マリオ・ケンペス
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スペイン・バレンシアCF時代(1980年代前半) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
マリオ・アルベルト・ケンペス Mario Alberto Kempes | |||||
愛称 |
El Matador (エル・マタドール、闘牛士)[1], El Toro (エル・トロ、雄牛) | |||||
ラテン文字 | Mario KEMPES | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1954年7月15日(70歳) | |||||
出身地 | ベル・ビジェ | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 78kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左 | |||||
ユース | ||||||
インスティトゥート | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1970-1973 | インスティトゥート | 13 | (11) | |||
1974-1976 | ロサリオ・セントラル | 107 | (85) | |||
1977-1981 | バレンシア | 142 | (95) | |||
1981-1982 | リーベル・プレート | 29 | (15) | |||
1982-1984 | バレンシア | 42 | (21) | |||
1984-1986 | エルクレス | 38 | (10) | |||
1986-1987 | ファースト・ヴィエナ | 20 | (7) | |||
1987-1990 | ザンクト・ペルテン | 96 | (34) | |||
1990-1992 | クレムザー | 39 | (7) | |||
1995 | フェルナンデス・ビアル | 11 | (5) | |||
1999 | ペリタ・ジャヤ | 15 | (10) | |||
通算 | 537 | (290) | ||||
代表歴 | ||||||
1973-1982 | アルゼンチン | 43 | (20) | |||
監督歴 | ||||||
1996 | ペリタ・ジャヤ | |||||
1996 | ルシュニャ | |||||
1997-1998 | ミネロス・デ・グアヤナ | |||||
1999 | ザ・ストロンゲスト | |||||
2000 | ブルーミング | |||||
2000-2001 | インデペンディエンテ・ペトロレロ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マリオ・アルベルト・ケンペス(Mario Alberto Kempes, 1954年7月15日 - )は、アルゼンチン・コルドバ州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。アルゼンチン代表であった。ポジションはフォワード。ペナルティエリア内に陣取るセンターフォワードではなく、運動量の多いフォワードとして知られ、しばしばペナルティエリア外からもゴールを狙った。
経歴
[編集]選手時代
[編集]クラブ
[編集]父親のマリオもサッカー選手であった。7歳の時にジュニアチームでサッカーを始め、14歳の時に地元のタジェレス・デ・コルドバの下部組織に加わった。1971年、インスティトゥートACコルドバからデビューし、オズワルド・アルディレスなどとともにプレー。1974年にCAロサリオ・セントラルに移籍し、同年にはプリメーラ・ディビシオンで25得点を挙げて得点王に輝いた。セントラルでは105試合で85得点を記録して傑出したゴールスコアラーとしての地位を確立した。
1976年にリーガ・エスパニョーラのバレンシアCFに移籍し、1976-77シーズン(24得点)と1977-78シーズン(28得点)には2シーズン連続でピチーチ賞(得点王)のタイトルを獲得した。スペインでの活躍や1978 FIFAワールドカップでの活躍などから、1978年にはベネズエラのエル・ムンド誌が選出する南米年間最優秀選手賞を受賞した。1978-79シーズンにはコパ・デル・レイで優勝し、1979-80シーズンにはUEFAカップウィナーズカップで優勝。1980年にはUEFAチャンピオンズカップ王者のノッティンガム・フォレストFC(イングランド)を破ってUEFAスーパーカップのタイトルも獲得した。
1981年には母国のCAリーベル・プレートに移籍したが、再びスペインに戻ってバレンシアとエルクレスCFでプレー。30代となってからはオーストリアン・ブンデスリーガのクラブに在籍した。1992年にいったん現役引退したが、1995年に現役復帰して1996年までプレーした。
代表
[編集]アルゼンチン代表としては43試合に出場して20得点し、1974 FIFAワールドカップ、1978 FIFAワールドカップ、1982 FIFAワールドカップの3回のFIFAワールドカップに出場した。
1973年9月23日、ボリビア戦でアルゼンチン代表デビュー。20歳だった1974年には西ドイツで開催された1974 FIFAワールドカップに出場したが、6試合出場無得点であった。
