Speculative Zones
3つの読みどころ

1)1839年に初期の写真撮影法が発表されると、画家たちは「絵画は死んだ」と宣言した。
2)だが19世紀に絵画は少なくとも死ななかったし、軽い風邪をひくことさえなかった。
3)実際の歴史では、写真表現と絵画芸術は相互に影響を与え合ってきた。AIにおいても同様だろう。

ダゲレオタイプという初期の写真撮影法が世に発表されてからわずか数カ月後の1839年後半、そんな小さな画像がもたらすかもしれない未来を警告する愉快な風刺画がパリで発表された。

テオドール・モリセがそこに描いたのは、新たな撮影法が「ダゲレオタイプ狂」という集団ヒステリーを引き起こし、熱狂した大衆が地球上のあらゆるところからやってきて小さな撮影スタジオにあふれかえるという光景だ。群衆のなかには、自分の写真を撮ってもらおうとする者もいれば、自ら写真を撮るために写真機そのものを欲しがる者さえいて(国外の港へ向かう蒸気船に、まるで禁制品のように写真機を積み込む人々が見える)、さらにはその新奇な機械とそれを取り巻く狂乱をただ見つめるだけの人たちも集まっている。

この大騒ぎは集団幻覚を引き起こすほどだ。スタジオの周りの風景にある鉄道車両、時計台、熱気球のかごなど、少しでも箱型をしているものはほぼすべて写真機へと姿を変えている。群衆が列を成してスタジオへ向かう途中にはいくつか絞首台があり、ダゲレオタイプ出現の影響で芸術家たちが首を吊っている。ほとんど気づかれることもなく。

アンソニー・W・リー

マサチューセッツ州にあるマウント・ホリヨーク大学の美術史教授。

なんという騒ぎ、パニックだろう。だがそれも当然だ。写真が登場するまで、芸術的表現はほとんど画家の専売特許だったのだから。絵画こそ視覚芸術の主な作成手段だった(もちろん版画家やイラストレーターも自分たちの作品の価値について独自の考えをもっていたが、たいていの画家はそれら芸術家を自分たちより年下のいとこのように考えていた)。

その仕事を忌々しい写真家たちが奪おうとしている。そんな写真家はほとんどがまったくの素人か、あるいはさらに始末が悪いことに、開き直った芸術家崩れなのだ。1840年ごろに初めてダゲレオタイプの写真を見たとき、フランスの画家ポール・ドラローシュは「今日、絵画は死んだのだ!」と声を上げたと言われている(彼自身の弟子たちもすぐに写真家へと鞍替えしてしまった)。

「終わったんだ。AIが勝った」

初期の写真と絵画との関係をめぐる歴史は、現代のAI製アートが投げかける難題と完全に似通っているというわけではない。DALL-E 2、Midjourney、Stable Diffusionなどの画像生成AIは、どんなカメラも遠く及ばない方法で既存の絵画をもとに新たなものをつくりだせるのだから。

しかし、ドラローシュの嘆きとジェイソン・アレンの雄叫びを比べてみるとどうだろう。2021年9月、コロラド州プエブロ・ウェストに住むアレンは、毎年開催される同州フェアのアートコンテストにAIが生成した作品を出品し優勝を手にした。賞金は300ドル(約4万円)と高額ではなかったが、それが彼の勝ち誇った態度に水を差すことはなかった。

「アートは死んだんだよ」とのちにアレンは言った。「終わったんだ。AIが勝った。人間が負けたんだ」。新しいツールがその影響力について大げさな主張を掻き立てることは珍しくないが、その後の展開について歴史が教えてくれることはあるだろうかと考える機会にもなる。

19世紀、絵画は少なくとも死ななかった。軽い風邪をひくことさえなかった。画家が職を失うことはなく、ドラローシュ自身、彼の作品のうちでもとりわけ価値のある野心的な絵を生み出し続けた。彼は写真に仕事を奪われると本気で心配していたわけではないのではないか、とわたしは思う。彼のような人たちが大げさに不安の声を上げたのは、それが格好のゴシップであり、趣を解さず下品でさえある批評家について嘆く機会でもあり、実際にビジネス面でプラスになったからかもしれない。

