國分功一郎|KOICHIRO KOKUBUN

東京大学大学院総合文化研究科教授。専攻は哲学。1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。2017年、『中動態の世界』で小林秀雄賞を受賞。『暇と退屈の倫理学 増補新版』『ドゥルーズの哲学原理』『近代政治哲学』『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』『〈責任〉の生成 ― 中動態と当事者研究』(熊谷晋一郎との共著)など著書多数。

ドミニク 國分さんの書かれた『暇と退屈の倫理学』は2011年の刊行からもう12年たっているのですが、今回お会いするということでもう一回読み直したんです。いま読むとさらにめちゃくちゃ面白くて(笑)。文庫化もされてやはり年々、同時代性が増していくという不思議な感覚があります。

そのなかで今回の「リトリート」というキーワードで言えば、『暇と退屈の倫理学』では暇と退屈へのある種の対処の仕方が書かれています。人間は暇と退屈に耐えられない存在なのだということで、退屈の3つの形式が提示され、特にその第二形式に可能性を見いだして、そこで「浪費」という話が出てきます。「消費」と「浪費」という対比があって、現代ではぼくたち消費者とされる人たちが、消費させられる方向に突き動かされてるんじゃないかという指摘がなされていました。

消費じゃなくて浪費をするにはどうするか──浪費というのは「受け取ること」であるということを提示されて、そこから6年後に『中動態の世界』を書かれている。ぼくは國分さんの中動態概念にすごくインスパイアされて、今日は暇と退屈から中動態に至るプロセスをお聞きできたらと楽しみにしています。

ドミニク・チェン|DOMINIQUE CHEN

早稲田大学文学学術院教授。1981年生まれ、フランス国籍。博士(学際情報学)、Ferment Media Research主宰。NTT Inter Communication Center[ICC]研究員、ディヴィデュアル共同創業者を経て現職。『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』『謎床』(松岡正剛との共著)『ウェルビーイングの設計論』『未来をつくる言葉:わかりあえなさをつなぐために』など著書多数。

國分 ありがとうございます。

ドミニク ぼくもまだうまく言語化ができていないんですが、暇とか退屈というものが、まず自分でコントロールできないものであるというところが中動態の議論とつながるところだと感じています。こういう言い方は國分さんはされていないですが、「受け容れる」というような感覚が中動態の世界には必要なんじゃないかと思いました。

ぼくはいまサバティカルを取っている最中なんです。自分の研究室で、つまりどこにも行かないサバティカルというものを取っているのですが、すごくありがたいのが、ちゃんと退屈する時間が増えたことです。それはもしかしたら、消費じゃなくて浪費する時間をようやく手に入れたという感覚なのかもしれない。特にコロナ禍で全部オンラインになって効率的になった分、会議の数も増えて余計に忙しくなっている(笑)。そのなかで、自分の時間を取り戻すというところの、浪費する時間というものを初めていま手に入れられた。それがポジティブな退屈として実感できます。ただ、そのポジティブな退屈と、國分さんが言われている暇と退屈というのは、言葉は一緒であったとしても違う状況を指しているんじゃないかというところがある。

一方、ぼく自身の研究的関心でいうと、情報技術がぼくたちの暇や退屈を捕捉するようにつくられてきたという問題意識があります。ぼくは大学に着任する前に自分でITスタートアップをやっていて、ウェブサービスをつくったり、「ソシャゲー」と言われるようなゲームをつくったりしていました。どちらかというと浪費じゃなくて消費を促す産業の一員だった。そのときに、自分たちのつくっている技術の暴力性にすごく自覚的になり、デジタル技術とウェルビーイングの研究を始めました。

PHOTOGRAPH: KAZUHO MARUO

自分たちのつくっている道具や場というものが、はたして本当に人々がよりよく生きるための道具たりえているのかということを問い直す議論が、米国では2010年代にスマホが普及するにつれて増えてきたんです。例えば心理学者のジョナサン・ハイトは、ティーンエイジャーたちの精神的な病理がこの10年間で統計的にもすごく増えているという話をまとめています。

