コンテンツにスキップ

宮川宗徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宮川 宗徳(みやがわ むねのり[1]1886年12月12日 - 1963年1月18日[2])は、神社本庁事務総長(初代:1946年2月 - 1948年4月)[3][2]内務省文部省東京市官吏[2]。「みやがわ そうとく」とも[1]

生い立ち

[編集]

熊本の社家の出身[4]阿蘇で生まれ[5]、長男として厳しく育てられた[6]。「お母さんはどうして、僕だけにこんなに辛く當るのだらう」と思ったこともあるという[6]。中学を出、仕送りを受けながら東京で遊学[6]。宮川は折口信夫秋岡保治と國學院で同級生だった[7]

官吏時代

[編集]

明治43年(1910年)に國學院大學国史科を卒業、明治44年に日本大学政経科を修了[2]。明治44年以後内務省文部省勤務を経て、大正9年に東京市に転じ、同市で教育主事兼視学、監査課長、文書課長、牛込区長(1924年-1925年)[8]小石川区長(1926年-1927年)[8]下谷区長(1929年-1933年)[8]、保健局長を歴任[2]

市会議員当選後

[編集]

昭和16年(1931年)に東京市会議員に当選[2]大日本興亜同盟調査部長[9][2]兼興亜政治経済文化対策委員会幹事長[2]、及び大日本興亜同盟機関誌『興亜週報』の代表者[2][9]。1935年から神宮奉斎会専務理事[2]

戦後

[編集]

宮川は大日本神祇会神宮奉斎会皇典講究所の合併による神社本庁設立に貢献し[2]、1946年2月に初代事務総長に就任[2]。同年7月に神社新報社を創業しその社長に就任[2]

宮川は1946年に公職追放を受け[9]神社新報社社長を同年(翌1947年とも[9])に辞めた[9]。1947年末に宗教団体に対しても自粛を要請する文部省通達が出されたが、宗教団体である神社本庁は公職追放の対象にならないとして宮川は神社本庁事務総長辞任を否定[9]。通達の三ヶ月後、宮川は自分の任務であった神社本庁の組織化が完了したとして辞任した[9]。以後神社本庁の顧問となる[2]

1949年、伊勢神宮式年遷宮奉賛会の発足時の常務理事、1951年2月から同理事長[2]

追放解除後の1953年第3回参議院議員通常選挙全国区から立候補したが落選した[10]

1963年、死去。

出典

[編集]
  1. ^ a b https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00374224
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『神道人名辞典』p.587-588、「宮川 宗徳(みやがわ むねのり)」の項(竹本佳徳)
  3. ^ 『神社本庁二十年史』1966年、p.1015
  4. ^ 【神道文化学部】渋谷ヒカリエで藤本頼生准教授がプレゼンテーション 2016年3月28日更新
  5. ^ 『高千穂阿蘇 : 綜合学術調査報告』、滝川政次郎「序」
  6. ^ a b c 小沢徳一編『母を語る』1-4ページ
  7. ^ 保坂達雄 折口信夫と新仏教家藤無染 日本文学 54(4), 56-60, 2005-04-10
  8. ^ a b c 江戸東京を知る_大東京35区物語_歴代区長一覧
  9. ^ a b c d e f g 渋川謙一「四 占領政策と神道界の対応」『占領と宗教』pp.497-513
  10. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』544頁。

参考文献

[編集]
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。