それでも、モリセが描いた大衆の大騒ぎはまったくの間違いではなかった。写真機の前に座りたがる人や自分の写真機を欲しがる人は無数にいただけでなく、そのバックグラウンドはさまざまだった。画家を支援するパトロンたちとは全体として大きく異なる集団であり、それまで絵画を買うことも描くこともほぼ叶わなかった中産階級や労働者階級が中心だった。

改革による選挙権拡大、女性の権利拡大を求める運動の始まり、奴隷制の廃止(初めは英国、のちに米国で)などがあったその時代に、写真機はある種の民主的なイメージをまとった。偉大な奴隷制廃止運動家で元奴隷のフレデリック・ダグラスは写真機の可能性に魅せられ、死ぬまでに自分の肖像写真を160枚も撮影した。その数は19世紀を生きたほかのどの米国人よりも多い。彼は肖像写真を通して自分の価値と尊厳を主張できると信じていたのだ。写真機はすべての人のための道具になりうるものであり(正確にはその通りではないが、ダグラスのように肖像写真を残せる人には確かにそうだった)、かつて絵画がそのように言われることはまずなかった。

写真が絵画のモダニズムに影響を与えた

当時、そのふたつの媒体はそれぞれの市場をもつことが多かった──美術が教育と展示において排他的であることを画家は再認識し、写真家はその壁をなかなか乗り越えられなかった。極めて高い技術と芸術的志向をもつ写真家たちでさえも、芸術機関から自分の作品に与えられる地位の低さと常に闘っていた。

1860年代には早くも実技としての絵画制作が大学の標準的な授業科目となったのに対し(少なくともニューイングランドでは)、写真はそれから75年経ってようやく高等教育の現場に弱い足場を築いた。美術館が定期的に写真を購入し展示するようになったのは1930年代に入ってからだ。

最初期の写真機は頑丈な三脚が必要な大型の装置で、まともなネガをつくるためには薬品を使いこなせなければならなかった。シャッタースピードは非常に遅く、光量もかなり必要で、ネガは現像してすぐに定着させなければならないのですぐ近くに暗室が必要な場合がほとんどだった。そのため被写体には、家にあるような小物や雑貨、建物、風景、街並みなど、ピントや露出の乱れない、その場から動かないものが最も向いた。

当時の写真家が戦場に入ったときに戦闘中の激しいシーンでなくその後に見つかる死体を求めて撮ったのは、ぞっとする話とはいえ、予想されたことだったのかもしれない。皮肉にも、そうして撮られた写真の影響で画家たちはいっそう静止した対象物を画題として選ぶようになり、やがては絵画作成における野心のヒエラルキーが逆転して、複雑な物語絵画よりも日常生活の場面や物を描き出す作品が追求されはじめた。

また写真機は、「何を見るか」に加えて「どのように見るか」というニュアンスにも新たな意識をもたらした。特にメーカーが小型のハンディカメラを発売すると、画家たちはそれまでキャンバスに描く価値がないと思われていた視点を見出した──何気なく見たときの視線、ほんの一瞬投げかけた視線、居心地を悪くさせるほどの凝視、あるいはもっと下品な方向では、パパラッチのぎらついた目線、覗き見、ひそかに監視する目線などである。

さらに写真においては、ピンぼけのリスク、意図せぬ写り込み、奇跡のショットなどが常に起こりうる。そして、モダニズムの表現様式がこれらすべてを探求したことは美術史において正統的な見方のひとつだ。実際、19世紀後半の名画を見れば──陽光に包まれて輪郭線のぼやけたモネの干し草の山、ルノワールの緑豊かなカフェでの幸せそうな一場面、奇妙な構図でそれぞれあくびやストレッチをしたり調子が悪そうだったりするドガのバレリーナたちなど──写真の影響を無視するのは難しい。

また、影響は逆方向にも及んだ。自分を芸術家だと認識する写真家たち(彼/彼女らが「撮影屋」と呼んだ商売目的のせわしない写真家たちとは別だ)にとって、暗室は画家のアトリエのようなもので、ネガに手を入れる作業はそんなアトリエでの絵画制作のようだった。英国文学作品のシーンを写真で再現したヴィクトリア時代の偉大な写真家ジュリア・マーガレット・キャメロンは、大きなガラス乾板のネガをよくめちゃくちゃな状態にしていた。乳剤のあちこちに指紋をつけ、表面を汚し、露出を過度に上げ下げし、ピンぼけや偶発的な要素を不格好に強調したりした。商業写真家にとっては避けるべき欠陥だ。しかし、自らの力で財を成し世間の意見をほとんど気にしなかったキャメロンにとって、天才画家たちの独特な表現法と手作業の結果に極めて似ているそれらは活かすべき側面だった。