『WIRED』でも「デジタルウェルビーイング」を特集していますが、ぼくたちが熱狂してきたITというもの自体を、そのシリコンバレー的なオプティミズムから一歩撤退して、つまりリトリートして、再考しなければいけない。その大きな過渡期にいまいるんですよね。イーロン・マスクとかスティーブ・ジョブズといった英雄的な経営者に引っ張られるのではない情報技術のモデルやナラティブをつくっていかなくてはいけない。そこもある種のリトリートとして考えられると思っています。

こういう多層的な文脈を頭の中で発酵させながら今日はやって来ました。恐らく今回の『WIRED』の特集と絡めて言うと、リトリートというものが求められている、その風潮やトレンドがあるなかで、それをただの消費主義的なトレンドとして見るのではなくて、何かそこに現代を象徴するような本質や、批判的に向き合うためのポイントがあるんじゃないかと。

國分 ぼく自身は、2011年の『暇と退屈の倫理学』と、17年の『中動態の世界』がどういうふうにつながっているのか、あんまり自分でわかっていなかったんです。でも、もしかしたらつながっているかもしれないなと思うようになって、それは、最近「目的」という概念について真剣に考えたのがきっかけです。

『暇と退屈の倫理学』で述べた浪費と消費の違いというのは、浪費は物を過剰に受け取ることだから満足が来てどこかで止まるけれど、消費は情報を受け取っているだけの記号ゲームだからいつまでも止まらない、というものです。これを目的という言葉で言い換えると、浪費には特に目的はないということになる。そのものを楽しんでいるだけですから。ところが消費には目的があるのではないか。例えばグルメブームでいろんな店に行って自撮りしてインスタに上げたりするといった目的です。行為それ自体を楽しむのではなくて、「いいね」を稼ぐとか個性を磨くとか、何かの目的のために行なわれる。

実はこの「目的」という概念そのものを批判的に捉えることが必要なんじゃないか。そして、浪費と消費という対比はもしかしたらそれに役立つかもしれないと最近考えるようになりました。これを中動態についての議論につなげると、『中動態の世界』でぼくが一生懸命やったのは意志という概念の批判ですが、意志は目的という概念と切り離せません。ならば、目的を立ててそれに向かって意志の力で進んでいくという考え方のモデルそのものを問い直す必要があるのではないか。意志という概念を批判的に検討するならば、目的という概念も批判的に検討すべきだし、ここで『暇と退屈の倫理学』と『中動態の世界』というふたつの著作はつながっているんじゃないかと思ったんですね。

ただ忘れてはならないのは、目的なしで何か考えたり生活することもできない、ということですね。人間がずっと、目的がまったくない状態でいることは無理だと思います。でも、目的に支配されることも問題です。だからこの4月に出る新著では、「目的への抵抗」という方向で考えているんです。

リトリートと目的

國分 目的の概念を正面から批判した哲学者のひとりがハンナ・アーレントです。アーレントの著作で最もよく知られているのが『全体主義の起原』という、全体主義を批判したデビュー作ですが、そのなかで彼女はナチスドイツの親衛隊を率いたヒムラーの言葉を引いています。ヒムラーは全体主義にとって理想的な人間を定義して、「いかなる場合でも、それ自体のために或る事柄を行なうことの絶対にない人間」と言っているんです。

アーレント自身が挙げた例を使って説明するなら、全体主義においては「チェスのためにチェスをする」ことはあってはならないわけです。チェスをするときにも、国家に尽くせる優秀な人材になるべく頭を鍛えるためにチェスをやっているのだとか、必ず目的を設定しなくてはいけない。チェスのためにチェスをしている人間は全体主義体制では許されない。

