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ミームとアート:それがシェアされるとき、誰が得をして誰が損をするのか

オンラインのもつシェアラビリティ(共有可能性)を掘り下げ、クリエイションのあり方について新たな結論を提示する、アート分野の著者たちによる2冊の新刊『Disordered Attention』と『Black Meme』をひもとく。
ミームとアート:それがシェアされるとき、誰が得をして誰が損をするのか
Source photograph by Mauricio Santana / Getty

2019年のヴェネツィア・ビエンナーレに出かけた人のなかには、倉庫内につくられた偽のビーチを舞台にした、3人のリトアニア人アーティストによるオペラ作品「Sun & Sea (Marina)」(金獅子賞受賞作品)の上演を観るために長い行列に並んだ人もいるかもしれない。階上の暗いバルコニーから観客たちが見下ろすなか、数十人のパフォーマーが海辺のレジャー(日光浴、砂遊び、読書)を演じ、気候変動の引き起こす環境破壊について歌った。視覚的なインパクトの強い複雑な作品だが、ソーシャルメディアでも注目を集めた。

写真や動画による投稿は、芸術作品の拡散であると同時に、それを実際に目撃したことを自慢する行為でもある。英国の美術史家クレア・ビショップは、著書『Disordered Attention(散漫な注意)』[未邦訳]のなかで、このような鑑賞者のあり方を指して「観ることとオンラインであることの終わりなき振動」と呼んでいる。鑑賞者はまず作品と向き合う自己の体験を味わい、それから写真を撮影してグループチャットにコメントを送り、また鑑賞に戻る。あとからハッシュタグをチェックして、ほかの人々がどんな写真を投稿しているのか確認することもあるだろう。

これはそれほど悪いことではないと、ビショップは著書のなかであっさりと述べている。「集中力の高さは、相変わらず、能力の高さのみならず人間性の根幹であるかのように捉えられている」とビショップは書く。ゴッホの「星月夜」を前にしたわたしたちはカメラを向けてシェアするのではなく、ひとり立ち尽くし、食い入るように見つめるべきとされているのだ。MoMAの館内でスマートフォンに目をやれば、罪悪感さえ覚えるだろう。だがビショップに言わせれば、スマートフォンで気の散った状態は創造的とも呼ぶべき何かだ。彼女にとって芸術作品とは「自分本位なものでもなければ総体的なものでもない。それを見るわたしたちの側に、反応や対話、共感や蓄積をもたらす、そのような空間や社会的繋がりをおよぼすもの」なのだ。

このような作用は、いわば「社交的な傍観」によって文化を消費するという、前近代的な振る舞いへの回帰でもある。歴史とともに変化する劇場のあり方を例に挙げ、ビショップは持論を展開する。ワーグナーが19世紀後半のドイツに「バイロイト祝祭劇場」というオペラハウスを建てる以前は、観客は舞台を中心にした馬蹄型の客席で向き合うように座っていた。それがワーグナーによって客席の配置が舞台とまっすぐ向き合うように変えられ、またそれまで明るく照らされていた劇場内の明かりが消され、観客は暗闇に閉じ込められるようになった。それまで社会的な体験であったはずのものが、モダニズムの様式においては芸術と個人とが対峙する場へと変わったのだ。

おそらくスマートフォンによって、わたしたちは身近な美的体験を共有しながら自分の経験として取り込む能力を取り戻したということに過ぎないのだろう。いまやわたしたちの誰もがアートキュレーターとして作品を選定し、それを自分のフィードで展開しているのだ。

「ブラック・ミーム」の源流

すべてのアーティストが、自分の作品がオンラインコンテンツとしてシェアされることを望むわけではない。パフォーマンスアーティストのティノ・セーガルのように、モダニズムの理想を体現しつつも、作品にまつわるあらゆる記録を禁止することで、この新しい関与のかたちを完全に拒絶する者もいる。他方では、ビショップの言う「バイラル・アテンション」を作品の基本的な機能として容認するアーティストたちもいる。ビショップは、ロシアのアート集団ヴォイナによる、サンクトペテルブルクの跳ね橋に巨大なペニスを描くパフォーマンスを例として取り上げている。警察の介入により完成に至らなかったものの、その数分後に跳ね橋が上がると、「ペニスがまるでFSB(連邦保安庁/旧KGB)のビルに向かって聳え立ったかのようだった」という。この映像は、たちまち世界中に拡散された。このようなメディア現象はヴォイナにとって、作品の一部を成すものだ。作品がデジタル空間に移行したことで、鑑賞者たちも一役買うことになったのだ。

レガシー・ラッセルの『Black Meme(ブラック・ミーム)』[未邦訳]という新刊も見てみよう。キュレーターと作家の肩書をもち、現在はマンハッタンの誇る実験的アート施設The Kitchenのディレクターを務めるラッセルもまた、オンラインでイメージを共有するという行為が、イメージの主題およびその作者に対してどのような影響を及ぼすのかに関心を向けているが、彼女もまったくと言っていいほどそれを悲観視していない。

