発と明星電気の歴史」
- Kappa-Rocket(英語)
- 東京大学宇宙航空研究所報告 観測ロケット特集号:続5年の歩み
- 生産研究 観測ロケット特集号 (東京大学生産技術研究所)
- 生産研究 記念号掲載ページ (東京大学生産技術研究所)