海北塚古墳
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海北塚古墳 | |
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墳丘全景 | |
所在地 | 大阪府茨木市西福井1丁目 |
位置 | 北緯34度50分29.07秒 東経135度32分58.65秒 / 北緯34.8414083度 東経135.5496250度座標: 北緯34度50分29.07秒 東経135度32分58.65秒 / 北緯34.8414083度 東経135.5496250度 |
形状 | (推定)円墳 |
規模 | 不明 |
埋葬施設 | 片袖式横穴式石室(内部に箱式石棺) |
出土品 | 副葬品多数・須恵器・土師器 |
築造時期 | 6世紀後半 |
史跡 | 大阪府指定史跡「海北塚古墳」 |
地図 |
海北塚古墳(かいぼうづかこふん)は、大阪府茨木市西福井にある古墳。形状は円墳と推定される。大阪府指定史跡に指定されている。
概要
[編集]大阪府北部、北摂山地から伸びる台地の南端に築造された古墳である[1]。現在までに墳丘の大部分が削平されているほか、1909年(明治42年)・1935年(昭和10年)に副葬品が出土している。
墳形は明らかでないが、円形と推定され[2][3]、現在は大きさ25メートル・高さ1メートルの高まりのみを残す[1]。埋葬施設は片袖式の横穴式石室で、西方向に開口する[2]。大型石室であり、玄室内部には緑泥片岩製の箱式石棺が据えられ、石棺の内外から多数の副葬品が検出されている[3]。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される[2][3]。三島地方西部では南塚古墳・青松塚古墳に続く首長墓に位置づけられるとともに[1]、豊富かつ秀逸な副葬品の出土、和歌山県付近産の緑泥片岩の使用の点で注目される古墳である[2]。
古墳域は1970年(昭和45年)に大阪府指定史跡に指定されている[4]。
遺跡歴
[編集]- 1909年(明治42年)、副葬品が出土[2][3][1]。
- 1935年(昭和10年)、副葬品が出土[2][1]。
- 1946年(昭和21年)、昭和南海地震で石室が損壊[1]。
- 1970年(昭和45年)12月7日、大阪府指定史跡に指定[4]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては片袖式横穴式石室が構築されており、西方向に開口する。石室の規模は次の通り[3]。
- 玄室:長さ4.6メートル、幅2.5メートル、高さ3.3メートル
- 羨道:現存長6.3メートル
玄室内には中央部に箱式石棺を据える[3]。緑泥片岩製で、6枚を組み合わせて構築される[3]。この石棺の内外からは1909年(明治42年)・1935年(昭和10年)に多数の副葬品(後述)が出土している。
出土品
[編集]1909年(明治42年)・1935年(昭和10年)に出土した副葬品は次の通り。
- 1909年(明治42年)出土品
- 須恵器
- 金環
- 銅環
- 勾玉
- 鏡
- 山梔玉
- 座金具
- 刀子
- 三輪玉
- 1935年(昭和10年)出土品
- 須恵器
- 土師器
- 武器類
- 環頭大刀
- 鉄鉾
- 鉄鏃
- 馬具類
- 轡
- 杏葉
- 雲珠
- 鞍金具
現在では、出土品は東京国立博物館で保管されている。
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須恵器 坏
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須恵器 高坏
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須恵器 𤭯
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須恵器 甕
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須恵器 短頸壺
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須恵器 広口壺
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須恵器 広口壺
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須恵器 子持脚付広口壺
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土師器 長頸壺
文化財
[編集]大阪府指定文化財
[編集]- 史跡
- 海北塚古墳 - 1970年(昭和45年)12月7日指定[4]。
関連施設
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(茨木市教育委員会設置)
- 「海北塚古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 458249028X。
- 大谷猛「海北塚古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 茨木市教育委員会 編『わがまち茨木 古墳編』茨木市、1990年。
- 『新修茨木市史 第7巻 史料編 考古』茨木市、2014年。