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● まずは基本的な確認事項から
● クルマの魅力を最大限まで高めたい
● 無意味かもしれないが、かなり楽しい

電気自動車(EV)にはさまざまな利点がある。静かでスムーズ。環境に優しい。しかも、運転のストレスが軽減されることも科学的に証明されている。ただし、3つのペダルやシフトレバーを備えた伝統的なクルマと比べて魅力に欠けるのは否めない。

マニュアルの運転には複雑な動きが求められる。走行中は常に集中しなければならないが、逆に言えば、そのおかげで運転というシンプルな行為に楽しみが生まれる。もしEVにもそんな魅力が加われば、もはや言うことはないだろう。

それこそが、トヨタ自動車の提案する「マニュアルBEV」のコンセプトだ。マニュアルトランスミッション(MT)が実装されていないにもかかわらず、その楽しみがちゃんと備わったEVを思い浮かべてほしい。それは次世代のBEV(バッテリーEV)にさらなる楽しみを加えるための実験台とも呼べるだろう。トヨタのテストコースで行なった試乗の経験から、これこそが未来のスポーツタイプEVに求められるものだと確信した。

まずは基本的な確認事項から

まずは、伝統的なMTについておさらいしよう。運転席にはギアを切り替えるためのシフトレバーがあり、そして足元のブレーキの横には第三のペダルであるクラッチペダルが付いている。クラッチペダルを踏むとトランスミッションがエンジンから切り離されるので、その間にシフトレバーを操作して適切なギアに切り替えるのだ。

マニュアル車の運転に求められるのはステアリング操作やブレーキングだけではない。スムーズかつ効率的な駆動伝達のためには、適切なギア比を選択しなければならない。マニュアル免許を取得した人ならご存じのように、慣れるまではなかなか難しい操作だ。足と手を連動させるにはそれなりの練習が必要だし、クラッチ操作を誤ってエンストしないように感覚を磨かなければならない。

基本的な技術は1時間もあれば習得できるかもしれないが、エンジンの回転数を合わせたり、ヒール&トゥやダブルクラッチの操作をしたりといった高度なテクニックを身につけるには、数カ月から数年の練習が必要になる。

だがEVの場合、そのような練習は不要だ。シンプルなオートマチックトランスミッション(AT)を搭載した車種もあるが(ポルシェのEV「タイカン」のリアアクスルには2速トランスミッションが装備されている)、たいていのEVにはトランスミッションがない。電気モーターの回転数が理想的な範囲に収まるよう、単純なリダクションギア(減速機)が装備されているだけだ。

「レクサスUX300e」の通常モデルには、マニュアル車のような3つ目のペダルやシフトレバーは装備されていない。PHOTOGRAPH: TOYOTA

1速だけの固定ギア比なら、シフトチェンジについて考える必要は生じない。では、トヨタのマニュアルBEVのコンセプトカーには、いったいどんな機能が備わっているのだろうか?

クルマの魅力を最大限まで高めたい

マニュアルBEVにはシンプルなシフトレバーとシンプルなペダルがあり、あらゆる意味で優れたソフトウェアにそれぞれが接続されている。これは、クルマの魅力を最大限まで高めたいという強い情熱をもったひとりの人物によって生み出されたシステムだ。

その名はイサミ・ヨウイチロウ。彼はこのシステムの特許権者でもある。愛車はGRヤリス(もちろんマニュアル車)で、EVが特に好きというわけではない。「正直なところBEVは好きではありません。でも、このシステムがあればBEVも悪くないと思えます」とイサミは言う。

ハードウェアとして見れば、彼の導き出した答えは極めて基本的なものだ。一見、トヨタのGRヤリスやGRカローラのシフトレバーのようなジョイスティックが、6つのコンタクトポイントをもつバネ仕掛けのプラスチック製メカニズムに接続されている。古典的なHパターンシフトにレイアウトされたシフトレバーを動かすことでコンタクトポイントが切り替わり、選択された「ギア」がシグナルとなってクルマに伝送される。どのスイッチにも接続されていない場合、消去法でニュートラルの状態になる。

「ギア」レバー
icon-picturePHOTOGRAPH: TOYOTA
「クラッチ」ペダルのメカニズム
icon-picturePHOTOGRAPH: TOYOTA

複数のリンケージパーツと定数の異なる2種類のバネを用いてクラッチの感触を再現したクラッチペダルも装備されている。クラッチの状態は、ビデオゲームに出てくるレーシングカーのステアリングで目にするようなポテンショメーター[編註:回転角や移動量を電圧に変換する機器、あるいは半固定型を含む可変抵抗器の総称]で表示される。