実際、世論や稼ぎを気にする写真家の間でも、ネガをトリミングして編集したり、輪郭を濃くしたり人物を強調したり、不格好な部分や余計な邪魔な要素を削ったりして、基本的に顧客にとって有用な写真をつくることは日常的だった。そして、こうした作業はすべて画家が培ってきた美的感覚に依存していた。肖像写真も風景写真も、絵画に似ていれば妥当なものに見えたのだ。

スコットランド初の写真チームはこの美意識を写真作成のプロセスに取り入れた。機械装置の組み立てを学んだ経験をもつ技術者のロバート・アダムソンが撮影し、パートナーでプロの画家であるデイヴィッド・オクタヴィウス・ヒルがそのネガを受け取って装飾を施すというやり方だった。やがて業界誌は肖像写真の撮り方について「レンブラント・スタイル」という言葉を使い始め、撮影者が照明や構図を工夫することでその定義に当てはまる写真を撮れるとした。

写真雑誌は写真家たちを、宇宙から注ぐ光源を「絵画的な」道具として使う「太陽の画家」と呼んだ。こうした表現からは、写真家たちが自分たちの作品物についてどんなイメージを植え付けたかったのかがうかがえる。

白黒写真と絵画というコラボレーション

それでも当時、写真撮影は依然として人間の手をほぼ介さない技術だと考えられていた。太陽光、カメラ、レンズ、シャッター、そして銀板がすべての仕事をしていて、撮影者はそのプロセスを実行しているだけだと思えたのだ。

確かに、化学薬品、ガラス、光学の知識(そして有毒なフュームへの許容)は必要だっただろうが、それらは芸術性という点においては重要でないと考えられた。画家が油や筆を選んで感情や思考を視覚表現に変換するという王道の、そしておなじみの方法と比べれば、周縁的なものに過ぎなかったのだ。AIの絵は想像力や独創性に欠けると多くのアーティストが非難する現代の状況は、当時とまったく同じというわけではない。しかし、その非難は確かに正しい──AIという新しいツールが描くのは、魂のない模造品なのだから。

1839年の時点では、美術シーンにおいて最も起こりそうになかったのがコラボレーションの機会だったかもしれない。初期のころ、白黒の写真はその真新しさと現代性を象徴するものとして捉えられたが、色彩への需要が生まれると熱狂はさらにたちまち加速した。その需要に応じて写真家は画家を雇い、画家は油絵の具だけでなく水彩絵の具やクレヨン、チョークさえも使って色とりどりのディテールをせっせと写真に描き加えた。

欧州で始まり、日本で特に人気を集めてさらに洗練されたこの手法は、米国に入るとより派手なものとなって写真家たちは堂々と顧客の虚栄心に訴えた。もう少し頬に血色が欲しい? もちろん可能です! 瞳も青くしておきましょうか? いろんな色を試してみましょう! スタジオに持ち込めない(というより買えない)物、例えばダイヤの指輪と一緒に撮って欲しい? お安い御用です!

そうして、さらに体系化されたコラボレーションも登場しはじめた。例えば中国の条約港では、写真部門と絵画部門を別々に構えて両方のサービスを顧客に提供する会社を立ち上げる起業家もいた。

ドラローシュとモリス、そして現代ならジェイソン・アレンの言葉に反論することになるが、絵画や画家の死を告げる鐘を鳴らすのにはいつだって早すぎるのだ。絵画という美術が消えることはない。今日に至るまで、ハイエンドなギャラリーシーンの大部分は絵画を奨励し絵画に依存しているのだから。そして多くの人々にとって、キャンバスに筆を置くことはその感触を通して作品との一体感と楽しさを感じられる表現法であり、これに取って代われるものはない。

それでも、19世紀における絵画と写真との掛け合いが先例になるのなら、今後アーティストとAIをめぐって、相互影響、ギブアンドテイク、そしておそらくコラボレーションの時代がやってくるだろう。ドガはかつて、新種の娯楽に関わりたがらない友人の画家にこう言った。「きみには自然の生活が必要なんだな。わたしに必要なのは、人工だ」

WIRED/Translation by Risa Nagao, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)