ムハンマド・ブン・マルワーン
ムハンマド・ブン・マルワーン | |
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死没 | 719年もしくは720年 |
所属組織 | ウマイヤ朝 |
軍歴 | 690年 - 710年 |
戦闘 | マスキンの戦い セバストポリスの戦い アブドゥッラフマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アル=アシュアスの反乱の鎮圧 アルメニアの征服活動 |
配偶者 |
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子息 | マルワーン2世 |
親族 | マルワーン1世(父) ザイナブ(母) |
他職業 | アルメニア総督 任期:695年頃 - 705年 後任:アブドゥルアズィーズ・ブン・ハーティム・アル=バーヒリー |
アブー・アブドゥッラフマーン・ムハンマド・ブン・マルワーン・ブン・アル=ハカム(アラビア語: أبو عبدالرحمن بن محمد بن مروان بن الحكم, ラテン文字転写: Abū ʿAbd al-Raḥmān Muḥammad b. Marwān b. al-Ḥakam, 生年不詳 - 719年もしくは720年)は、ウマイヤ朝の王族であり、主に690年から710年にかけて活動したウマイヤ朝時代の最も重要な将軍の一人である。ムハンマドはビザンツ帝国に対して勝利を収め、ビザンツ帝国が領有していたアルメニアの領土を征服した。その後、703年から704年にかけてアルメニアで起こった反乱を鎮圧し、アルメニアをウマイヤ朝に服属させた。ムハンマドの息子のマルワーン2世(在位:744年 - 750年)は最後のウマイヤ朝のカリフとなった。
出自と経歴
[編集]ムハンマドはウマイヤ朝のカリフのマルワーン1世(在位:684年 - 685年)とザイナブという名の女奴隷の間に生まれた。マルワーン1世の後継のカリフであるアブドゥルマリク・ブン・マルワーン(在位:685年 - 705年)は異母兄弟にあたる[1][2]。
ムハンマドはマルワーン1世がカリフに即位した頃にアルメニアの支配を確保するためにメソポタミア北部へ派遣された。その後、691年に起こったマスキンの戦いで、ムスアブ・ブン・アッ=ズバイル(イスラーム世界の第二次内乱期にウマイヤ朝に対抗してメッカでカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの兄弟にあたる)の軍に対抗するためにアブドゥルマリクの軍の前衛部隊を率いた[1]。692年のセバストポリスの戦いでは大規模なスラヴ人の部隊を説得して寝返らせることでビザンツ帝国の軍隊を打ち破ることに成功した。翌年には同じスラヴ人の助けを借りてビザンツ帝国が支配する小アジアへ侵攻し、ゲルマニケイアの近郊でビザンツ軍に対して勝利を収めた。また、695年にはビザンツ帝国領のアルメニア第四州を襲撃した[1][3][4]。
699年から701年にかけて、ムハンマドは甥のアブドゥッラー・ブン・アブドゥルマリクとともに、アブドゥッラフマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アル=アシュアスの反乱の鎮圧に当たっていたウマイヤ朝の総督のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフを支援するためにイラクへ派遣された[1]。701年にムハンマドはユーフラテス川東方に位置するビザンツ帝国の支配下にあったアルメニア地方に対する軍事行動を率い、その地の住民とビザンツ帝国の総督のバーネスに対してウマイヤ朝への服従を強要した。しかし、ムハンマドがその地を去るとすぐにアルメニア人は反乱を起こし、ビザンツ帝国に支援を求めた。ムハンマドとアブドゥッラー・ブン・アブドゥルマリクは703年と704年の二度にわたった軍事作戦によって反乱を鎮圧し、さらにムハンマドは705年にアルメニア貴族(ナハラル)に対する大規模な虐殺を実行することでイスラーム教徒による支配を確実なものにした[1][3][5]。
705年にワリード1世(在位:705年 - 715年)がカリフに即位した頃からムハンマドは自分と同様に女奴隷の生まれであった甥のマスラマ・ブン・アブドゥルマリクによって自身の立場を奪われ始めた。マスラマはビザンツ帝国に対する軍事行動の主導権を握り、709年もしくは710年には最終的にメソポタミア、アルメニア、およびアゼルバイジャンの総督の地位をムハンマドから完全に奪った。その後、ムハンマドは719年もしくは720年に死去した[1][3]。
妻子
[編集]ムハンマドはほぼ間違いなく非アラブ系(いくつかの史料ではクルド人とされている)とみられる名前不詳の女性との間に最後のウマイヤ朝のカリフとなったマルワーン2世(在位:744年 - 750年)を儲けた。一部の史料はムハンマドがアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの反乱の鎮圧に当たっていた最中にこの女性を捕虜としていたと記録している[6]。
また、ムハンマドはアディー氏族のザイド・ブン・アル=ハッターブの孫娘であるウンム・ジュマイル・ビント・アブドゥッラフマーン、およびウマイヤ家の祖先にあたるアブド・シャムス氏族のシャイバ・ブン・ラビーアの孫娘であるビント・ヤズィード・ブン・アブドゥッラーと結婚した(双方の氏族はともにクライシュ族に属する氏族である)[7]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f Zetterstéen 1993, p. 408.
- ^ Donner 2014, p. 110.
- ^ a b c Lilie et al. 2000, pp. 322–323.
- ^ Treadgold 1997, pp. 335–336.
- ^ Treadgold 1997, pp. 339, 341.
- ^ Hawting 1991, p. 623.
- ^ Robinson 2020, p. 124.
参考文献
[編集]- Donner, Fred (2014). “Was Marwan ibn al-Hakam the First "Real" Muslim”. In Savant, Sarah Bowen; de Felipe, Helena. Genealogy and Knowledge in Muslim Societies: Understanding the Past. Edinburgh: Edinburgh University Press. ISBN 978-0-7486-4497-1
- Hawting, G. R. (1991). "Marwān II" (要購読契約). In Bosworth, C. E.; van Donzel, E. & Pellat, Ch. (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume VI: Mahk–Mid. Leiden: E. J. Brill. pp. 623–625. ISBN 90-04-08112-7
- Treadgold, Warren (1997). A History of the Byzantine State and Society. Stanford, California: Stanford University Press. ISBN 0-8047-2630-2
- Lilie, Ralph-Johannes; Ludwig, Claudia; Pratsch, Thomas; Zielke, Beate (2000) (ドイツ語). Prosopographie der mittelbyzantinischen Zeit: 1. Abteilung (641–867), Band 3: Leon (# 4271) – Placentius (# 6265). "Muḥammad ibn Marwān (# 5189)". Berlin and Boston: De Gruyter. pp. 322–323. ISBN 978-3-11-016673-6
- Robinson, Majied (2020). Marriage in the Tribe of Muhammad: A Statistical Study of Early Arabic Genealogical Literature. Berlin: Walter de Gruyter. ISBN 9783110624168
- Zetterstéen, K. V. (1993). "Muḥammad b. Marwān" (要購読契約). In Bosworth, C. E.; van Donzel, E.; Heinrichs, W. P. & Pellat, Ch. (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume VII: Mif–Naz. Leiden: E. J. Brill. p. 408. ISBN 90-04-09419-9