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瑞春院

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瑞春院(ずいしゅんいん、万治元年2月1日1658年3月4日) - 元文3年6月9日1738年7月25日))は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉側室。通称は(でん、旧字体:)、また三ノ丸様・御袋様ともよばれた。今日ではお伝の方として知られる。

出自

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瑞春院の父は下級武士(黒鍬(10俵一人扶持)とも、中間頭(80俵)とも)の小谷正元(小谷権兵衛)で、のちに堀田正元(堀田将監)と名乗る。母は『柳営婦女伝系』によれば、4代将軍・徳川家綱の生母であるお楽の方(宝樹院)の母・紫の妹が、上野国古河の百姓に嫁いで生んだ娘である。紫は姪にあたるその娘を江戸に呼び寄せて、紫の名を譲り、家綱の御台所・顕子(高巌院)に仕えさせた。この紫は下級の女中から次第に出世していったが、暇をとって小谷権兵衛に嫁ぎ、1男3女を生んだ[1]

兄の権太郎は天和2年(1682年)2月に賭博がもとの喧嘩で小山田弥一郎(小山田弥市)に殺されている。姉のお初は美濃大垣新田藩戸田氏成の室、妹のお松は旗本白須才兵衛正休(父はお楽の方の弟に始まる大名増山家の家老)の室(遠藤胤親の生母)となった[2][3]

生涯

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綱吉が館林藩主であった寛文10年(1670年)、桂昌院御付の侍女として白山御殿に上がり、牧野成貞の推挙で御中﨟となる。綱吉の寵愛が厚く、延宝5年(1677年)19歳のときに白山邸で鶴姫を、延宝7年(1679年)21歳のときに神田邸で徳松を産んだ。綱吉の子を産んだ女性はこの伝だけである。

同じく出自の低い成り上がり者である綱吉生母・桂昌院とともに、御台所鷹司信子大典侍新典侍右衛門佐といった公家出身の側室たちとは対立関係にあったといわれるが、確証はない。悪女として語られることの多い伝だが、実は自己主張の弱いおとなしい女性であったという説もある。

ただし、兄を殺した小山田弥一郎は、賭博からの喧嘩の罪ではなく、将軍世子の外伯父殺害の罪で獄門となっている。彼を捕らえる時も、親や主君殺しでもない限り行われない人相書きが全国に配られたとされる。

また、美濃郡上八幡藩遠藤常久が元禄6年(1693年)3月晦日に若年で死去した際、本来なら無嗣断絶となるはずであったが、遠藤家と所縁の無い瑞春院の妹と旗本白須正休との長男を、一旦遠藤家親族の戸田氏成(正室は瑞春院の姉)の養子とした上で、さらに5月に遠藤家の養子(遠藤胤親)として家督を継がせるという強引な縁組が行われた[4]。既に先代藩主は死亡していたにも拘らず、所縁の無い旗本の長男を末期養子として認める異例の措置により、遠藤家は改易は免れ、2万4千石から1万石への減封ではあるものの存続が認められた。こうした露骨な動きは「将軍の威を借りて天下の法度を動かした」利権誘導とも考えることもできる。

徳松を幼くして亡くした後は、鶴姫の婿である紀州藩主・徳川綱教を将軍にしようとする動きもあったが、鶴姫・綱教ともに早世して頓挫した。綱吉の死後は落飾して瑞春院と名乗り、二之丸に移る。元文3年(1738年)、81歳で死去。墓所は芝・増上寺

関連作品

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小説
漫画
映画
テレビドラマ

脚注

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  1. ^ 高柳金芳『江戸城大奥の生活』雄山閣〈生活史叢書7〉、1981年(新装版)、p.192-193
  2. ^ 『江戸城大奥の生活』p.194
  3. ^ 三田村鳶魚「「朝妻船」に描ける五の丸殿」『三田村鳶魚全集 第一巻』中央公論社、1976年、p.97
  4. ^ 寺井秀七郎 三上藩略年表『野洲町史第2巻(通史編 2)』p864 野洲町 1987年3月31日刊 全国書誌番号:87037576