シフトレバーにもペダルにもフィードバック機構は備わっておらず、ハイエンドのシミュレーション用レーシングカーのようなペダルセットアップもなければ、ハイエンドのロードセル[編註:荷重やトルクを検知し、その大きさを電気信号に変換するセンサー]もない。拍子抜けするほど基本的な構造だ。実際に体験しなければ、この感触はわからないだろう。

ダッシュボードの小型デジタルディスプレイには、現時点でのギアが表示され、その上に10,000までの目盛の付いた大型で目立つタコメーターが配置されている。ただし、デモ用のレクサスUX300eは7,500回転が限界だ。バーチャルピストンを調整する必要があるかもしれない。

マニュアルBEVのコンセプトカーは、大半のEVと同じようにスタートボタンを押すだけで起動する。起動しただけでは何も起こらないという点も、ほかのEVと同様だ。「D」を選択すれば、静かに、そして滑らかに走行を始める。だがここで、中央のトランスミッショントンネルの先、フェイクのシフトレバーの背後に目を向けてみてほしい。そこには、エンジンのスタートボタンがある。

無意味かもしれないが、かなり楽しい

スタートボタンを押すと奇妙なことが起こる。なんと、本当にエンジンがかかるのだ。といっても、それはあくまでも疑似的なもので、排気音は車内のサウンドシステムから響いているにすぎない。それでも本物のエンジンと遜色ない音だ。アクセルペダルを踏み込むと同時に、疑似エンジンの回転数がリミッターに達するまで咆哮を上げながら上昇する。

実際にはサウンドが変化するだけで、クルマ自体に何かが起きているわけではない。しかし、奇妙なことに、そのサウンドの変化がドライバーに影響を及ぼすのだ。わたし自身、口元がゆるんだ。理屈ではなく、無性に楽しくなってきたのだ。

クラッチペダルを踏み込んでギアを1速に入れ、そしてクラッチを戻す。スロットルをわずかに踏むとクルマが走り出す。あまりにスムーズな反応なので、システムがどうなっているかを判断することもできない。クルマを停めて、もう一度やり直してみる。クラッチペダルを踏み、ギアを1速に入れてクラッチを戻し、その反応を確かめる。クルマが振動し、そしてエンストを起こす。

PHOTOGRAPH: TOYOTA

そう、EVがエンストしたのだ。といっても、クルマ自体に物理的な不具合が生じたわけではない。車体の揺れも、エンジン音が消えたのも、シフトインジケーターの赤いライトが点滅したのも、すべてソフトウェアによるものだ。すべてはシミュレーションであり、フェイクにすぎないのに、わたしはまた笑みを浮かべていた。

再びクラッチをつなぐとバーチャルエンジンが点火して、クルマがトヨタのテストコースを走りはじめる。ギアチェンジをするたび、奇妙な感覚に思わず笑顔にならざるをえない。クラッチペダルに乗せた左足とシフトレバーを握る左手(コンセプトカーは右ハンドルの仕様だ)による操作は、いずれも必要ないと頭ではわかっている。それでも、その動作が楽しくてたまらないのだ。

レブリミット[編註:エンジン回転数の上限値]まで達すると、クルマの加速が突如として収まる。ぎこちなくシフトダウンすれば、クラッチがつながると同時にクルマがガタガタと挙動する。ギアを変えると、再びすべてがスムーズに動き出す。クルマはわたしが選んだギアに応じて回生ブレーキとアクセルの感度を見極め、ニュートラル状態での惰性走行までシミュレーションしてくれる。

あらゆるニュアンスが、驚くほど緻密に再現されるのだ。確かに、シフトレバーから伝わってくる微細なフィードバック、シンクロメッシュ[編註:シフトチェンジを円滑に行ない、運転操作を容易にするための機構]に負荷をかけたときの抵抗、固いシフトブッシュ[編註:シフトチェンジのダイレクト感を高めるパーツ]がもたらす振動といった細かい要素は欠けている。だが、そのような点も遠からず解決するだろうとイサミは語る。

開発にコストのかかるシステムではあるが、投資する価値は十分にある。ばかばかしいと思う人もいるかもしれないが、EVの楽しさを高めるには驚くほど効果的なのだ。さらに、実際にクラッチが焼けるわけでもないので、運転の練習にも役立てられる。どれほど機械音痴な人でも、破損してしまう心配はないからだ。

このマニュアルBEVの最も優れた点は、ボタンひとつでごく普通のEVに戻ることだ。静かで、スムーズで、安定感のある運転によって、なんのトラブルもなく目的地に到着したいなら、EVが最適な乗り物だろう。このクルマもまた、その理想を体現してくれている。

ARS TECHNICA/Translation by Eiji Iijima, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)