本書では、これまで圧倒的な速さで広まってきたネットミームの多くが、「ブラック」のクリエイターやそのカルチャーに端を発していたことに着目している。ラッセルの議論ははるか昔の「世界最初のデジタルミーム」にまで遡る。両手を振りながらチャチャのようなダンスを踊る、おむつ姿の赤ん坊だ。1996年、アニメーション制作ソフトウェアを開発していたとある企業がプレゼンテーション用に制作したものだ。その後コンパクトなgifファイル形式に変換されたことでメール添付が可能になり──バイラルがメールを介して起きていた時代のことを覚えている人はいるだろうか?──瞬く間に広まった。当時人気だったテレビドラマ「アリー my Love」への出演もはたしたほどだ。

ミームは拡散によってつくられる。シェアに適した形式をもち、最も広く拡散するのが最強のミームといえる。この「ダンシング・ベイビー」は、Z世代のネットユーザーにとっては遠い昔の歴史的な出来事かもしれないが、ラッセルはこれを、その後訪れるデジタルカルチャーの前兆だったと再定義している。アニメーションの赤ん坊は肌の色こそ乳白色だが、その振り付けと「ベイビー・チャチャ(Baby Cha-Cha)」という愛称は、紛れもなくアフロキューバンの伝統にちなんだものだとラッセルは指摘する。「鑑賞者のために延々と踊り続けるという無限の労役を科せられた黒人の子どもの幻影」が、あのダンシング・ベイビーだったというのだ。

そう聞かされた後では、あのアニメーションを「90年代の思い出フォルダ」に無邪気に戻すのは難しい。「ミームには中立性もなく、受動的な主体でもない」とラッセルは論じる。詳細な歴史論というより極論的な本書だが、デジタル以前の時代につくられ、その後オンラインに鑑賞の場を移したメディア作品群を取り上げ、大きな議論を展開している。「ダンシング・ベイビー」はネットミームだが、黒人の俳優同士によるキスシーンを描いた1913年の無声映画『Lime Kiln Field Day』や、55年の『Jet』誌に掲載された棺桶の中のエメット・ティルの遺体の写真[編註:エメット・ティルは白人女性に口笛を吹いたことで惨殺されたアフリカ系米国人の少年]、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のミュージックビデオといった作品もミームとして論じられている。

いずれの場合も、イメージは文化のなかで反響を繰り返しながらビジュアルアーティストたちによって流用され、ファンの手でリメイクがなされ、文脈から切り離されたのちにまた本来へと戻っていく。これらは単なるミームではなく「ブラック・ミーム」なのであり、ラッセルはこれを「ブラックネス(黒人性)そのものをメディア化し、複製し、伝播させるバイラルな媒介」と定義する。いわゆる「ブラック・ツイッター」で繰り広げられるユーモアの数々、ジャレイア・ハーモンという黒人少女が生み出したのち白人インフルエンサーのチャーリー・ダミリオがTikTokで流行らせた「Renegade」ダンスまで、ブラック・クリエイティビティは現在の「インターネットカルチャー」に多大なる影響を及ぼしてきた。

著者性とコンテクストの喪失

ビショップとラッセル、いずれの著書も、シェアラビリティ(共有可能性)によって、芸術作品やメディアは結果的にクリエイターから切り離されていくという考えに帰結していく。拡散されることでインパクトが増大し、そこにやりとりが生じる。だが、そのことで理解が深まるとは限らない(むしろ、わたしたちはそのやりとりに加わったことを誇示するだけの目的で、意味を深く掘り下げることなくシェアしてしまう傾向にある)。ふたりはワルター・ベンヤミンとヒト・シュタイエルを引き合いに出し、このような崩壊のかたち──つまり著者性とコンテクストの喪失──が、インターネット上でなされる無限の再生産による本質的な結果であると論じている。露出と引き換えに、管理不能に陥るのだ。

インターネットカルチャーにおける作家たちは然るべきかたちでクレジットや対価を得ていないとラッセルは述べている。「ブラック・ミームにも相応の対価を支払うべきだ」と彼女は説く。もし、誰もがオンラインでの文化消費という社会的体験を通じてカルチャーをともにつくり上げているということであれば、シェアという行為が作品にどのような変容をもたらすのかを自覚しながら、オーディエンスも良心をもってそこに加わるべきなのだ。「コンダクターのひとりとして、自分が何を発信しているのか? また何に耳を傾けているのか?」とラッセルは問う。

デジタルプラットフォームに備わる構造的な問題によって個々のユーザーの行動が形づくられているという点も含め、これは必ずしも安易な解決策をもたない、壮大で抽象的な問いかけだ。そのうえで、オンラインのあちこちに散らばるメディア作品の断片の、長く複雑な寿命を理解するためには、その作品の起源こそを中心に考えるべきだという説得力ある論を、『Black Meme』は示している。本書のなかでラッセルは、2020年に警察の銃撃により自宅アパートで殺されたブリオナ・テイラーの、その後について取り上げている[編註:ケンタッキー州ルイビルで、警察側の重大なミスにより自宅アパートで無実のアフリカ系米国人女性ブリオナ・テイラーが不慮の銃撃を受けて死亡した射殺事件]。

ミームやハッシュタグと化したテイラーのイメージが抗議運動の象徴となり、それが次第にデザインとして美化され、雑誌の表紙を飾り、洒落た抗議ステッカーとしてAmazonで流通するようになっていく流れをラッセルは振り返る。それがいかなるイメージであれ、ミームとして広まるなかで、原型は氾濫するイメージに飲み込まれながらユビキタスとなり、同時に不可視化されてしまうのだ。

(Originally published on The New Yorker, translated by Eiji Iijima/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)

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