ぼくらは目的という概念をものすごく当たり前のように使っています。けれども、もしも目的が社会やぼくらの生活を覆い尽くしたら、実は全体主義のような恐ろしい自体になってしまう。目的というこの実に日常的な言葉には、実はそのような恐ろしい側面がある。だからこそ、目的をまったく設定しない生き方はできないだろうし、またそれはおそらく望ましくもないけれども、目的から逃れることも非常に大事だと思うんです。

ぼくは割とまじめな人間なので(笑)、すぐに目的とか設定しちゃう。でも、面白いことに人間は何か活動をするにあたって、ある目的を立てて一生懸命やると、むしろ目的から外れていってしまうことがあると思うんです。例えばみんなで文化祭の準備を一生懸命やっていると、文化祭で出し物をするという目的よりも、みんなでわいわいと、ああだこうだ言いながら準備していくこと自体がすごく楽しい過程になっていく。これはまさしく、それ自体を楽しむということです。

周りから見ると「文化祭を成功させるという目的を忘れている!」といった批判もあるかもしれない。でも、忘れているかもしれないけれど、それはそれでいいじゃないか、と。もちろん、文化祭を成功させるという目的も多分大事ですよね。そこはバランスなんです。

何かを一生懸命やると、目的を超えるものが行為のなかから出てくる。アーレントは、人間が自由を感じるのはそういうときだと言っています。人間の行為は必ず目的のような動因によって駆動される。それはそうですよね。文化祭という目的がなかったら文化祭の準備なんてしない。でも、人間はその目的に向かう行為のなかで、その目的を越えられることがあって、そのとき人間は自由を感じる。

アーレントの自由の定義はそれだけ聞くと、すごく難しくて何を言っているのか分からないんですけれど、ぼくは単純に、文化祭の準備をしていて準備自体が楽しくなっちゃうということだと思うんですよ。

ドミニク すごくわかります。

國分 これが目的からの逃れ方のシリアス版だとすると、そのカジュアル版としてリトリートというのを考えられるんじゃないか。仕事とか活動というのは基本的に目的に支配されている。でも、そこから撤退することがなければ、人間は当然、息苦しくなってしまう。チェスのためにチェスをするということができる時間がなければ、やはり人間は息苦しくなってしまいます。だから、リトリートした時間というのは、目的合理性から逃れた時間のことだろうし、それが消費ではないリトリートではないでしょうか。

ドミニク ぼくはフランス国籍者なのですが、フランス人たちが脅迫観念に取りつかれたかのようにバカンスに出かけるというのがありますよね。社会人でも、絶対1カ月は休みを死守する。仕事がまだ途中であろうが何だろうが放り出して、おれ明日からバカンスだから後はよろしく、といったことをぼくも何回かやられたことがある(笑)。それでパリから南仏なんかに行こうとして、4、5時間も大渋滞に巻き込まれながら必死でバカンスに出かけるわけです。あれははたして、國分さんの言うところの浪費ができている姿なんだろうかと(笑)。

國分 ぼくはフランスには留学はしていたけれども、大学にいただけなのでバカンスに行く人たちの雰囲気というのはあんまり知らないんです。やはり強迫観念に駆られてバカンスに行くという感じなんですか。

ドミニク ぼくがいまは日本社会から見ているからという部分もあるとは思うんですが、スパッとバカンスに出かけるのが正しい人間である、といった社会規範のようなものがあるし、そのぐらいやらないと実際に人間は会社を休めないということもあるかと思います。日本でも積もった有休を消化できない人たちをたくさん知っているし、産休育休なんか制度だけあっても取れていない人のほうが大半だというのに比べると、フランス人の爪の垢を煎じて飲んでもいいんじゃないかと思うこともあるんだけれども(笑)。

