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1953年の南海ホークスでは、1953年の南海ホークスの動向をまとめる。
この年の南海ホークスは、鶴岡一人監督の8年目のシーズンであり、3年連続5度目のリーグ優勝に輝いたシーズンである(当時は山本一人)。
それまで二塁を守り続けてきた鶴岡は自身の高齢もあり、自らは引退して監督に専念。2年連続でリーグ優勝のチームはこの年も木塚忠助が1番打者として盗塁を重ね、蔭山和夫や飯田徳治、岡本伊三美などが堅実に安打や本塁打を量産した。この年鶴岡監督に代わって二塁のレギュラーとなった岡本は開幕から打撃が好調で、シーズン終了後22歳の若さで首位打者を獲得するなど優勝に貢献し、MVPも受賞。チームは4月を首位の毎日から2ゲーム差の3位で終えると、5月以降首位に浮上。一時は大映に首位を譲ったが終盤に大映・阪急に疲れが見え始めると、一気に首位を奪還し最後は3年連続でゴールイン。打撃陣は岡本、飯田、蔭山などの活躍もありチーム打率は.265でリーグ1位、228盗塁はリーグ1位。投手陣は防御率が前年より低下したが、防御率を3点台にとどめた。日本シリーズは巨人との対戦となったが、夜行列車での移動が影響したのか2勝4敗1分で敗れ鶴岡監督の胴上げはお預けとなった。
1953年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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最終成績
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1位
|
毎日 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
大映 |
--
|
大映 |
--
|
南海 |
--
|
2位
|
近鉄 |
1.0
|
大映 |
0.5
|
大映
|
南海 |
0.5
|
阪急 |
0.5
|
阪急 |
4.0
|
3位
|
南海 |
2.0
|
近鉄 |
1.5
|
近鉄 |
1.0
|
阪急 |
2.0
|
南海 |
4.0
|
大映 |
6.5
|
4位
|
西鉄 |
4.0
|
毎日 |
3.0
|
毎日 |
1.5
|
近鉄 |
5.0
|
近鉄 |
7.0
|
西鉄 |
13.5
|
5位
|
阪急 |
4.0
|
阪急 |
5.0
|
阪急 |
4.0
|
毎日 |
7.5
|
毎日 |
8.0
|
毎日 |
14.5
|
6位
|
大映 |
4.5
|
西鉄 |
7.0
|
西鉄 |
6.5
|
西鉄 |
11.5
|
西鉄 |
12.5
|
東急 |
20.0
|
7位
|
東急 |
5.5
|
東急 |
7.5
|
東急 |
8.0
|
東急 |
12.0
|
東急 |
13.5
|
近鉄 |
22.0
|
[2]
1953年 日本ワールドシリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
|
10月10日(土) |
第1戦 |
読売ジャイアンツ |
3 - 4 |
南海ホークス |
大阪球場
|
10月11日(日) |
第2戦 |
読売ジャイアンツ |
5 - 3 |
南海ホークス
|
10月12日(月) |
第3戦 |
南海ホークス |
2 - 2 |
読売ジャイアンツ |
後楽園球場
|
10月13日(火) |
第4戦 |
南海ホークス |
0 - 3 |
読売ジャイアンツ
|
10月14日(水) |
第5戦 |
読売ジャイアンツ |
5 - 0 |
南海ホークス |
大阪球場
|
10月15日(木) |
第6戦 |
読売ジャイアンツ |
0 - 2 |
南海ホークス |
甲子園球場
|
10月16日(金) |
第7戦 |
南海ホークス |
2 - 4 |
読売ジャイアンツ |
後楽園球場
|
優勝:読売ジャイアンツ(3年連続3回目)
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[1]
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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