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上野景範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上野 景範
うえの かげのり
生年月日 (1845-01-08) 1845年1月8日天保15年12月1日
出生地 薩摩国鹿児島郡塩屋村(現・鹿児島県鹿児島市甲突町
没年月日 (1888-04-11) 1888年4月11日(43歳没)
称号 従三位勲二等
配偶者 幾子
子女 景明(長男)、留志(長女・松本郁朗妻)、西郎(次男)、武利太(三男)、春子(次女)

在任期間 1885年2月14日 - 10月30日
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上野 景範(うえの かげのり、1845年1月8日天保15年12月1日) - 1888年明治21年)4月11日)は明治時代日本外交官。通称、敬助、敬介[1][2]

薩摩国鹿児島郡出身。英学に明るく、明治維新後にハワイ元年者移民問題などに当たり、駐などの全権公使を歴任。後に元老院議官となった。趣味は油絵。明治6年(1873年)5月、内閣に提議した李氏朝鮮との修好条約締結問題における意見書は、征韓論の端緒となり、明治六年政変を引き起こすこととなる。

経歴

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天保15年(1844年)12月1日、薩摩国鹿児島近在塩屋村(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて唐通事泰助夫妻の長男として出生。通称は敬助、敬介[1]

安政3年(1856年)、長崎にて蘭学を学ぶも、後に英学に転じる。文久2年(1862年)、英学をより学ぶため上海に密航。翌3年(1863年)幕府の横浜鎖港談判使節団池田長発一行の上海寄港に遇し、渡欧を企てるも失敗。長崎に送還される[1]

元治元年(1864年)、薩摩藩が設立した洋学教育学校「開成所」にて句読師となり、森有礼(初代文部大臣明治六大教育家商法講習所(現在の一橋大学)の創設者)等に英語を教える。後にイギリスとの折衝役。

慶応元年(1865年)、奄美大島の製糖工場建設に携わったアイルランド人技術者・トーマス・ウォートルスの通訳を務める。

慶応4年(1868年)、寺島宗則の引きにより、明治新政府において外国事務局御用掛。明治元年(1868年)3月、横浜裁判所御用掛。同年3月 - 明治2年(1869年)、日本最初の造幣器械購入のため香港差遣。

明治2年(1869年)4月、燈明台掛(後の海上保安試験研究センター)・運上所掛に兼勤。イギリス人技術者・リチャード・ヘンリー・ブラントンとともに、神子元島灯台静岡県)、樫野埼灯台和歌山県)、伊王島灯台長崎県)、六連島灯台山口県)、佐多岬灯台鹿児島県)等の建築に携わる。同年7月、新貨幣発行に関し、大蔵大輔大隈重信の邸宅にて大隈・中井弘町田久成等と協議(後に大隈は新貨幣の図案を彫金家加納夏雄と弟子の益田友雄他2名に、文字を大蔵省に勤めている書家石井潭香に委託することを決定)。同年8月、民部監督正

明治2年(1869年)9月から明治3年(1870年)2月までハワイ差遣。先立ってハワイ王国へ集団移住していた日本人、いわゆる「元年者」が現地にて労働環境など様々な問題に直面し、それが国際的に報道されたため、政府の命により特命全権公使として米汽船ジャパン号でハワイに赴く。帰国希望の日本人40名、他3名が帰国し、王国側は移民の募集を行ったハワイ国駐日総領事・ユージン・ヴァン・リードの罷免を確約。

明治3年(1870年)5月、民部権少丞。同年6月から明治4年(1871年)8月まで大蔵大丞特別弁務使として英国差遣。差添に前島密。鉄道敷設のために日本政府がホレーショ・ネルソン・レイ・前清国総税務司中国語版駐日英公使ハリー・パークスの友人)との間に結んだ資金借入・技術者雇用等に関する契約において、レイによる不正行為が発覚した件で、大蔵少輔・伊藤博文の命を受け英国に赴き、契約を破棄する。オリエンタル・バンクとの間で鉄道建設用外債募集契約に成功。また、租税権頭

この前後、民部鉄道掛井上勝、英国人技師長エドモンド・モレル達と共に鉄道敷設工事を進める(明治5年(1872年)5月7日には日本初の鉄道「新橋駅 - 横浜駅」間18マイル仮開業)。

明治4年(1871年)9月、横浜運上所・初代長官(~5年2月)。この前後、旧幕臣・八十岡清三郎の長女・幾子と結婚、後に4人の子供をもうける。孫には景福東京大学教授)。

明治5年(1872年)2月、大蔵省3等出仕。同年6月、渋沢栄一是月栄一井上馨達と連名で、正院に製紙事業を興すための建議を行う(後の王子製紙)。同年9月、外務省3等出仕。同年9月から明治6年(1873年)まで、米国在勤(弁理公使・外務少輔・外務卿代理)。

明治6年(1873年)、小笠原諸島の領有権問題に関し、駐日英公使パークスの訪問をうける。同年3月25日、輸入薬品試験を行う施設の設立を求める上申書を政府に提出(後の東京試薬場)。同年6月12日、内閣に議案として提出した在朝鮮日本公館を巡る問題について開かれた閣議に出席。「朝鮮より退去するか、居留民保護のため武力を用いてでも修好条約を締結するか」という旨の外務省案を提示。同年7月から明治12年(1879年)4月まで、英国在勤(特命全権公使)。

明治12年(1879年)、帰国途中、5ヶ月の三男が病死、アデンにて埋葬。同年9月、条約改正取調御用掛。

明治13年(1880年)2月、外務大輔。外務卿・井上馨の下で条約改正交渉に尽力。

明治14年(1881年)7月、兼議定官。同年、鬱陵島の渡航問題に関し、李氏朝鮮より外務卿代理として抗議を受ける。

明治15年(1882年)7月より明治17年(1884年)9月まで、オーストリア在勤(特命全権公使)。

明治18年(1885年)2月から10月まで、元老院議官

明治21年(1888年)4月11日、死去(享年45)。

ハワイ元年者移民問題

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在朝鮮日本公館問題

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栄典

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位階
勲章
外国勲章佩用允許

著作

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  • 吉元正幸 「上野景範布哇国渡海日記」『研究年報』第11巻 p.63_a-33_a、鹿児島県立短期大学地域研究所、1983年3月, NAID 110000039736
  • 吉元正幸 「出崎中日記」『研究年報』第12巻 p.9_a-1_a、鹿児島県立短期大学地域研究所、1984年3月、NAID 110001033907
  • 吉元正幸 「上野景範渡米日記」『研究年報』第14巻 p.47_a-37_a、鹿児島県立短期大学地域研究所、1986年3月、NAID 110000039748

脚注

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  1. ^ a b c 朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」 『上野景範』 コトバンク
  2. ^ 池田 哲郎「九州英学史 (上)」『英学史研究』第1971巻第3号、日本英学史学会、1971年、94-124頁、ISSN 1883-9282 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 「『上野景範履歴』翻刻編集」。
  4. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  5. ^ 『官報』第1431号、1888年4月11日。

参考文献

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関連文献

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外部リンク

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公職
先代
榎本武揚
日本の旗 外務大輔
1880年 - 1882年
次代
吉田清成
先代
森有礼(→欠員)
日本の旗 外務少輔
1879年 - 1880年
次代
芳川顕正
先代
山口尚芳
日本の旗 外務少輔
1872年 - 1874年
(山口尚芳と共同)
次代
山口尚芳