リトリートという今回のテーマを額面通りに受け取ると、いま日本中で増えているグランピングサイトとかゆるキャンと言われるような、ハードコアな装備を持っていなくてもクルマで行っちゃえば寝床も用意されていて、何だったらご飯が食べられるお店が隣にあるところでちょっと都市生活から離れて撤退するといったものが増えているように思います。それを見たときに、2010年代初頭にシリコンバレーを中心に広まったマインドフルネス瞑想とつながる気がしたんです。チベットや東南アジアの瞑想法をもってきて、それでマインドフルネスを獲得するということがグーグルアップルといった大企業で広まった。

でも瞑想という宗教的な行為を企業文化にもってきたときにいちばん違和感があるのが、國分さんがおっしゃったように、本来は合目的性から離れたところで行なうのが瞑想であるはずなのに、自分を再発見する、いまに集中することによって仕事のパフォーマンスが上がる術として商用化されている側面が大きいわけです。それはまさにネオリベ(新自由主義)的だし、先ほどのヒムラーじゃないけれども、リトリート中でも常に企業人としてのパフォーマンスをキープしたり、向上するという目的を備えている理想的な人間になるために、お金を払ってマインドフルネス瞑想をしたりリトリートに出かけるということになってしまう。

もちろん、これはある種の誇張なので、マインドフルネス瞑想をしている人が全員、消費主義に侵されていると言いたいわけではないんですが、そういう側面があることは気をつけておいた方がいい。

PHOTOGRAPH: KAZUHO MARUO

一方で、國分さんのお話につなげると、目的性をもつということ自体を完全に捨象して理想的な状態を定めることも、ある意味で不可能なんじゃないかということですね。だからある種の功利主義も認めつつ、その中間領域みたいなものをどう見つけられるのか、その軸を定めれば、適切なリトリート批判やマインドフルネス批判を、誰も悪魔化せずに言語化できるんじゃないかと考えています。

そのときに、國分さんが岸政彦さんとの『現代思想』での対話(2017年11月号「エスノグラフィ特集」)で言われていた「寛容ではなく歓待」という話がすごく腑に落ちたんです。寛容は許容する消極的なイメージですが、歓待は積極的に受け容れる。そのことと、別の國分さんと千葉雅也さんの対談(現代思想2017年8月号特集「『コミュ障』の時代」)のなかで、教員として学生と接するときに、ケアをする存在にならないといけなくて、教えることとのバランスに難しさがあると千葉さんがおっしゃっていました。

ぼく自身、一教員として頷いたんですけれど、その「接せなければならない」という状況は、まさに寛容ということだと思うんです。教師と生徒という非対称性があって、面倒を見るのは教師ということになりがちだけれど、教師が積極的に学生に面倒を見られてもいるというマインドで協働的な主体性をつくっていけないだろうか。そういう、自分とは異質な相手を歓待するマインドへの切り替えが必要ではないかと思うんです。

この「歓待」するマインド、つまり自分が制御できないことを歓迎するという考え方に立てば、リトリートに出かけるときにお膳立てしてもらうこと自体はまったく悪いことではないし、ぼくもサバイバルスキルが皆無に等しいので、お膳立てをしてもらわないとたぶん、2日で遭難する自信があります(笑)。だからお膳立てのレベルを変えていって、2回目に行くとちょっとハードルが上がっていて、自律性をより発揮できるとか、そうやって自分自身が歓待して受け入れられるカオスや不確実性が増えていくといった体験のデザインを、リトリートの事業者側が設計できるかもしれない。

つまり、ぼくたちを消費者にさせるリトリートサービスじゃなくて、浪費者にさせるサービスですよね。いまの現実と望ましい姿を接続していくポイントが、このあたりにあるんじゃないかと思っています。

國分 マインドフルネスに限らず、休暇自体が「次の仕事のため」という目的に奉仕する活動になってしまっているというのはいまに始まったことではなくて、20世紀初頭に指摘されていたことだと思います。米国で禁酒法が制定された背景にも、休日をあくまでも労働のための休暇として位置づけるべきだとする考え方の浸透がありました。当時、アントニオ・グラムシというイタリアの哲学者がそのような禁酒法の背景を批判的に検討しています。そして禁酒法自体はなくなったけれども、そのような休暇の位置づけは、おそらく20世紀を通じて変わらなかった。