1978年にはセサル・ルイス・メノッティ監督によって母国開催の1978 FIFAワールドカップのメンバーに選出されたが、アルゼンチン国外でプレーする選手はケンペス(スペインのバレンシア所属)ただひとりであった。メノッティ監督は、メンバー発表の際にケンペスを「彼は屈強で、技術があり、スペースを作るのが巧みで、強烈なシュートを放てる。違いを生み出せる選手であり、センターフォワードのポジションでプレーできる」と表現した。
イタリア、フランス、ハンガリーと同組となった1次リーグでは無得点に終わったが、ブラジル、ポーランド、ペルーと同組となった2次リーグでは、ポーランド戦とペルー戦でそれぞれ2得点し、首位で決勝に進出。ポーランド戦では手を使って失点を阻止し、ポーランドにPKが与えられたが、ウバルド・フィジョールがPKをセーブして失点を免れた[2]。
決勝のオランダ戦 (3-1) は前半に先制点を挙げ、試合は延長にもつれ込んだが、105分に持ち前のドリブルから決めた得点が決勝点となった[1]。この大会では6得点を挙げて得点王と大会最優秀選手賞を受賞し、アルゼンチンの初優勝に大きく貢献した。
1982年にスペインで開催された1982 FIFAワールドカップでは5試合に出場したが、大会後は代表に選出されることもなくなった。
指導者時代
[編集]1993年には、古巣バレンシアCFでエクトル・ヌニェス監督のアシスタントコーチを務め、1996年にはリーガ・インドネシアのペリタ・ジャワFCで選手兼任監督を務めた。初めて常勤の監督に就任したのはアルバニア・サッカーリーグのSKルシューナである。短期間の采配期間ではあったが、アルバニアのサッカー史上初の外国人監督となったほか、アルバニアで初めて外国人選手と契約した監督となり、先駆者として名を残した。
1997年にはベネズエラのACCDミネロス・デ・グアヤナ監督に就任。1999年にはボリビアのザ・ストロンゲストの監督となり、2000年には同じボリビアのクルブ・ブルーミングの指揮を執った。
その後
[編集]1999年にはワールドサッカー誌によって20世紀の偉大なサッカー選手100人の73位に選出された。2004年3月にはペレによってFIFA 100に選出された。現在はスペインのESPN Deportesでサッカー解説者やコメンテーターとして活動している。テレビゲームのFIFA 13・南米版ではフェルナンド・パローモやシーロ・プロクーナとともに推薦文を書いている。またバロンドールが60周年を迎えた2016年、フランス・フットボールはヨーロッパの選手だけが受賞資格のあった1995年度以前の賞の再評価を発表した。この期間中の39回のバロンドールのうち12回は南米の選手に授与されたはずだとして、ペレ、ディエゴ・マラドーナ、ガリンシャ、ロマーリオと共に遡及的に受賞価値のある選手として認められた。 ただし、元の受賞者は変更されなかった。
個人成績
[編集]クラブでの出場記録
[編集]クラブ成績 | リーグ | カップ | リーグ杯 | 国際大会 | 通算 | |||||||
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シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
アルゼンチン | リーグ | カップ | リーグ杯 | 南米 | 通算 | |||||||
1973 | インスティトゥート | プリメーラ | 13 | 11 | ||||||||
1974 | ロサリオ・セントラル | プリメーラ | 36 | 29 | ||||||||
1975 | 49 | 35 | ||||||||||
1976 | 22 | 21 | ||||||||||
スペイン | リーグ | 国王杯 | リーグ杯 | ヨーロッパ | 通算 | |||||||
1976-77 | バレンシア | ラ・リーガ | 34 | 24 | 0 | 0 | - | - | - | - | 34 | 24 |
1977-78 | 34 | 28 | 12 | 11 | - | - | - | - | 46 | 39 | ||
1978-79 | 30 | 12 | 10 | 3 | - | - | 6 | 3 | 46 | 18 | ||
1979-80 | 32 | 22 | 2 | 2 | - | - | 9 | 9 | 43 | 33 | ||
1980-81 | 12 | 9 | 1 | 0 | - | - | 5 | 2 | 18 | 11 | ||
アルゼンチン | リーグ | カップ | リーグ杯 | 南米 | 通算 | |||||||
1981 | リーベル・プレート | プリメーラ | 29 | 15 | ||||||||
1982 | 0 | 0 | ||||||||||
スペイン | リーグ | 国王杯 | リーグ杯 | ヨーロッパ | 通算 | |||||||
1982-83 | バレンシア | ラ・リーガ | 27 | 13 | 1 | 0 | 2 | 0 | 8 | 0 | 38 | 13 |
1983-84 | 15 | 8 | 4 | 3 | 2 | 0 | - | - | 19 | 11 | ||
1984-85 | エルクレス | ラ・リーガ | 17 | 1 | 2 | 0 | ||||||
1985-86 | 21 | 9 | 2 | 1 | ||||||||
オーストリア | リーグ | ÖFB杯 | リーグ杯 | ヨーロッパ | 通算 | |||||||
1986-87 | ファースト・ヴィエナ | ブンデスリーガ | 20 | 7 | ||||||||
1987-88 | ザンクト・ペルテン | エアステリーガ | 32 | 10 | ||||||||
1988-89 | ブンデスリーガ | 29 | 9 | |||||||||
1989-90 | 35 | 15 | ||||||||||
