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────みなさん、こんにちは。SNEAK PEEKS at SZ MEMBERSHIPでは、『WIRED』のSZメンバーシップ向けに公開した記事を、ゲストを交えてご紹介していきます。今週のテーマは「INTERNET」。ゲストは、Technel代表で東京大学情報学環客員研究員の七沢智樹さんです。七沢さん、松島さん、よろしくお願いします。

松島倫明(以下、松島) 七沢さんには、SZメンバーシップ向けの連載「テクノロジーをデザインする人のための技術哲学入門」を執筆いただいています。のちほど本連載について伺っていきたいと思いますが、まずは今週のセレクト記事についてお話させてください。「なぜインターネットはつまらなくなってしまったのか」というタイトルの記事です。他者の投稿を楽しみ、コメントを返して盛り上がるといった、ソーシャルメディアが台頭してきたころへのノスタルジーを感じる文章で、とにかくいま、その劣化がひどいという内容になっています。

以前、『WIRED』US版の編集長を務めていたクリス・アンダーソンが言っていた言葉に「もしタイムラインがつまらないと感じたら、それはあなたがつまらない人だからだ」というのがあって、ぼくはことあるごとにそれを思い出すんです。要するに、誰をフォローするかは自分たちの自由だから、タイムラインのおもしろさは自分自身がつくるものなんだ、ということです。でも、いまはもう、そういうレベルじゃなく変わってしまったな、と感じることもあります。七沢さんはSNSとどのように向き合っていますか?

今週の記事:なぜインターネットはつまらなくなってしまったのか

七沢智樹(以下、七沢) 技術哲学を研究していることから、テクノロジーに対する懐疑的な視点もあり、なるべく距離をとりながら「たまに遊びに行く」という感覚で使うようにしています。でも、いろいろと試していますし、Discord(ディスコード)上で技術サロンを展開していますよ。

いま、テクノ封建制と言われるように、プラットフォーマーの用地で耕したものが自分たちの成果にならず、吸い上げられてしまうことが問題視されていますよね。だからこそ、さまざまな“領地”を自分なりに探索していくことは重要だな、と。だから、ウェブブラウザーの「Brave」ソーシャルメディアの「Bluesky」も使用しています。まぁ、Blueskyという新しい“領地”に行って、誰もいなかったということもありましたが。いずれにしても、オルタナティブなものを探し続けていくことはポイントだと思うんですよね。

松島 七沢さんのおっしゃるような、“新しい領地に誰もいない問題”もありますよね。七沢さんはテクノロジーを俯瞰的に捉えようとされていて、技術哲学の連載もそこがテーマになっていると思います。

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七沢 連載のテーマに掲げている「技術哲学」は、「テクノロジーと人間の関係」や「テクノロジーそのものや、テクノロジーが引き起こす問題」について倫理的な観点を踏まえて考察する哲学の一分野です。哲学者マルティン・ハイデガーの『技術への問い』を古典とするような分野ですね。AIやメディアなどを扱う哲学はありますが、「テクノロジー」という総体を扱う哲学は技術哲学以外にありません。近年の技術哲学を概観できるような日本語の書籍が長らくなかったので、この最新の潮流にまだ馴染みがない人も多いのではないかと思います。

もともとぼくは、トランステックと呼ばれた意識変容を促す技術の開発に携わっていました。でも、テクノロジーについて調べれば調べるほど、意識だけでなく人間社会をも変容させる力があると感じ、この分野に興味をもったんです。この考え方は、テクノロジーが人間のあり方を決める「技術決定論」に近いのですが、20世紀の技術哲学において、技術決定論は人間がテクノロジーのあり方を決めるという「道具説」と対立してきました。それが21世紀に入り、こうした二項対立的状況を超えるために、テクノロジーはただの道具ではなく、人間や社会のありようを形成する(shape)ものだという「ポスト現象学」などの新しい潮流が生まれていったんです。そしていま、こうした西洋的なテクノロジー解釈に異を唱える香港出身の哲学者ユク・ホイが、「テクノダイバーシティ」や「宇宙技芸論」を提唱して注目されています。

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松島 技術に対し、人間の自立性がどのくらいあるかがメインテーマということでしょうか。

七沢 そうですね。とはいえ、基本的に技術決定論は否定されます。なぜなら、技術決定論に立つと「人間には何もできない」となってしまうので。技術決定論を否定するために、科学技術社会論に立つ人々は、例えば自転車を例に挙げてこう説明しました。自転車はそもそも、前輪と後輪の直径が大きく異なる設計でしたが、人間が介入してリデザインしたことで、同じ直径に変わっていったと。必ずしも与えられたデザインが固定的というわけではないということで、テクノロジーに対する技術決定論的見方は間違っていると主張したんです。

そして、こうした社会構成主義の立場を踏まえ、今世紀に入ってポスト現象学などの新しい流れが出てくるわけですが、ポスト現象学の主な論者であるオランダのピーター=ポール・フェルベークは、「人間が技術に同行する」といった考え方をします。しかし、人間が技術に寄り添ってしまうなら、現在の技術哲学は徹底した技術批判ができないことになります。そのため近年、ユク・ホイらハイデガー技術論から考える論者たちは、それではテクノロジーが引き起こす負の側面に気づけないぞと批判をしだしたのです。

松島 人間とテクノロジーが適切な距離を保つために、技術哲学では何がポイントになっているのでしょうか。また、そのなかで本連載の役割をどのように捉えていますか?

七沢 技術哲学は、決して「そもそもテクノロジーが人間をダメにしている」という考え方に立っているのではありません。ぼくが言いたいのは、まずはテクノロジーに対する無批判な姿勢を改めようということなんです。

道具やテクノロジーは、その使用中に透明になると言われています。なので、知らない間に問題を引き起こすんですね。けれども、哲学から考えると、こうした気づきにくい問題に気づけるようになります。連載の第6回では、國分功一郎さんの『原子力時代における哲学』の内容も一部引用していますが、当時、原子力の平和利用の危険性を批判していたのはハイデガーぐらいでした。こうしてテクノロジーを正しく批判してきた歴史はあるので、「こんなことが起きうる」ということをまずは教養として学んでほしいなと思います。そうすることでエンジニアやデザイナーが感じる「うしろめたさ」のようなものも解消していけるのではないかと思っています。「どうすれば売れるか」という思考になってしまうことも多いとは思いますが、彼ら/彼女らが「これまでこうやってきたけれど、実はこういう問題があるのではないか」という気持ちに向き合えるように、そうしたマインドセットに接続するようなことをこの連載で打ち出していきたいな、と。

────連載「テクノロジーをデザインする人のための技術哲学入門」の第7回以降の流れも楽しみです。このほかにも、3月WEEK#2は「オンラインでは誰もが「girl」になる」や「出会い系アプリのモデレーターが直面するメンタルの崩壊、ユーザー(と自分自身)を守れるか」、「ツイッターの信頼・安全について「不可能だが努力すべき」:沈黙を破った元責任者インタビュー」という記事も公開していますので、ぜひチェックしてみてください。

[フルバージョンは音声でどうぞ!WIRED RECOMMENDSコーナーもお楽しみに!]

※ 本記事は音声の書き起こしではなく、読みやすさを考慮して編集し、長さも調整しています。

(Edit by Erina Anscomb)