とはいえ、20世紀の場合はまだだいぶ余白があったと思うんです。ぼくが学生だった90年代に社会学の授業で聞いた話ですが、会社員は退社時、背広の襟に付けている社員バッジを裏返している、と。つまり、「この時間から自分はもう会社の人間じゃないぞ」というわけです。厳密なリサーチがなされた分析かどうかは分からないんですが、想像できる気がします。90年代ぐらいまでは、会社に対してそのような距離のとり方がまだあったのではないか。

そういう余白をつくろうという気持ちが現代ではもちにくくなっているように感じます。むしろ、余白がないほうがいいという価値観が浸透していて、何をやっているときでも、自分磨きだ、キャリアアップだ、と目的を考えていないといけないし、そういう目的を考えているほうが優れた人間であるというようなプレッシャーがあるのではないか。21世紀に入ってから、新自由主義的な流れのなかでこのプレッシャーが非常に強くなっているように感じます。

こうして話してきて、そこから逃れるためには、もしかしたらフランス人みたいに、命令でもされて、目的に支配された仕事の時間をぶつんと切ってもらったほうがいいのではないかと思えてきました(笑)。目的合理性から逃れたリトリートを人は本当に自発的にできるだろうか。それはぼくもよくわからないんです。そもそもリトリートという言い方がはやったこと自体が興味深い。だって、元々は軍事用語ですよね。

ドミニク そうですね、特にフランス語の「retraite」なんて、定年退職という意味合いが強いですが、元々は「退却」というニュアンスですよね。

國分 自分たちはまさしく戦いのなかにいるという感覚がこの言葉の流行に表れているのではないか。自分は戦場にいるという感覚のなかにある方々に、リトリートという言葉が響くんじゃないでしょうか。やはり、そうした感覚に支配された時間からの撤退は必要ですよね。

ドミニクさんが「寛容じゃなくて歓待」というぼくの議論を引いて下さいました。フランス語だと「tolérance(トレランス)」と「hospitalité(オスピタリテ)」です。寛容(トレランス)というのは自分が変わらないまま、「あなたはそこに居てもいいですよ」と言うこと、つまり相手に我慢することですね。それに対して歓待というのは、相手を受け入れて自分も変わっていくことです。自分が客だか主人だか分からなくなってしまうのが歓待だというのがぼくの論じたことでした。

今日の最初にドミニクさんが出して下さった「受け容れる」というのも、この寛容と歓待の区別のなかで考えるとその意味がよく分かると思うんです。「受け容れる」が本当に訪れると、自分の変化が起こる。ただ、受け容れるためにはものすごく余裕が必要なんですね。日曜日の夕方5時になって、もう12時間たったら朝起きて仕事に行かなきゃいけないというときに、何か新しい、自分に影響を及ぼすものを受け容れることができるかというと、なかなか難しい。だから、なんと言っても時間的な余裕が大切だというのがぼくがいつもたどり着く凡庸な結論なんです。

ドミニク 高速道路で3時間渋滞にもまれながらキャンプ場に到達して、テントを立てて、火を熾して、肉を焼いて、星空を見て、ああ、きれいだなって言って、翌朝もう一回、3時間渋滞にもまれて帰るということ自体は、何も悪いことじゃないと思うんですよね。でも、リトリートという概念のもつ潜在的な深さみたいなものが、そういう週末の習慣へと過小評価されているというか。そこをもう少し長い時間に接続してリトリートしていく、例えば2日間じゃなくて10年スパンでリトリートする、といったことを考えたいなと今回思ったんです。

※第2回はこちら

(Edit by Michiaki Matsushima)