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徐 (春秋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国姓 嬴姓
爵位 侯爵
穆王の時より子爵
国都 現在の山東省臨沂市郯城県一帯
分封者
始祖 若木
滅亡原因 により滅亡
史書の記載荀子』非相篇
史記
(巻四周本紀、巻五秦本紀)
楚辞』七諫・沈江篇
春秋左氏伝
(初見は荘公二十六年)
周朝諸侯国一覧
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(じょ、紀元前20世紀頃 - 紀元前512年)は、夏代から春秋時代にかけて中国に存在した東夷諸国の一つ。徐戎徐夷徐方とも称される。

概要

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夏代から周代にかけては現在の山東省臨沂市郯城県に位置していた。周初に安徽省宿州市泗県江蘇省宿遷市泗洪県一帯を中心とした。東夷諸国のなかで強大な勢力を誇ったが、春秋時代にによる攻勢を受け、紀元前512年により滅ぼされた。

後漢書』東夷伝に「に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐偃王に命じてこれを主せしむ」とある[1]河南省鄭州の地でここに武王の弟の管叔鮮が封じられ、河南省上蔡県の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。管叔鮮蔡叔度武王の死後、紂王の子の武庚禄父とともに、成王周公旦らに反乱を起こしたが、平定された。徐夷が僭号したとあるが、徐は徐州付近の広域地で、徐地域の支配者が周の支配に反乱し、徐偃王を名のって周から自立した[1]。徐偃王は東夷の九夷を率いて周を攻め、穆王は、徐偃王の軍勢が強力であるのを恐れて、東方に封じていた諸侯を分けて徐偃王に属させた[1]

考証

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林泰輔は、朝鮮の「卵生説話」(赫居世居西干鄒牟王首露王五伽耶王脱解尼師今)と『賢愚経』『法苑珠林』『新唐書』『大越史記全書』『山海経』『大明一統志』『博物志中国語版』『後漢書』などにみられるインド古代伝説との類似性、および『三国遺事』に抄録された『駕洛国記朝鮮語版』に記される金官加羅国の始祖首露王の夫人の許黄玉天竺阿踰陀国の王女であることを根拠にして、「古代にインド人馬剌加海峡を渡って東方に交通し、ついに朝鮮半島の南岸に加羅国を開いた」と述べており、加羅インド人が切り開いたと指摘しているが[2]、関連して、林泰輔は、張華が著した『博物志中国語版』にみられる徐偃王卵生説話におけるインド古代伝説との類似性から、中国もまたインドから流れてきたものと指摘している[3]

脚注

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  1. ^ a b c 奥田尚『徐の偃王物語と夫余の東明王物語』追手門学院大学文学部アジア文化学科〈アジア文化学科年報 2〉、1999年11月1日、52頁。 
  2. ^ 林泰輔『加羅の起源続考』光風館書店〈支那上代之研究〉、1927年。 
  3. ^ 李萬烈 (2005年6月). “近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 228-229. オリジナルの2015年9月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150908121743/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf 

関連項目

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