1990-91 | クレムザー | ブンデスリーガ | 21 | 5 | ||||||||
1991-92 | 18 | 2 | ||||||||||
チリ | リーグ | カップ | リーグ杯 | 南米 | 通算 | |||||||
1995 | フェルナンデス・ビアル | プリメーラB | 11 | 5 | ||||||||
インドネシア | リーグ | カップ | リーグ杯 | アジア | 通算 | |||||||
1995-96 | ペリタ・ジャワ | リーガ・インドネシア | 15 | 10 | 15 | 10 | ||||||
通算 | アルゼンチン | 149 | 111 | |||||||||
スペイン | 222 | 126 | ||||||||||
オーストリア | 155 | 48 | ||||||||||
チリ | 11 | 5 | ||||||||||
インドネシア | 15 | 10 | 15 | 10 | ||||||||
総通算 | 552 | 300 |
代表での年別記録
[編集]
アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1973 | 0 | 0 |
1974 | 10 | 4 |
1975 | 5 | 3 |
1976 | 9 | 7 |
1977 | 0 | 0 |
1978 | 7 | 6 |
1979 | 0 | 0 |
1980 | 0 | 0 |
1981 | 3 | 0 |
1982 | 9 | 0 |
通算 | 43 | 20 |
代表での得点
[編集]スコア欄はアルゼンチンを左側に記している
# | 日時 | 場所 | 相手 | スコア | 結果 | 大会 |
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1. | 1974年4月22日 | ブエノスアイレス | ルーマニア | 2-1 | 2-1 | 親善試合 |
2. | 1974年5月18日 | パリ | フランス | 1-0 | 1-0 | 親善試合 |
3. | 1974年5月22日 | ロンドン | イングランド | 1-2 | 2-2 | 親善試合 |
4. | 2-2 | |||||
5. | 1975年8月3日 | カラカス | ベネズエラ | 2-1 | 5-1 | コパ・アメリカ1975 |
6. | 1975年8月10日 | ロサリオ | ベネズエラ | 5-0 | 11-0 | コパ・アメリカ1975 |
7. | 10-0 | |||||
8. | 1976年2月27日 | ブエノスアイレス | ブラジル | 2-1 | 2-1 | スーペルクラシコ・デ・ラス・アメリカス 1976 |
9. | 1976年3月20日 | キエフ | ソビエト連邦 | 1-0 | 1-0 | 親善試合 |
10. | 1978年6月14日 | ロサリオ | ポーランド | 1-0 | 2-0 | 1978 FIFAワールドカップ |
11. | 2-0 | |||||
12. | 1978年6月21日 | ロサリオ | ペルー | 1-0 | 6-0 | 1978 FIFAワールドカップ |
13. | 3-0 | |||||
14. | 1978年6月25日 | ブエノスアイレス | オランダ | 1-0 | 3-1 | 1978 FIFAワールドカップ |
15. | 2-1 |
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- バレンシアCF
- コパ・デル・レイ (1) : 1978-79
- UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1979-80
- UEFAスーパーカップ (1) : 1980
- CAリーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン (1) : 1981
代表
[編集]- アルゼンチン代表
- FIFAワールドカップ (1) : 1978
個人
[編集]- FIFAワールドカップ得点王 (1) : 1978 (6得点)
- FIFAワールドカップ最優秀選手賞 (1) : 1978
- アルゼンチン最優秀選手賞 (1) : 1978
- ピチーチ賞 (2) : 1976-77 (24得点), 1977-78 (28得点)
- 南米年間最優秀選手賞 (1) : 1978
- FIFA 100 : 2004
- 南米プレーヤー・オブ・ザ・センチュリー 23位 : 2006[4]
脚注
[編集]- ^ a b 【W杯スター列伝】マリオ・ケンペス、sanspo.com、2010年4月23日
- ^ 1978 World Cup Match Report - Argentina - Poland Archived 2010年6月14日, at the Wayback Machine. FIFA.com
- ^ http://www.national-football-teams.com/v2/player.php?id=13184
- ^ South American - Player of the Century Retrieved on January 3, 2009
外部リンク
[編集]- Argentine Glory Kempes the catalyst for Argentine glory
- Classic Players Mario Kempes
- Observer Sport biography
- Futbol Factory profile (Archived)